「メッセージ」は切ない映画だ。
映画の冒頭から、主人公は自分の娘が難病で若くして亡くなる…という幻想をしばしば見る。これは、過去にあった出来事を思い出しているのだろうか?
ここでいきなり「異星人」登場だ。連中は人類よりも高次元を生きる存在であり、時間が、過去も現在も未来も全て等価に俯瞰するように見える。
主人公は言語学者で、異星人との会話を試みる。人は、使用する言語によって世界観を構築する。時間の感覚も同様に言語に依存するところが大きい。主人公は、異星人の文字を解読し、それを体得する事によって、異星人と同じ世界観を得る。すなわち、過去・現在・未来が俯瞰的に一望できるようになる。(この設定はちょっと無理があるが、SF的展開という事で楽しめば良いと思う。或いは、何かの謂いとして想像を展開できそうだ)
人にとって、時間は過去から未来へと流れてゆく。現在は様々な過去の結果としてあり、未来は未知だが、おおむね過去と現在の結果として紡がれてゆくであろう…。(決して、原因→結果という単線的な因果論的なモノではなく、複雑な縁起によって)
しかし主人公は過去も現在も未来も全て俯瞰的に見ることができる視点を得たことによって、「娘が難病で亡くなるという夢」は、未来の出来事であると知る…。
それでも、主人公は結婚し子供をもうける道を選択する。(将来その子が若くして亡くなる日が来ることを知っていても)
…。この映画では、不幸な未来を知ったからと言って、その未来を改変してやろう…という方向には行かない。未来を変えるのは、不可能ではないが困難なことでもある。(「異星人」も、自分が爆弾攻撃を受けて爆死する事がわかっていても、主人公を助けるために身を投げ出す)
逆に、未来の知恵を借りる。或いは、直接未来に手を突っ込むのではなく、未来に知恵を授ける…という方向で話を展開させてゆく。
これは、知ったからといって、どうにもならない、どうにもできない未来って、やっぱり厳然としてあるよね…というレベルでしか僕ら人類には理解しえない。(もしかしたら「異星人」はもっと高次な理解や認識があるのかもしれない)
というか、過去・現在・未来を、部族の歴史を描いたタペストリーを見るように見えてしまう視点からすれば、今現在の自分は、その連続の一点にいる、というだけで、将来や過去の改変など思いもしない…という観念に近いかもしれない。(タペストリーを見ている現在の自分は、流れる歴史のどの箇所にいるのかわからない、或いはどこにいるとも解釈できる)
であれば、未来はどうあれ、今を「より良く・充分に生きてゆこう」という方向しかない。
(決して刹那主義的にという事ではない。「プロテスタンティズムの倫理的行動」的に考えると、救済される事が確定している自分であるから、それに相応しく倫理的に生きよう…とする。という心理構造が思い出される)
未来がわかっていたとしても(将来にとらわれすぎず)、今という時点を大切に生きる。(過去・既成概念に囚われずに=「私・わたくし」に囚われることから離れて)
異星人が、爆死することがわかっていても、他者を助けようと身を投げ出したように。(禅の例えで語るとすれば、「目の前で川に落ちた子がいたら、思わず助けに行く」ように)
「物理現象を伴う過去」は、変更不可能だ。しかし、物理現象を伴わない過去=記憶としての過去=主観としての過去は、変更可能だ。視点の持ちようによって、いかようにも過去は(過去の歴史や認識は)変更可能だ。
では、未来はどうだろうか?大きな未来(社会現象や自然現象)は、個人の力で変更することは難しい。しかし、個人的な未来はどうであろうか?
無数の関係の網の目に立ち上がる自分という存在。その未来の方向を自ら決めるという事は、ある程度できるだろう。しかし、個人の生もまた、他者・社会・文化・自然現象の影響によりつくられるため、未来を自分が作れるとしても、そういった制約の範囲内において、というのが現実だろう。
…否。私たち個人の行動や思考は、未来に対して大きな影響を持つ。
未来を作るといっても、その対象が、社会・政治・環境など大きくなるほど現在の個々人の総意や時代的雰囲気などというような大きな流れを必要とする。
しかし、その対象が小規模なとき、私自身や私が直接的に関わる周囲の人たちの未来、に関しては、自らの意思や行動で大きく変化するだろう。
過去・現在・未来を俯瞰的に見ることのできる(ファンタジーではなく現実的な)視点とは、
「過去」(物理的要因を含まない「私の記憶や感情としての」過去)は私の中にある。
「現在」も、人は外界の情報や刺激をを入力して脳内で再構築された現実を生きているため、ある意味私の中にある、といえる。
「未来」は(今思う未来とは)、自分の想像する未来しかない。いわば、未来は私の中にある。(現在は、常に先へ進んでいるので、自分にとっての未来も、都度、改変されてゆく)
では、視点を未来において、現在の自分を見ることはできるだろうか?
借定した自分個人の未来→現在の自分という視点は可能だろう。
さらに、借定した未来からの視点から、現在の自分の行動を改変する事も、可能だろう。
でも、実際の未来が来た時点では、過去に遡って物理的事象を伴う過去を改変することはできない。
※
つまり、こうか?
・自分は、外界を自らの脳内で再構築して、他者や社会などの環境を認識する。(他者という存在も自らが属すると自己規定する社会も、自らの幻想である)
過去も、未来も、「自分自身の幻想」内における事は、改変可能である。
・物理現象を伴う外界については、過去は改変不可能だ。
未来についても、物理現象を伴う未来の事象を改変することは、かなり難しい。しかし、不可能ではない。積極的に関与する意思があれば、自分や自分に近い事象の未来は作ってゆくことができる。
「メッセージ」における、過去・現在・未来が全て俯瞰的にみることができるような次元では、「私」という存在の認識自体が無効なのかもしれない。(あのタコ型異星人たちには、ヒトのような自我の構造や観念が無いのかもしれない)
「私」とは、注意の焦点である意識・自我である。それによる視点からは、現時点という時間を生きている…という事から逃れる事はできない。
いや。過去は生きられるぞ…。過去~現在は生きられる。未来は?
未来も、想像するという意味において生きられる。精神・心理的な意味において。
おや?では、そうやって想像した未来から現在を俯瞰的に見るこは可能…だ。
ゲエ…。そんな意味において、人は過去も、現在も、未来も俯瞰的に見ることができる。
環境(他者や社会)によって、人は様々に影響を受けて生きる。それによって精神・心理も影響を受けて変化する。しかし、自分はどう生きるか、自分は他者や社会をどう見るか…がある程度定まっていると、環境(他者や社会)が多少過去における想像とブレても、未来時点における自分は、過去に(或いは今時点に)想像した自分とは、さしてブレない自分であるのではないか?
大きな意味での未来や、物理現象を伴う未来は改変不可能だ(不可能に近いほど改変は困難だ)それは、ある意味、運命論のように。
しかし、精神・心理的な意味範疇での自分の過去・現在・未来は、実は、いかようにも改変可能だ。(未来でさえも、もちろん過去も)
今回は、映画「メッセージ」を中心に考察してみたが、映画「インターステラー」を軸に考えても同様な気がする。
※ ※
抽象度の高い話ばかりでは、現実離れしかねない。グッと具体的な世界に視点を戻したい。
ポールサイモンの曲「ボクサー」は、以前この板でも超訳したとおりの内容だ。現実はなかなかうまく行かないぜ。でも、俺はまだ倒れないで立っている、今も倒れずに立っている…、と。今は自分の理想や想像とは違うクソッタレな状態だ。
他者は成功しているヤツもいるし、自分の廻りはロクでもない事ばかり起こる。クニへ帰ろうか…、いや、まだ倒れるもんか。今、ちょっと弱気になっているけれど…。
本項において、過去・現在・未来について、わかったような理窟を述べた。
しかし、現実生活におけるそれは、この曲のような「過去のショボい思い出、現在のみじめな気持ち、将来の厳しいかもしれない展望」というのが現実に近いのではないか?(仮に、何かで多少成功したとしても、心のどこかで、そんな忸怩たる想いが燻ぶっているのではないか?)
https://www.youtube.com/watch?v=70CTdmhCUTg
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禅仏教は言う。過去や既成概念に囚われずに「今ここ」を生きろ、と。「私」を手放せ、と。
「ボクサー」のような気分の夜には、これはお題目にしか聞こえないかもしれない。
でも、今の状態や気分や感情の存在を、肯定的に抱きとめて、味わってやる…という境地は、多少有効だ。
冒頭にかえって、「メッセージ」の主題も、この文脈でとらえることができるのではないか?
たとえ未来がわかっていようと、それを抱きしめて、今を充分に生きてゆくしかない、と。
未来に別れが待ち受けていようと、今は結びつきあい、子供をもうけようと、せざるを得ない…。
これは、先を知る由もない人生を生きてゆく誰しもが、意識せずに受け入れている事ではないか?
スパンの長短の差こそあれ、主人公のように未来が見えるようになっても、同じだろう。その時点で、そうせざるを得ない…という事はあるものだ。(ヒトには必ず終わりの時が訪れる。それでも生きてゆくように。であれば、あまり未来を先取りして憂うことはない。それが辛いのであれば、とにかく今日をそして日々を生き抜いてゆくことだ…)
※ ※ ※ ※
(以下、蛇足ながら)
充分に生きるって?
過去に囚われすぎない。未来の憂いに囚われすぎない。既成概念や、自己規定から離れる。コマーシャリズムに乗せられた欲望ではなく、自らの欲求・情動を肯定的に受容して昇華する方向をさぐる。自らの弱い面の存在を認めてそこに光を当てることを恐れない。
自らの情動・欲望に基づいて自我を生きる時も、あるだろう。
過剰な自我活動から離れて、自らの時間を他者に惜しみなく捧げる…という時を持つことも、必要だ。例えば、タコ型異星人が身をなげうって爆死してまでも人を守ったように。(いや、あれは主人公が爆弾に巻き込まれて爆死してしまっては、自分たちタコ型星人がヒトに「道具」を伝えようとしている目的が果たせなくなるから…という見方もあるがwww)
タコ型異星人の文字を解読し体得するには、「私」を離れて、「私」中心の過剰な自我活動から離れた時にしかできないのではないか? でなければ、どうしても「不幸な将来」を避けるために、時間に手を突っ込んで恣意的に改変したくなる自分を、抑えられないはずだ。(そういった私的邪念は、目を曇らせて、異星人の境地?への到達を妨げるのではないか?)
それができた主人公でるから、打算で結婚したのでなければ、計算ずくで子供をつくったのでもない。別れた物理学者の夫は、それができず、異星人の文字も受け入れる事ができなかったのだろう。