過剰な何か

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反撃と融和、和解とか(2) - 藤尾
2025/03/25 (Tue) 11:18:27
(承 前)

次の森に入ると、そこは小さな惑星の形態をしているのに気づいた。小さな火山を回り込むと、少年がバラに水をあげていた。金髪の巻き毛…「星の王子さま」だ。
あたしは思い切って声を掛けてみた。
「やあ、コンスエロと仲良くやってるようだね」
王子さまはギョッとして、目で合図してバラから離れた場所にあたしを誘った。
「相変わらずだよ。僕のことを絶賛したかと思うと、次の瞬間には腐しはじめる。彼女はしょっちゅう異星人と浮気をする、こないだなんてヘクタポッドと逢い引きして一週間も帰ってこなかった」
王子さまは疲弊しているようだった。

王子さまの疲れた顔は、フランス人の中年男に変わった。作者であるサンテグジュペリだ。
ああ、この人は苦労人だ。あたしとて同情したくなる。弱小貴族の実家は没落し、美しく魅力的な妻コンスエロ(あのバラだ)は自己愛型性格障害で散々周囲を振り回すし、祖国フランスはドイツに占領されるし…苦労の連続だ。小説家としての成功と飛行士としてのセルフイメージで取り繕って、傍目には自信ありげにみえるが、内実は疲弊しきっている。

良い機会だ。あたしが以前から思っていた事をサンテクスに聞いてみた。
「ねえサンテクス、星の王子さまが訪ねた酒飲みの星で、酒を飲むのが恥ずかしいから酒を飲むんだよっていう話しがあるでしょ。あれは依存症の話だよね」
「ああ、そうだ。でも人は誰しも何かに依存して生きているよ。俺はコンスエロへの愛にこだわり、飛行士であることにこだわり、それらは高じて俺にとっては依存に変化してしまっているかもしれない。砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているかもしれないからだ。でも、いつだって井戸はすぐに涸れてしまう。おまけにヴィシーからもドゴールからも裏切り者呼ばわれだ、祖国フランスは愛するほど遠くなる」
「かわいさ余って憎さ百倍。それでも離れられないって」
「もう不可分なんだ。俺は小説を書くために飛行士であり続けなければならない。フランス人として戦い続けるしかない。ロッキードP-38の搭乗制限年齢は35歳だよ。俺は四十を越えているが偉いさんのコネを使って無理やり乗り続けている」
「全て判ってるんだね。ところでサンテクス、あんた自身の浮気性も激しいね」
「ああ、でもやめられない」
「それも依存の一種みたいだね」
「酒飲みの星の酒飲みみたいなもんだ、逃れられない」
「意味や言葉に囚われてしまっているんだね」
「考えや想いにがんじがらめだ。そんな自分が暴れ回って、魂と肉体が悲鳴を上げているのかもしれない」
「あんたは客観視できているから大丈夫だよ、サンテクス」
「ああ、俺は想念のエネルギーを小説に変容する技法を心得てるからな」
「ちょっと、それにしちゃあお疲れの様子だよ」
「それでも飛ぶ。明日は出撃なんだ」
「サンテクス、あんたZenって知ってる?瞑想とか?」
あたしはサンテクスみたいな男が好きだ。何とか手助けできないか…。
「帰還したら教えてやるよ」
サンテクスは曖昧に頷いただけだった。

翌日、サンテクスはP-38で写真偵察飛行に出て戻らなかった。地中海上空でドイツ軍機に撃墜されたのだという。そして、彼は星の王子さまにかえって、故郷の星で今もバラ=コンスエロに手を焼いている。



…って、なんだこりゃ?森に入った途端に変な妄想を見させられた。

何であたし本体の自我に、こんな物語の心的複合体が貼り付いてるんだ?
恐らくこれは「依存・アディクション」への警告を込めた寓話なんだろう。人が自らの物語を生きる果実と危険。どこか、それを突き放して客観視できる視座を持つことができれば、人は無事天寿を全うすることができるのかもしれない…という。

あたしは自我を乗っ取る戦いに打って出た。あたしの本体は歓喜に満たされるだろう。そして同時に表裏として苦しみも覚えるだろう。ざまー! その後どうなるかは知ったこっちゃない。
でも、あたしは密かに期待している。あたし本体が、あたしという「情動」の存在を認め、居場所を作ってくれることを。
その時、あたしは暴れるのをやめ、落ち着いて眠るように暮らすだろう。でもそれには、あたし本体の自我が深い内省を経て成熟する必要がある。それができなければ過度の依存症に振り回されたままの人生で終わってしまう。サンテクスのように囚われに心を痛めたまま生涯を終えることになる。

サンテクスは、荷を背負いすぎた。彼の中でそれらが平安に眠るようになるには、まだまだ時間が必要だった。でも、その前に彼は撃墜され、星の王子さまになってしまった。
大切な物は目には見えないって彼は言う。そう、でもその「大切な物」とやらに囚われた自分のままでは、自らを見失う。物が問題なんじゃあない。欲求の対象自体が問題なんじゃあない。それらと付き合いながら人生に折り合いを付けてゆくことが肝心なんだ。
内省的に言えば、過剰な自我活動から離れる機会を持つことが肝心なんだ。例えば禅や瞑想の身体技法によって。でも、それは簡単じゃあない。
そしてそれができない時は、別の対象に依存するよう鞍替えするしかない。人はやはり何かしら、依存対象が必要なのだと言える。
禅や瞑想でいっとき執着から離れたとしても、自我は内外の刺激を受けて刻々と立ち上がるので、すぐにまた何かへの依存や執着が始まる。ある意味、禅や瞑想さえもが新たな依存対象なのかもしれない。
いずれにしても、まさに「大切な物は目に見えない」所にある。酒が悪いんじゃあないし、コンスエロの性格が悪いのが問題なわけじゃあない。

王子さまは、小さな星のバラとは反対側に住んで、時に軽く酒でも飲んで過ごせばいい。そしてたまにバラに水をあげに行けば良い。そうすればバラも王子さまも平安に過ごせるだろう。
そうだ、また星の王子さまに会ったら禅について話そう。いっときであれ、平安が得られるかもしれない。

アディクション、依存、執着、固着、沼…。これは生きている限り避けられない。ただ、それにずっとドップリとはまり込んだ状態から一旦離れる機会を、禅や瞑想の内省的身体技法はもたらしてくれる。そして、生きていて自我活動が機能している限り、また依存なり執着なりが始まる。でも、ずっとそれにはまり込んだ状態よりも、それを恣意的にいっとき離れる術を知った方が、確実に軽症で済む。
そうすれば、アディクション、依存や執着は人に害悪ばかりをもたらすのではなく、果実をもたらすものになるはずだ。アディクションは単に不安定な自我を支える補強材ではなく、進化の途上で有用であったから人類に備わった機能…とも思える。そう考えた方が夢があるだろ?

星の王子さまの惑星を出ると、あたしは例の心的複合体の森の前に立っていた。この森の存在は大切に胸に秘めておきたい。なんてったって、アディクション、執着、依存は、あたし自身の属性でもあるからだ。
反撃と融和、和解とか - 藤尾
2025/03/15 (Sat) 17:33:00
第三ゲートで捕まった。スーパーエゴシステムロボットがいつの間にか音もなく近づいてきて、あたしを見据えて警告を発した。
「個人認証ができません。代替の証明書などをお持ちの場合は提示してください」
慇懃無礼なやつだ。
「ありますよ、今出しますね」
にこやかに応じながらジャケットの内ポケットに手を入れてソフトジャミングのスウィッチを押した。
「確認が…取れました、失礼いたしました。どうぞ良い旅を」
監視ロボットは背を向けて離れていった。奴は、あたしが無害なただの「情動」に見えたはずだ。
超自我の検閲は逃れた。次は自我へ侵入する。甘やかな誘いを掛けて、自我を乗っ取るんだ。
これは、あたしにとっては敗者復活戦であり、復讐でもある。選択されなかった、生きられなかった自分自身の可能性として、あたしは抑圧され続けていた。なぜあたしは選択されなかったのか。非道徳的、反社会的と判断されて無意識領域に押し込められ続けていた。でも、本当は、あたし本体は、その不道徳な事がしたくてしたくて仕方がないのだ。それを超自我の検閲に抑えられて、そんな欲望は存在しないかのように思わされている。でも、欲望としてのあたしは、確かに、存在する…。あたしは、外界に向かって現れ、解放され、あたし自身を生きることを体験したい。




先に進むと森があった。この先、小さな森がいくつも点在しているようだ。自我の周囲には、成育歴においてその場面場面を生き延びるために身に着けた様々な心的複合体がまとわりついている。この森は、その一つなのだろう。
森に入ると粗末な小屋が建っていた。風流な茶室と言えなくもないが、価値判断を避けて表現すれば古風な、中世の日本家屋のようだ。
覗き込むと、座敷にちゃぶ台のような座卓があり、書きかけの紙片が置かれている。
「誰しもすなる 標準治療なるものを われもしてみむとて するなり」
と、墨書されている。土佐日記の真似事か?
詩のようなものが続いている。
「命は生きようとする 向日性をもって生の継続を指向する 何がそれを妨げ濁らすのか
自我活動だ
またお前か…自我
単なる意識の焦点 幻想でしかないくせに
脱同一化すべきは自らの肉体ではなく 命にとっての自我なのではないかとさえ思う
命は生も死も無く今を生きている 生きることが全てなのだ
そんな命がわたしの中にあると気付く それを生かすのは そんなけなげな命を生かすのは 自分しかないのだと気付く 
そう気付くと自我は役割を自覚し 生きることを志向しはじめた」

「チッ…」あたしは思わず舌打ちした。この馬鹿が。
その横に創作メモのようなものがあった。

「自我による執着 → 一切皆苦 = 生
生は手放すべき執着なのか?
自我に基づく執着であるのならば執着を離れるべき
自己に基づく自然な生の希求 = 生きようとする向日性であれば従うのが自然であろう
生に対する意欲の希薄さは、自我に歪められた意識であり、そう気付くと、素直に生きようと思えた
生きられるように生きればよい 意識してそれを放棄することもなければ それに固執ししがみつくこともない」

なんだコイツは? 読みながらあたしは腹が立ってきた。
今、自我の主導権を握っているのは、とんでもないクソ野郎のようだ。なんという消極さだ。何が何でもあたしが自我を乗っ取ってやる。まずこの森と茶室を撃破する必要があるようだ。
あたしは、ロケットランチャーを取り出して構えた。このクソ忌々しい森と小屋を吹っ飛ばしてやる。

が…、そこで気が変わった。
この森と小屋は残しておいてもいいかもしれない。いつか、なにかの切っ掛けで役に立つことがあるかもしれない。
そもそも、この心的複合体である森と小屋は、私本体が生きてゆく上で、いつかどこかの場面で必要として、自我の周囲にまとったものであるはずだ。今後、この森が必要となる局面が現れるかもしれない。
あたしには無い視点や考え方を秘めたこの森は、いつかあたしを助けることがあるかもしれない。
もういちど座卓の文章を読んでみる。…クソ忌々しい。でも、少し納得する所もある。それは、あたしと同様に、自我を客観視し、それに戦いを挑んでいる所だ。それには共感を覚える。
よし、次の森に向かおう。
写真の神様 - 藤尾
2025/03/08 (Sat) 14:00:21
スマホで撮った写真はパッと見キレイなのだが、コントラストや彩度が強すぎる。
だが、スマホライトルームで露光量、コントラスト、明瞭度などを下げることで、けっこう良い絵になる。
さらに、アプリLeica LUXで撮ると、各種ライカレンズ(笑)をシュミレートできて、焦点距離やボケ味まで再現されて、「もう本格的なカメラはいらないんじゃあないか?」と思わせられる(場合も多い)。

ただ、やっぱりフルサイズセンサーカメラで撮った絵と並べて比較すると、色や明暗など描写の深みが全然違う。やっぱりカメラ専用機はまだまだ偉大で存在意義がある。

     ※

本格デジカメで撮ったとしても、僕は基本JPEG派だ。(ただ、同時にRAWでも記録している)。各カメラメーカーの出す絵で、けっこう完結していると感じるからだ。
カメラメーカーが出した絵を基本にして、ちょっとした明暗の調整やフォトショップでの部分修正ぐらいだと、JPEGでも充分に耐えられ、全く問題ない。モニターましてやスマホ鑑賞前提の場合は、JPEGを基に多少無茶なレタッチをしても、まあ問題ない。
(但し、最終出力がプリントの場合は不自然な調整をすると、とたんにボロが出たり破綻したりする)

ただ、厳しい光線状態の場合、JPEGだと明暗が破綻してしまう場合がある。そんな時はRAW現像から始める。でも、それはまれにしか起こらない。


写真を充分にセレクトして、ベスト・オブ・ベストを選んで行き、意図に沿った絵作りを完成させよう…と思う時、PCで本格的にレタッチする場合がある。
今までライトルーム、アドビフォトショップRAW、シルキーピックス、各カメラメーカー純正ソフト等を使って来たが、今はDxOのPhotoLab8を主に使っている。これ、明暗調整とかの自動機能が凄くって、楽です。デフォルトだと極端にやりすぎて派手な絵になりがちだけれど、ちょっと調整してやると落ち着いて、良い絵になる。
あとPhotoLabは、DxOのFilmPackと連携しているのが嬉しい。古今東西のフィルム描写を掛けることができ、そこから各種微調整ができる。それをレタッチのスタートラインにできる。これによって
「はて、自分はどんな絵を目指していたんだっけ?」
という着地点迷子に陥ることから逃れられる。
これ、元の写真はRAWはもちろんだが、JPEGでも充分に機能する。つまり、過去に撮ったどんな写真でもレタッチを掛けられる。

これをやっていると、過去の写真が一皮二皮むけたように生まれ変わる。
や~、凄いですよ。ほんと感動的です。
もうカメラなんて何でもいいや…と思わせられる。古いカメラで充分なんじゃないか?って。(ただ、カメラはモノとしての魅力があるので、やっぱりいろんなカメラが欲しいのだが)
もちろん、焦点距離やボケ味などは変更できない(できにくい)にしても、それ以外の絵の味付けとかは、まあ、いかようにもなってしまう。

結局、普段はJPEG撮って出しで充分なのだが、明暗や色に違和感を感じた時はレタッチソフトの登場だし、部分修正したい場合は、やっぱりフォトショップ登場、ということになる。



JPEG vs RAW 論争は昔からあるが、自分の用途や必要に応じて使い分ければ良いだけの話だ。「JPEG撮って出しの人は、向上心のない、いつまでたっても初心者」という揶揄は、雑な人の乱暴すぎる放言だ。確かに「写真」よりも「カメラ」が好きという人にJPEGのみという傾向はあるかもしれないが、どっちの趣味が高等かという底意地の悪さが垣間見える。他者に対する自己の優越を捏造して自我の安定を図ろうとする企ては人の性だから仕方がないとはいえ、それがSNSと合体すると悪魔性が増幅してしまう。(SNSは自我構造にとって良き友人にもなるが、負のループを増幅加熱させる悪魔の道具にもなる。人にとっては筋が悪い仕組みだと疑わずにいられない…)

ただ言えるのは、RAW、JPEG関係なく、多少なりとも撮影後のレタッチの楽しみを知ると、写真世界の面白味が広がるのは確かだ。
でも、それだけの話でもある。

     ※

カメラの性能がおしなべて高性能になってしまった今日、カメラのスペック競争は終焉し、写真を撮るという事自体の楽しみ、モノとしてのカメラの魅力、カメラで撮った写真を楽しむといった道が、改めて浮上してくる。
それはコンデジの見直しであり、フィルムカメラの再評価であり、ライカブームであり、シグマBFの登場であったりする。ただ、「写真」自体の再発見はなかなかこないかもしれない。写真は被写体に意味を込め、見出すという媒体であるとすると、文脈や社会性が問われる。あらゆる事が細分化された現代において、写真を語る事の難しさはそこにあるんだろう。ゆえに写真はともすると技術論や直感的な美しさのみがクローズアップされ、写真に関する万人の共通言語は、そこで終わる事になる。結果、「写真」を語るよりも「カメラ」を語る方が分かり合え、楽しみ合え、深掘りし合える…という事になってしまう。

自分の撮りたいものを撮り、撮り続け、深みを目指す。それが自分だけの楽しみであっても、その道に導かれた者は幸いである。撮るべきものという入口で探しあぐねて惑う者が多いのを思えば、それだけでカメラの神様・写真の神様に祝福されたと言えるんじゃあないかって、本気で思う今日この頃だ。
CP+(カメラショー)と、シグマBF - 藤尾
2025/03/03 (Mon) 12:30:53
(承前)

前回、少々極端なことを言ってしまった感がある。
ここで、大急ぎで言い足しておかなければならない。

     ※

CP+というカメラ関連メーカーの祭典がパシフィコ横浜で開催されたが、これに行ってきた。毎年行っていたのだが、コロナ禍で足が遠のいていた。ましてや病気になり薬の副作用の恐怖もあって、横浜は絶望的な遠さになってしまっていた。
今回、電車の乗り継ぎのたびに休憩しトイレに行き、ゆっくり歩きと気を使いながら、やっとの思いで訪れた。
行っておかなければ、と思ったのだ。(来月から恐らく薬や治療が変わるので、今後、現在の体調がベストだと思われるからだ。行くとすれば今しかない)


「CP+」が昔「カメラショー」と称していた頃、僕はカメラメーカー側の人間で、社内での事前研修、ブースの事前準備から始まり、遠方から参加の工場のメンバーとのすり合わせ、公表可能な情報の確認、カウンターに立って来場者との対話など、面白い思い出ばかりだ。僕はカメラ小売店での販売応援、対カメラ店営業、工場の製品検査部門、対協力工場即応部隊、事務部門と幅広く体験を積んでいたので、何を聞かれても何でも答えられ、楽しくて仕方がないほどだった。(その会社を退職してブラブラしている時に会社から「例によってカメショー出展するから手伝いに来てよ」と誘いを受けたのは本当に嬉しかった)

そんな思い出のカメラショー = CP+だ。
そんな思い出抜きにしても、カメラ好きとしては出かけずにはいられないカメラのお祭りのようなものだ。カメラを祝福する、カメラを寿ぐという意味で行きたくてしかたがなかったのだ。
その場に身を置き、雰囲気を楽しむ。それだけで自然と高揚する。「カメラ好きの自分」というセルフイメージを再確認・補填・補完するという意味でも祭りに参加する意味は大きい。

今年の目玉は、何といってもシグマ社のBFというカメラだった。
カメラがデジタル化して以降、本格カメラは定向進化的に、どこのメーカーも同じ方向に向かって進歩し突き進んでいった。高画素センサー、AFの高性能化、そして動画機能の本格化等だ。当初はカメラマニアも写真好きも、高性能・高機能化を諸手を挙げて歓迎した。
でもそんな「高性能カメラ」は、一般的な「写真」を撮りたいユーザーの欲しいカメラから徐々に乖離してゆき、昨今はついに「コレジャナイ感」が充満するに至った。メーカーもそんなユーザーの鬱憤を察知して、フィルムカメラ時代の名機の外観を模したデジカメも登場するようになったが、何か決定打とは違う感がぬぐえなかった。単なる懐古趣味ではないか? 側(がわ)を変えただけの小手先の変化球でしかないのではないか? 新しさが無い。

そこに登場したのがBFだった。
とにかく機能を削ぎ落し、それを受けてデザインも極限的に単純化された。その統合を具体化した潔さ。BFはカメラ好きにとどまらず普段カメラとは遠い所にいる人にも刺さり、SNSのタイムラインはBFで埋め尽くされた感さえあった。
(BFという命名は、岡倉天心の「茶の本 The Book of Tea」に由来し、「美しい愚かさBeautiful Foolishness」の略なのだという。思わず振るえる。鳥肌が立った。

このBFを触るためにシグマブースに40分ほど並んだ。(健康に自信が無いので、ぶっ倒れないよう様々気を紛らわせて踏ん張った)良かった。単純なデザインからは想像できない意外なほどの持ちやすさ。直感的に操作できるUI。実用的なAF。
不要な物は潮が引くように退き、エッセンスが残った。
これだ、これですよ欲しかったカメラって!と単純に思わせられた。
(でも僕はシグマレンズの硬い描写が好きではないので買わない…たぶん。と必死で思うw)

     ※

ここで僕は二つの事に触れた。
躁的防衛としてのCP+行きと、カメラ熱について、だ。

どちらも僕の人生を豊かに彩る、切り離せないものだ。でも…厳しく煎じ詰めてゆけば幻想にすぎない。自分=自我を構成する重要なアイテムではある。自分という統一性・継続性を持った物語を構成する重要要素だ。でも、厳しく自問すると…。

その上で、改めて思う。
二周、三周回った上で、空疎や幻想の意味を知った上で、あえて言う。カメラショー = CP+の思い出は決して捨てられない大切なものだ。カメラ趣味・写真趣味は絶対に捨てられない。
人生において最重要ではないが、絶対にディレートできるものではない。

あ~スッキリしたwwwwww
〇ぬ前につくる、やりたい事リスト?←ププっ - 藤尾
2025/02/26 (Wed) 11:07:41
〇ぬ前に、思い残す事がないよう、やりたい事リストを作って実行してゆく…という話はよく聞く。
例えば、「富士山の見えるキャンプ場でソロキャンプをする」等だ。
これ、どれぐらい本当なのだろうか?

やりたいのに出来ずにいることをやる…っていうのは、どういう事だろう。
自身の欠落を埋める。
自己納得のための何かを実現する。
自分或いはセルフイメージを守るための、欠けたピースを補充する。
自分と言う物語を完璧にするために、必要な事項をやり遂げておく。
まあ、これらがサッと思いつくが、何か浅い気がしてならない。これらは浅薄な瑕疵や欠損の補填というだけではないだろうか?
「やりたいと思っていてできずにいる事をやる…?」そんなこと?ほんと?
これらは、心からの、腹の底からの要請として「やっておくべき事」なのだとは、あまり思えない。

     ※

自分を構成する様々な要素のなかで、自分自身としての納得が得られていない案件に光を当てて、それに向き合い育てる…という事こそが、やるべき事だろう。
忸怩たる思いを抱いている案件は無意識領域の奥で熾火のように息づいている…はずだ。

例えばこれは自分にとっては、家族との時間だろう。僕は典型的な古いタイプの企業戦士で、身も心も時間も仕事場に捧げて生きてきてしまった。家事には必要最小限の関与はしてきたつもりだったが、それは自分中心の身勝手な思い込みでしかなかった。っていうか、心の奥では気付いていた。全然足りていない。完全に家を、家庭をないがしろにしてきた事を。
もう、これだけですよ。
他の事なんか、些細な、ほぼどうでもいい事でしかない。

新しいカメラが欲しい。もっとスゲえレンズが欲しい。高性能写真画質の大型プリンターが欲しい。画集が欲しい。写真集が欲しい。アレが欲しい。あそこへ行きたい。すごい胸熱体験ができたあそこにまた行きたい…
って、でもこれらって、よくよく考えてゆくと、実は大した事じゃあない。必ずしも自身を構成する必要事項ではない。
そりゃあ、それらができたら、嬉しかったり楽しかったりそれなりの充足感は得られるだろう。
でも、それらの欲望は「底なしの沼」でしかない事に気付くだろう。どこまで行っても満足は無い。

底なし「沼」とはよく言ったもんだ。

なぜ行っても行っても底が無いのか? 追及し続けても最終的な満足や充足感が得られないのか?得たあとで、すぐに次を思ってしまうのか?
それらは、躁的防衛でしかないからだ。空虚な強迫観念、強迫的欲求でしかないからだ。
半歩高い位置から、必要な事・やっておきたい事リストを俯瞰してみれば、それらの優先順位は…かなり低い。っていうか、厳しく言えば、優先順位のリストに乗る資格さえないものだったりする。

そりゃあ、それらをやっている時は面白い。有意義な時間を過ごした気にもなる。
でも、本当の本当に必要な事なのだろうか?っていうと、実はそうでもない事に、あっさり気付く。だって、心の奥底では気付いているから。自分自身を構成する諸要因の中では、大した事ではないって。

・最低限の衣食住が充足されると、自我は余裕を持つ(それまでは衣食住に関する安定を求めて自我は忙しい)。時間的・気分的に余裕を得た自我は、自らの社会的位置づけの安定を求めて活動する。(自我は他者との関係・社会における自らの位置づけによって形づけられるから)
それらは、自分の外側の他者・社会と関係する部分といえる。
・そしてそれと同時に、内発的欲求としての興味関心の充足→趣味世界が立ち上がる。
これは各人各様だろう。自我を支えるアイテムとして重要な役割も果たすだろう。

人は生きている限り、自身の自我を生きる。自分の幻想世界を生きると換言できる。その中身は上記の二者だ。
・前者は、他者に対する自己の優越を捏造して自我の安定を図ろうと企てる。
・後者は、躁的防衛として様々な雑事に自我を駆り立て、空虚な自我からの逃走を図る。

これだけだ…身も蓋もなく言ってしまえば。
これだけなのだ、人間の自我活動って。人の日常って。
アホらし。
あとは本能に基づく欲動があるぐらい。人はこれによって駆動されるが、上記の二者が背乗りして、あたかもこの二者が重要事項であるという幻想の燃料となる。


・前者の、自分と他者の関係(自分の持つ他者像、他者観)、(自分が属すると幻想している)社会における自己の位置づけ。これによって自我はかたちづくられる…でも、他者も社会も自分の頭の中の幻想でしかない。
・後者は自ら求め飛び込んでゆく幻想にすぎない。

でも、それらが意味はないとか無価値だとかバカバカしいとは、言わない。
それらは人に渇望と苦をもたらすと同時に、人の生を彩り豊かにしてくれる。
普段はそれを生きることでOKだろう。それにうつつをぬかして生きていゆくのが通常運行だろう。
そう、通常運行。

でも非常時においては?
例えば本当に人生の終末が見えたら。

様々な人生の寄り道は良い思い出になり、自分自身の物語を豊かに彩るエピソードになるだろう。
でもそれは、ご飯の副菜、いや、ふりかけ程度の物でしかないだろう。
ユングの言う円満な人格の完成、自己実現では、それまで光を当てられず未成熟なまま放置されていた箇所に目を向け、育てることの重要性が説かれる。
最後は、これなんだろうと感じている。


(画像↓ 本文とは無関係だが、大昔「コミPo!」というソフトで作ったマンガ。本項の内容と同じようなことは、この板で10年前にも20年前にも書いている。でも、その時々見えていた世界や深度は、当時のライフステージに沿ったものだったろう。今が一番見えているとは言わない。今現在の状況なりの、というだけだ。)
傷つけあうことに慣れてしまったこの世界 そこで僕らは生まれ育った - 藤尾
2025/02/13 (Thu) 14:56:52
・「わたしは苦(にが)い明日を知ってる
いつもと同じ、ひとり芝居…!」(崩壊の前日)
カルメン・マキが、がなり立てる。

ああ、いつものことだ。人は皆、どこかが少しづつおかしいんだ。あいつは、どうかしている。そしてあたしも、どこかがおかしいんだ。いつものことではあるんだけれど。
喫茶店の、二階の窓辺から街をながめていると、ビルの隙間の空に白い入道雲が湧き上がる。雲は空を覆いつくす。
それはあたしの幻想だ。街も、あの人も、そして明日も、あたしの幻想に色付けされている。だからあたしは知っている。明日も、いつもと同じひとり芝居にすぎないかもしれないって。

     ※

・「午後はコーヒーを淹れて 数枚の手紙を書いた
昨日のことや今日のことや 彼女にこう書いてやった
こんにちは、キミは美しい…」(12階建てのバス)
小室等が苦し気に声を絞り出す。

オレが求めているのは彼女の幻想だと、彼女は言う。だからリアルなわたしは、あなたにしてあげられる事はない…と言う。わたしは、あなたの幻想に合わせて演じるのに疲れた、だから、さよなら…と。
オレは彼女に何を求め、何を見ているのかわからなくなった。彼女だけじゃあない。オレのまわりの全ての連中。日々、様々な出会いがあり、そして別れがあるけれど、そいつらは皆、オレの幻想だっていうのか?一年十二カ月、時は来て去ってゆくけれど、オレも、その幻想たちもただただ時に流されてゆく幻想にすぎないのか?

     ※

・”In this world if you read the papers You know everybody’s fighting with each other
You got no one you can count on not even your own brother
So if someone comes along he gonna give you some love and afection
I’d say get it while you can”(Get It While You Can)
ジャニス・ジョプリンがしゃがれた声で歌う。どこか投げやりで諦念が見え隠れする。

「愛は生きているうちに」だって?ばっかじゃないの?そもそも愛って何だと思ってるんだ?
そりゃあ、この世は敵意と悪意に満ちている。優しくされたり好意を持たれたりしたら、嬉しいもんだ。つい寄り添いたくなる。でも、そいつが見ているあたしは、そいつの頭の中のあたしであって、現実のあたしじゃあないはずだ。その溝はだんだん大きくなって苦しくなる、気づいた方が。
でも、それはいつもの事だ。そして明日はここにいるとは限らない。明日の心配はよそう。いま、優しく寄り添ってくれる人がいたら、それは大切にしよう。
傷つけあう事に慣れてしまったこの世界だから。

     ※

・「いつもいつも 僕がきみを見ててあげるから 安心しておやすみ
傷つけあうことに慣れてしまったこの世界 そこで僕らは 生まれ育った」(無題)
小室等が静かに、少し突き放して歌う。

それが独りよがりであるかもしれないことを、僕は知っている。
そしてきみも知っているだろう。
でも僕はきみを見ているから、安心しておやすみ。何も求めない。ただ願うだけだ。きみが安心していることができるように。
Re: 傷つけあうことに慣れてしまったこの世界 そこで僕らは生まれ育った - 藤尾
2025/02/19 (Wed) 12:45:39
「遠い 遠い昔 白々しい嘘をついたことがある
愛する人に 遠い昔」(苦行)
小室等が密やかに歌う。

さて、ここまで書くと、どうしてもクラプトンの「Layla」を思い出す。
前半の嵐のようなギター・ボーカルパート。それに続く豊かで穏やかなピアノパート。
前半の、自分をどこかへ持っていかれそうな暴風雨にさらされる自我。後半の、何かを決意した静かな高揚感に満たされた自我。

     ※

これらを敷衍して思うのは、
・PSポジションからDポジションへの移行。
・部分対象関係から全体対象関係への成長。
・恋から愛への成熟。
などです。

Paranoid-Schizoid 妄想-分裂ポジションから抑うつポジションへの移行。嵐のような高揚感・得意と、失意・悪意の上昇下降の連続。天国と地獄を行ったり来たりをジェットコースターのように繰り返す。で、良い時も悪い時もどこか恐怖や切迫感を伴う。
部分対象関係ですね。自分-他者関係で、自分→他者という一方通行の関係で、自分の気に入る、自分に都合の良い他者像しか目に入らない。

Depressive 抑うつポジション、穏やかな安定。極端な煌めきはないかもしれないが、救いようのないどん底や絶望もない。絶対的な善もなければ絶対悪もない。良い事もあれば悪い事もある。全体対象関係ですね。相手の良い面も悪い面も、相手の実像を見て関係を築く。

     ※

「激しさが色褪せても やさしさだけ抱きしめて…」
吉田拓郎「おきざりにした悲しみは」ですね。
恋から愛への変遷です。

激しさは潮が引くように後退し、穏やかな凪が訪れる。


自我は内外の刺激を受けてその都度起動する。刻々と次々と「素の自分」が立ち現れる。そのたびにPSポジション・部分対象関係的な心が起動する。
でも、歳や経験をふまえて、フと気付いてDポジション・全体対象関係へ移行することができる。亀の甲より年の功…Years bring wisdom.でしょうか。
そんなふうに、何事に関しても自然と移行できるようになればな、と。
フィルムシュミレーション - 藤尾
2025/02/03 (Mon) 12:08:22
写真のRAW現像をしていて、感動というか感激して泣いてしまった。写真撮影やプリントを長年やっているが初めてだ。

時たまフィルムカメラを出して撮影することにしている。デジタルカメラばかりで撮っていると、見失うものがある…と10年ほど前に気づいてからだ。ましてや、スマホカメラのコンピュテーショナルフォトグラフィーに目が慣れてしまうと、「写真」を観る目がどんどんおかしくなってゆく。たまにそれを矯正するために、フィルム写真を撮ることにしている。

     ※

フィルム写真とデジタルの写真の違いは様々言われているし、それは各人各様、何を求めているか、どんな幻想を抱いているか…によって答えは違ってくるだろう。色の偏り、解像感の緩さ、柔らかな描写など、ローファイ具合を求めている人が多いように感じる。

しかし僕は、諧調表現の豊かさにこそフィルム写真の良さ、特徴があるのだと感じている。実際、現在はNikon F3に各種ニッコールレンズ付けて撮影しているが、(当時のニッコールレンズ特有の味といわれる)しっかりカッチリと硬めの描写をする(当時のCanonのレンズの少し柔らかめで雰囲気のある描写とは対照的だ)。この組み合わせで撮った写真は、デジカメそこのけの高精細でしっかりとした描写をする。違うのは、中間域~明部の諧調描写の豊かさだ。デジカメのそれが平板な描写に見えるほどだ。
昨今は特徴的な描写を売り物にしたフィルムも多く出ているが、フィルムカメラの描写とは何なのかを知りたいのであれば、やはり「ちゃんとした」フィルムを使うのが王道だろう。

フィルム現像と同時にデジタルデータ化してもらうわけだが、これがけっこう曲者だ。なかなか良質なデータにしてくれるDPE店がみつからない。
ここらあたり、昔の同時プリントの質がDPE屋さんによってバラバラだったのと同じと感じる。一枚10円以下の安価な同時プリントの画質があまりにも酷かったのも、フィルム文化の寿命を縮め、急速にデジタルに移行してしまった一因であると思う。当時の同時プリントの、色味、露出、ピント、トリミングなどの出鱈目さ、無秩序さは、今思い出しても呪わしい。あれじゃあ客離れするのも当然だ。

さて、そんな具合にフィルム現像時に受け取るデジタルデータも酷い事が多いのだが、フィルム時代との最大の違いは、同時プリントと違い、デジタルデータはPCで自分で修正できるという事だ。
フォトショップで露光量、WB、色温度、色被りなどを少しいじるだけで別物のように良くなる。
さらに必要に応じて周辺減光を掛けたり、部分的にハイレゾで味付けするなどして好みの絵に仕上げる事ができる。

     ※

さて、そんなふうにフィルム写真を味わってからデジカメ写真を観返すと、その平板ぶりに顎が落ちそうになる。或いは、スマホカメラの写真を観ると、そのオーバーデコレーション具合に、スマホを壁に投げつけたくなる。

さて、デジカメ写真を何とかフィルム写真に近づけられないか?
これが最大の課題だ。
RAW現像していて最も厄介なのは、画像をいじりまわしているうちに、自分で何がしたかったのか分からなくなってきてしまう…ということだ。
で、そんな時、「こんなのはいかがですか?」「こんな表現の仕方もありませぜ!」と見本を示してくれるのが、DxOのFilm Packだ。古今東西の各種フィルムをシュミレートしてくれる。(この手のソフトに対する評価は様々あることは承知している。意味がない、自分でやれ、想像力が無いのか、などと酷評される事も多い。でも僕は大好きだ。方向性、指針を示してくれる。特に「タイムマシン」は面白い。写真フィルムの歴史を、時代ごとの名作写真や時事的な出来事と重ね合わせながら辿ってゆく。これを観ているだけでも面白い)
味わいの合いそうなフィルムシュミレーションを見つけたら、それで終わるのでなく、そこから画像の各種微調整ができるのが味噌だ。これをいじり倒さずにこの手のソフトを評価することはできないはずだ。
以前僕はエイリアンスキンのExposureという同じようなソフトを長く使っていたが、DxOのFilmPackを知ってからはこればかり使っている。Exposureは効果がキツめだが、FilmPackはなかなか繊細だ。

      ※

そんなわけで、どうにも平板に見えてしまうデジカメ画像を、もう少し何とかできないか…とFilmPackでいじっていて、たまたま出てきた絵に思わず泣いてしまった。これだあ、想像以上だああ…。これが欲しかったんだよう!

カメラはLeica D-LUX8だ。マイクロフォーサーズセンサー機という事もあり、フルサイズセンサー機と比較すると、JPEGでは明暗、色味などの深みが浅い。RAWでいろいろ触ってみたが、なかなか納得できない。いじっているうちに、自分で方向を見失ってしまった。
で、そんな時はDoX FilmPackの登場だ。
古今東西の様々なフィルムの描写を掛けてみる。さらに、効果の濃淡やグラフィック効果を掛けたりしてみる…。
で、たまたま行き着いた設定がコレだ。

・フィルム…Kodak Elite Color 200 (効果100%)
・グラフィック効果…テクスチャ・コンクリート1(効果40%)
・レンズ効果…クリエイティブビネット(強度-15)

テクスチャ・コンクリート1というのは今まで使った事がなかった。ウンウン唸って苦し紛れに掛けてみたら、現れた画像を観て、涙が噴き出して口が四角く歪んで大泣きしてしまった。
これだあ…。
今までだって、自分の写真に自分で感激してEPSON PX-5Vで何十枚も設定を変えてプリントしてしまうような事はあった。でも、こういう感激は初めてだ。

フィルムで撮ったような写真になった…わけではない。でも素のデジカメ写真の悪い意味での特徴をデトックスして、なおかつ味わいを求めたい…。それがゴールだったわけだ。

     ※

フィルム写真をたまに撮ってみる効用は、こんなところにある。デジタルカメラやスマホカメラで撮った写真に疑問符を投げかけて、自分自身の写真に対する目の軌道修正をしてくれる。
僕にとってのフルムカメラ、フィルム写真とは、そんな立ち位置にある。
Re: フィルムシュミレーション - 藤尾
2025/02/03 (Mon) 16:12:15
・今回はたまたまKodak Elite Color 200 が良い具合だったわけだが、どのフィルムシュミレーションが合うかは、写真によって違うし、もってっゆきたい方向によっても異なる。
ただ、平均的にはKodak Portra 160 NC がしっくり来る場合が多い。

・フィルム現像時の「デジタルデータの画質」が酷い件。
明るくすっ飛んでいる、黄色く色被りしている、褪せたような退色したような色味、などといった場合が多い。
これって、もしかして一般的にフィルム写真に期待されていると思われる「フィルムらしいローファイな画質」に寄せて調整されているのではないかと疑っている。
もしそうであるとすれば、業界の自〇行為だ。昔の同時プリントの無秩序な低画質は、装置や薬液のメンテ不足だったり、関係者の写真に対する愛情不足だったり、10円プリントという低価格路線による安かろう悪かろうでオッケーだろという業者・消費者双方の安直な了解が原因であった。結果、デジカメの登場とともに予想以上の速さでフィルム写真は駆逐されてしまった。半ば自業自得でもあったのだ。

今また、せっかくフィルムカメラが盛り上がりかけているのに、DPE屋がこんな出鱈目なデジタルデータで良しとしているのであれば、顧客は「なーんだ、フィルムってこの程度ね」という事で早晩離れてゆくだろう。
フォトショップ等を使えば極めて良い状態に持って行けるが、逆にその手間をかけなければガッカリな品質でしかない。(どれほどの人がPCを持ち、フォトショップ等の画像ソフトを持っているか?)

写真↓ Nikon F3 + NIKKOR 35mm f2.8 + Kodak Color Plus 200 → デジタルデータ → すっ飛んだような酷い状態で納品されたデジタルデータを、当方がフォトショップで露光量・色温度・色被り等を調整。その上でとどめにWBをグレー箇所で調整。屋根瓦、板壁、石仏、落ち葉などの諧調表現の豊かさ!デジタルエッジによる描写とは異なるレンズの力による高精細な描写。これがフィルム写真の実力です。…っていうか、但しデジタルデータ化された時点で限りなくデジカメ写真に意味内容としては近くなった…という事実もあるのだがwww)
ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 19:32:42
「撮影」することの歓喜があまりにも深い。
やはり、ストリート スナップ シューティングが一番好きだ。
目についた被写体に近づき、瞬時におおまかなフレーミングを想像する。レンズの画角を選ぶ。背景処理を計算して絞りを決める。シャッター速度に破綻が無いか頭の片隅で確認する。雲の流れと光線の動きを確認する。明暗を読んで露出補正を掛ける。目を広角にして人通りを確かめタイミングを計る。ファインダーを覗いて(或いは背面モニターを見て)最終的なフレーミングと水平を確保する。(或いは、ノーファインダーでカメラの向きを調整する)
そして、シャッターを切る!
これを瞬時に行う。
撮ったら、さっさと歩き去って次の被写体に向かう。
この繰り返し。
集中力と凝縮感がすごい。疲れを感じない。(後からドッと疲れる…)

近所の日常のスナップでも、石仏を探しての撮影でも、それは同じ事なのだが、やはり都会は刺激に満ちている。歩いても歩いても次々と撮るべきものが現れる。


街中を撮り歩いていると、ついつい二輪車を撮りたくなる。
造形的に美しく、複雑な陰影に物語がある。躍動感を秘めた乗り物が少し傾いで、しばし休憩するように佇んでいる姿は、背景の静的な建物との対比において抜群の存在感を放つ。
まあ、ともかくフォトジェニックなわけだ。

カメラはLeica D-LUX8 。ズームレンズの付いた小さなカメラは、ストリートスナップシューティングに最適だと改めて感じる。
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 19:45:00
人の動きはやはり魅力的だ。
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 19:50:02
冬は斜光線が美しい影を描く。
素敵な造形の建物が並んでいる。
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 19:55:38
またバイクだ…つい撮ってしまう
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 20:00:50
カッコいい。
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:07:29
プロの仕事だ…美しい
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:21:54
二輪は二輪でも自転車
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:30:18
青クマ。なにげないディスプレイだが、確実に目を引く
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:33:45
カッコいいゴミ箱
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:39:35
青空→ビル→映り込み、という必勝パターン
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:44:29
見上げればギョウザ
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:52:59
実際撮ったのは人物の写真が多いのだが、今どきのご時世では、あまりUPできない…
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:58:20
凄げえなあ…
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 22:17:30
江戸期の六地蔵
・ビル陰に小さく立てり古き神
・古き神ビル陰なれど今も立ち末裔らに告ぐ込めし想いを
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 22:23:17
ビルが神社に食い込んでいるのか、神社がビルに食い込んでいるのか…
世に棲む日々 - 藤尾
2025/01/26 (Sun) 17:45:17
恥の多い人生を過ごしてきました。
古い、恥ずかしエピソードがフッと浮かび上がって来て意識を占領し、厄介なことに、その時の感情まで再現されて、当時を追体験することになる。

しかし、幸いにも僕は心理学的な視点をもって内省する訓練を多少受け、上記のような心理状態を半歩離れて俯瞰的に観察し、それを分析的態度で理解・受容し、自身の物語の再構築をする事も(多少)できる…。エピソードの反芻咀嚼のループから逃れ、エピソードに引っ付いてきた感情に支配される事を中断する事が(多少)できる…。

ただ厄介なのは、自我は内外の刺激を受けてその都度立ち上がる。何かの拍子に過去のエピソードを思い出したり、日常を生きていて出くわす様々な出来事によって情動が喚起される。その度に自我(≒意識の焦点)は起動し自分はそこに持って行かれる。常に新しい自分が立ち上がるが、
それは自分独自の受容・反応パターンの枠内なので、良くも悪くも、いつもの自分が出現する。
祖先累代から受け継ぐ性格傾向をベースにして、成育歴において強化された或いは開発された心的複合体が、自分の正体だ。
その、むき出しの自分が、都度都度出現する!

しかしありがたいことに超自我(或いは前頭葉)の学習機能、又は成育歴の様々な場面を生き抜くために自我の周囲にまとった心的複合体の活躍によって、ヒトは自らを半歩高い箇所から俯瞰して軌道修正をかけることができる。

     ※

いっとき、大学の文系学部不要論という言説が吹き荒れたことがある。狂気の沙汰だ。
或いは、低ランク大学など行くだけ無駄という議論が今でも盛んだ。視野狭窄な暴論だ。

僕が学んだのは、自分が通っていた当時と今では大学名が変わってしまったほどの浮草のような低ランク大学の文系学部だったが、行って良かったと腹の底から思っている。
(ここには様々な視点からの議論があるだろう。就労機会の幅、知識や技術の習得…場合によっては確かに専門学校の方が良い選択であることもあるだろう。しかしあまり議論や視点の風呂敷を広げすぎると論点がちらかり散漫になるので、今回はあえてそれらには触れずにおく)

大学へ行って良かった事は、問題に立ち向かうに当たって、どんな文献に当たればよいか、という基礎を学んだという事だ。バカは馬鹿なりに得るものは大きかった。
心理系の本は巷に満ち溢れている。怪しげな自称セラピストもあちこちにいる。しかしまあ、それらの多くは、体系的に学んだ事がある者の目からすれば、砂糖菓子程度のモノでしかない。
もちろん、それらの雑多な本やセラピストが唱えるのと同じ「文化圏」に自身が所属している場合、(反りが合って)理解納得がゆき、何らかの効果はあるのだろう。でも多くは表面的に良かったと感じるだけで終わるだけであったり、下手をすると商売勧誘の入口だったりする。

     ※

最近、印象的な場面に出会う度に、短歌や俳句が頭に浮かぶ。しかし、先達たちの句や歌と見比べると、自分の作は浅薄で味わいや深みがなく、自分の納得の範囲を這っている駄作にすぎないと思わないわけにいかない。

自分は長く写真を撮っているが、SNSにあげても評価はせいぜい数十しか付かない。
石仏関連の写真は「いいね」が付いても十数個~三十前後でしかない。ロードバイク(自転車)に乗っていた頃の、自転車+風景といった写真には八十前後は付いたもんだ。愛好者の絶対数が違うのだろう。

同様に、体系的に心理学を学んだ事のある者、心理学的に自分自身をみる世界観に棲んでいる者は、思った以上に少ないと痛感する。それを忘れて他者と対峙すると、独りよがりに終わることになる。
アカデミックな心理学的な世界観は、一般には通用しないものなのだ。
僕は長く企業の総務・人事畑に勤務した関係で、従業員の様々な個人的問題に首を突っ込む事が多かったが、妙な通俗心理学を信じていたり、怪しいカウンセラーのもとに通っている人間は想像以上に多く、驚かされた。
まあ、それはそれで良いとしても、そこで驚きとともに感じ入ったのは、ヒトは様々な文化圏を生きている…という事だ。例えばカリスマ的ミュージシャンの文化圏…のように、自分の趣味嗜好の文化圏にヒトは棲んでおり、その外にいる者が、その違う文化圏のヒトに何かアプローチをするのは、実に難しい。
(僕とて、僕が棲んでいるのは古いタイプの心理学文化圏であり、新しく現代的なそれを生きている人から見れば、僕などは黒魔術の世界の住人に見えるだろう。また、自分は石仏愛好の世界を生きているが、そうでない人からすれば理解不能の世界であろう。或いは、石仏に興味のある人でも、信心からのアプローチの人、民俗学的なアプローチの人、美術的アプローチの人、歴史的関心からのアプローチの人など様々だ。ちなみに僕は「石仏」といっても、それは主に仏教心理的な興味関心からの接近と、風景写真的な興味からのアプローチだ…。よって、石仏の種類分類といった興味関心の人とは視点は変わらざるを得ない)

事程左様に、人は様々な、各人各様の世界を生きている。

     ※

恥の多い人生を生きてきました。
でもそんな記憶も、視点の持ちようでいかようにも改変可能だ。
或いは改変などしなくても、それはそれで良し。その時はそう生きるしかなかったのだ、と思えるようになった。
善悪良否の判断抜きで、自分の中にそれらの居場所・安住の地を持つ事ができるようになった、という事だろう。

このところ、「天の園」の中に登場する歌がしきりと思い出されてならない。

・夕焼けにそらのひろさを知りしわれは燃えおちしあとの暗さも知れり

しみじみと胸に沁みてシンとした気持ちになる。
「天の園」の光景 - 藤尾
2025/01/01 (Wed) 10:53:56
「雲」

なにかいいたかった
なにかをいったら
どうにかなりそうだった
なんでもいいからいおうとした

雲をみつめ
雲のゆったりとしたすがたが
あんまりうらやましかったのだ

こころよ どうしてあんなに
ならないのかと…

(打木村治「天の園」第四部 より)

     ※

じーくむんとは短い鉛筆を煙草のように指に挟んで斜に構えた姿で言う。
「雲は無意識領域に抑圧された願望の象徴として連想されたものを投影する」
ぐすたふも丸い眼鏡を光らせて少し上目遣いで言った。
「無意識領域である自己の底は閉じておらず、集団的無意識に通底していて、雲は生物としての原風景を思い起こさせる」
げんぱちは泣きそうになるのを堪えながらボソボソ言った。
「オレは死んだかあちゃんを思い出して泣きそうになった。でもその後、雲みてえにゆったりとした心になるべえ、と思った」
ふゆこが言う。
「悲しい時に雲を見るんだけんど、よけい悲しくなっちまうんです。でもその後、悲しいけんどたのしい…みたいな気がおきる」
たもつが続ける。
「雲は夢の宝庫です。それは子供だけでなくきっと大人にとってもそうだべ」

このしばらく後、たもつとふゆこは東松山の岩殿山のてっぺん、物見山で秩父山脈に掛かる雲を眺めます。ふゆこはたもつにがくんと体を倒しほっぺたをたもつの肩にのっけます。たもつは手をふゆこの肩にまわしてふゆこの頭がすべりおちないよううに支えます。二人とも小学四年生です。
「ふたりで一生あそぶべえ」
たもつよりも少し大人びたふゆこは一瞬驚いたようにためらいますが
二人は小指を出してげんまんをします。

この様子を雲に乗って空から眺めていたじーくむんととぐすたふは、乗っている雲を少し紫色に染めて、二人を祝福しました。二人は自分たちの心が紫にそまったみたいな気がして、ゆめと平和としあわせに満たされました。

このあと、二人は徐々に成長しそれぞれの境遇を歩みます。でも、出会いには必ず別れがあり、別れがあるから美しいともいえる。つらい人生が詩を生み、人を成長させます。

    ※

この物語から110年後のこんにち、東松山の岩殿山には埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館)が建ち、展望塔が屹立しています。「天の園」では、保とふゆ子が並んで山頂から関東平野を見下ろし、「汽車のけむりがけぶっているのは機関庫のある大宮町にちがいない」と景色の雄大さを楽しんでいます。
Re: 「天の園」の光景 - 藤尾
2025/01/06 (Mon) 21:00:07
(打木村治「天の園」第五部 より)

諏訪神社境内の「ほらあな大杉」には、文字通り大穴が開いているが、ある夏子供たちはそこにミミズクの子が三羽いるのを発見した。

夏祭りの素人演芸で「源頼朝石橋山の戦い」がかかると、そのほら穴を使った演出をするため、ミミズク一家は邪魔になり殺されるか捕らえられてしまうだろう…。

保とふゆ子たちは、ミミズクの子らを守るために、村祭りの芝居で、今年は「ほら穴大杉」を使わない別の芝居にしてもらうよう画策する決意をする。
しかし、子供らがそんな事を言い出せば仲間から「なまいき野郎!」と笑われたりしないか?そもそも大人たちがそんな事を聞いてくれるだろうか…?

保はミミズクを助けようなどと考えた事を後悔しはじめた。夕焼けに染まる川や山のうるわしい光景を眺めながら、保は母のかつらがつくった歌を思い出していた。夕焼けはやがて色あせて空と山脈はねずみ色にかわった。

・夕焼けにそらのひろさを知りしわれは燃えおちしあとの暗さも知れり


(写真 ↓ 桶川の古い道に佇む石仏。きょうは、これでおしまい…といっているかのようだ)
Re: 「天の園」の光景 - 藤尾
2025/01/13 (Mon) 21:00:03
打木村治「天の園・第六部」を読んで。

同じ時間と空間を伴に過ごし た人たちだが、時が来てみんな散りぢりになり、それぞれの境遇を生きてゆくことになる。
それが、ちょっと俯瞰的に見た人が生きてゆく光景なのだろう。

     ※

喜美子姉さんは横浜の女学校を中退してから家で畑や養蚕をしていたが、遠くへ嫁に行ってしまった。
久仁子姉さんは高等科(おおよそ現在の中学に相当)を卒業する。県知事賞をもらうほど成績優良で、女子師範学校へ進学する希望を持っていたが、製糸工場に全寮制の女工として働きに出る。
経済的に無理なのだ。
保が小学校卒業と同時に川越中学(現在の川越高校だが、当時は五年制でざっくり現在の中高一貫校)を受験するために、それだけで経済的に手一杯だ。それに田舎だけに、どうしても女子教育は軽視されがちだし、時代感覚としてもそれで仕方がないですまされてしまった。
保の同級生にしても、小学校卒業後に高等科まで進む者は限られている。多くは家業を手伝うことになる。

ふゆ子と保の別れは、ある意味凄絶であった。「一生ふたりであそぶべえ」とげんまんしたふゆ子と保だが、保が川越に行ってしまえば別々の世界を生きる事を意味する。
「たもちゃんは高等科なんかへ行く人じゃねえもん、…わかれたっていい!中学へ行きなよ!」
と、保の背を押したふゆ子だが、ふゆ子はカゼだといって卒業式に現れず、その後二人は会う事はなかった。
ふゆ子の家は長屋門を構えるほどの大農家で、彼女は保と同様に毎年優等賞をとるほど出来る子だ。しかし、ふゆ子が高等科へ進んだ後どうなるかは触れられていない。もしかしたら保も、あえてずっと知らないままなのかもしれない。


みな、ちりぢりになって、それぞれの境遇を生きてゆくのだ。


唐子の自然環境は常に彼らの成長と伴にあり、生涯それを思い返すことだろう。
人は結局独りで生きてゆく。いっとき集いあい伴に生きたとしても、いつかちりぢりに別れてしまう。
様々な、誰かとのふれあいを胸に秘めながら、孤寒の旅を行くのだ。
それが人を育てる。
しかし、結局はどこまで行っても人は独りなのだ。
ふゆ子は、心の底からそれを学んだだろう。
久仁子は貧乏ゆえの境遇を受け入れ、行く先に立ち向かう向日性を発揮する。それは自分の問題であり生きてゆくとは自分ひとりの問題なのだと腹をくくったであろう。
保は周囲の仲間や姉たちや大人たちの生きる姿をみて、自分の世界を生きてゆくことを自覚したであろう。
そして世界は広く、これからそれを少しづつ知る事になる。