過剰な何か

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無意識領域の冒険っていうやつ、或は意識領域の頼りなさ - 藤尾
2017/04/30 (Sun) 22:11:36
さて、学生時代からずっと疑問だった事がある。精神分析その他臨床心理学等において、自明のこととされている「抑圧されていた欲望などを意識化すれば、心的問題は解決する」という説明だ。
なんとなく判る気がする。でも、本当にそうだろうか?
フロイト当時の神経症(ヒステリー)等においては、ある程度そうなのかな、とは思う。しかし、それって言語というものを頼りすぎではないだろうか?
「わかっちゃいるけど、やめられない」というのが人間というものだ。隠されていた欲望・本当の自分の想いが意識化されたからと言って、解決の糸口になる場合もあるかもしれないが、言葉や意識で分かった、理解したとしても、どうにもままならないというのが人間なのではないか?
何とも頼りない話だ。今一つメカニズムがわからない。



そんなふうにボンヤリと思っていたが、最近、たまたま箱庭療法の本を読んでいて、ふと理解出来た気がする。
箱庭療法にも流派があるが、非解釈的な方法の進め方を読んでいて、ふと思った。
箱庭を造ってゆく、或いは(自由に)絵を描いてゆく、又はノンディレクティブなカウンセリングを受けている、ということは、無意識領域からの何らかの表出と、それの深耕につながる、ということだ。セラピストとの間で構成された特別な時間と空間で、場の雰囲気は醸成され、表出と深耕は促進される。
心的課題に焦点を当てた無意識領域の活動の活性化。ループ・負のスパイラルから脱し、問題解決・自己治癒に向けた緩やかな方向づけ。そんな場を持つという事が力動的心理療法のへそであり、キモであり、メカニズムなのであろう。決してセラピストが「解釈」したり、考え方を「指示」したりするのではなく、クライエント自身が解決の主体である…。
以前何度も触れたとおり、ヒトの「意識」など、後追いの説明でしかない。ヒトの思考・行動は基本的に無意識領域において(意識以前に)決定されており、心的課題の多くも、意識以前の段階を問題にする必要がある。
「抑圧された欲望などを意識化する」から治癒するのではなく、無意識領域においてその課題に関して焦点を当てて(無意識領域の)活動を活性化させ、心的防衛機制の存在を明らかにして、それと対峙し、超えるという過程を踏むからこそ、治癒するのであろう。



まあしかし、これは心的防衛機制がじゃまして、なかなか上手くいかないだろうし、時間は掛かるわで、誰もが出来ることでもなさそうだ。
と言うか、「防衛機制との戦いを経る」ことによって、治癒、寛解、解決に向かうからこそ、この療法の意味があるのだろう。


しかし、現代的な「3分治療」の治療場面の実態とかエビデンスの問題で、薬物療法と、それに組み合わせた認知行動療法が主流であることは、仕方の無いことだろう。
行動療法が、クドクドと過去の出来事や問題行動の原因などを問題にするのではなく、直接的に行動の変化を目指すのも、換言すれば、目には見えない無意識領域にこそ問題は潜んでいるとみるからであろう。
上記の力動的な心理療法も、行動療法も、無意識領域の変容を目指す。前者は無意識領域の活動を促し、防衛機制と対峙することを通しての結ぼれからの脱出を目指し、後者は行動と心理反応のパターンの機械的な変換を目指す…。


まあ、軽い神経症レベルで自己治癒を目指そうとする時、上記の心的メカニズムを理解しておくことは、有効であろう。



藤田一照らの「仏教3.0」でも提起されていた、パラダイムシフトの件を思い出す。禅、只管打坐、仏教的思考等において、自己の成り立ちに関する世界観の視点について、まず省察が必要とされる、と。それを欠いた禅や仏教的な修行は、目指すべき指標を欠いた努力になりがちで、極めて効率が悪いというか、ハッキリ言って無意味である、と。
無意識領域のありようと、自己意識との関係。或いは外的環境における自分というものの位置づけ。そして絶対的な「自分」など存在しない、という理解を深耕するという通底音を基に展開してゆかなくては、無意味である、と。
何というか、(今さら言うまでもなく、だが)極めて臨床心理学的だ。