過剰な何か

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京都アニメーション「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を観て - 藤尾
2018/07/15 (Sun) 22:24:01
数年前、山ガールなるものが登場し、中高年ばかりだった山道に比較的若い年代層の女性の姿が見られるようになった頃、北村薫の小説「八月の六日間」が出版された。
この中で、「いくつもの心の部品を落とし、また拾っては歩き続けるのだ」というキーワードが印象に残ったが、その意味は今一つわからなかった。でも今は、こんな事なんだろうなと思っている。

主人公である「私」は、出版社で雑誌編集長を務め、順調な職業生活をおくっているように一見みえるが、多くのストレスを抱え、犠牲にしてきたものも多い。曲がった事が許せないユトリのない性格も自分自身を不自由にしているのかもしれない。
同僚の藤原ちゃんは、やはり編集部でそこそこの働きをしているが、趣味の登山を楽しみ、家庭生活もバランスがとれており、安定した人生をおくっているように見える。そんな藤原ちゃんに比べ、私は偏った、キワドい人生をおくっているのではないか?
実際、そうであるらしく、見かねた藤原ちゃんから「明日、山、行きませんか」と救いの手を差し伸べられる。それを契機に、人生のバランスを失していた私は、山登りを通して、今まで人生において欠けていた何かを遅まきながら育み、回復してゆく…。
それは、いつのまにか落としていた自分自身の部品を拾いながら、また歩き続けてゆくかのように。

     ※

南木佳士「海へ」では、うつ病の回復期にある「私」が、暴露療法を兼ねて、海辺の旧友宅に泊まりに行く物語だ。
友人は快活だったが、しかし、海辺にある友人の診療所の一番奥の病棟には、友人の妻が長年引きこもったままで、いっけん明るい高校生の一人娘は、自分も母親のように精神のバランスを失してしまう日が来るのではないかと、内心恐怖している。
「私」は、友人の娘の年齢相応な話を聞き、友人の妻から手紙を受け取り、彼女らの心の震えを受け止めながら、しっかりとその存在を胸に留める。何事もないかに振る舞う友人も、小さく震える友人の妻も娘も、みな、実は「私」の心の中の風景そのものだ。(寛解に向かい、一見快活そうに見えても、いまだ心の奥には恐れや不安が潜み、様々な自分が葛藤している…)
寛解を得てなお「私」の心の内に存在する病への恐怖は、「私」にその存在を認められ、いつまでも静かに居続けるだろう。そして「私」は、そんな内心にしまった恐怖や不安など存在しないかのように暮らし続けるだろう。しかし、病前と今とでは、世界の広がりの認識において、静かな深みを増したという点で大いに異なるであろう…。
それは、今まで欠けていた(或いは気づかないフリをしていた)何事かに気づき、それに光を当ててゆくという行為となって表れて来るであろう。

     ※

京都アニメの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、幼少期から「兵器」として育てられた少女が、それまで育まれる事がなかった信頼や愛情を得て、人間性を回復してゆく物語だ。
実際、内戦や代理戦争が長年続く地域では、子供のころから兵士として育てられ、兵士として生きてゆくほかなく、他の人生の可能性など想像もできないという人々が多くいる事が思い起こされる。(或いは、偏差値ばかりを重視し、受験一辺倒の昨今の学校生活の偏った姿にも、同じような匂いを感じずにはいられない)

他者に眼差される自分、他者との関係によって形作られる自分、社会の中の位置づけによって自己規定される自分。他者、相手を肯定する自分なくして、自分は他者から愛されることはない。

狭く異性間の愛という事においては、夏目漱石の「三四郎」で登場する「可哀想だた惚れたってことよ」(可哀想に、と思うということは、惚れたっていうことだ)という迷文句がある。異性を愛するようになるとは、世界観、価値観、正義感などが共鳴し、自身と共振するだけではなく、双方に惹かれ合う何かが起爆剤として必要である。
動物としての遺伝子の継承を目的とした相手の選択という思考以前の直観の世界と同時に(それ以上に)、成育歴において獲得した傾向の類似や嗜好性が、そしてそれらを相手に投影した幻想こそが問題となるはずだ。
ヴァイオレットを救った少佐は、彼女の中の何事かを感じ取ったのだろうか? かわいそうだたほれたってことよ。

でも、さらに大きな視点、高い立ち位置からの「愛」の意味は、自身の自己規定に留まらず、自身の世界観における他者の存在が、どのようなものであるか、が大きく問われるであろう。

人間は、他者とどう繋がっているのか、自分とはどのように構成されているのか、が、まず内省されることになるであろう。それは結局、自己と自我の構成を問うことになり、厳しく防衛機制を超える試練を課せられるであろう。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」では、登場人物たちが、そんな試練や困難のストラグルを経て、自分自身を知ってゆく物語が紡がれてゆく。
さらに、ヴァイオレット自身は、様々な経験を経ながら、自我の再構築という難題を超えてゆく。しかし、思えばこれは、私たちの青年期と変わることは無い。我々もまた、(ヴァイオレットほど激烈ではないにしても)自身の自我を、バランスをとりながら発達させてゆくことになる。それは、生涯をかけての課題であり、終着点は無いはずだ。

(内省や気づきを経て、私たちは、自身の過去の誤りや、他者を害した事に思い至るであろう。しかしそれは過度に否定したり消し去ろうとする必要は無い。それらがあっての、今の自分であり、気づきなのだ。ヴァイオレットの義手が正確な仕事をこなすように、私たちの否定したい過去も、今の、そしてこれからの自分自身の基底となって、自分自身を支える礎石の一つとなるはずだから、だ。様々な種類の礎石は、すそ野の広い自分を形作るであろう。だから、「不要な礎石」・「不要な過去」・「消し去るべき過去」など存在しないのだ)

ヴァイオレットの義手は、彼女の過去の象徴だ。
その手で、兵士として多くの敵の命(多くの若者の未来)を奪った。そして同時に、彼女を人間として認めて、彼女を「狂犬のような殺人兵器」という地獄・無明からサルベージしてくれた恩人の少佐を救うために、その手を失った。
そんな両面を秘めた義手は、彼女が生涯負わなければならない過去の象徴であり、同時に、善悪両面をなし得る人間という存在の象徴でもある。
そんな義手は今、人の心をつなぐ「手紙」を紡ぎ出す仕事をこなしている…


     ※

ユングの言う、自己実現とは、それまで欠けていた、発達できないままであった自分自身の人格の影の部分に光を当てて、バランスのとれた人格の完成を目指す、という事であった。
それは、誰かとの比較や競争ではなく、自分自身の問題であり、課題だ。様々な他者たちの森を駆け抜けることは自我の構築に必要ではあるが、それと同時に(それを経つつ)、自己に沈潜して自身を知る事の探求を欠いては、自己の安定・バランスを得ることはできないだろう。

こんな事が不必要で、イケイケで生涯を終える事ができる人もいるのかもしれません。しかし、それでは、「充分に生きた」とは言い難いでしょう。自己の十分に発達した部分も、未熟な部分も知った上で、それとストラグル・格闘してこそ、或いは充分に発達した自分自身・まだ未発達な自分自身の双方を抱きしめてこそ、自分自身を生き切ったと言えるのだと思います。
ヴァイオレットは、その双方を抱きしめて、自分自身の中に居場所を与えることができたとき、愛について自然とわかることができるでしょう。それは決して一方通行のものではなく、全体対象関係的な、基本的な態度姿勢に関わる事だからです。

Re: 京都アニメーション「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を観て - 藤尾
2018/07/17 (Tue) 12:31:33
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」も、いつもの藤尾節で回収してしまいました。悪い癖です。オートマティック・ライティングというか、フロー状態というか。何を書いても、結局この思考パターンで書いてしまいます。
でも、これは、かつて自分自身で望んだ状態でもあります。

昔、学生時代、岸田秀の「ものぐさ精神分析」という本が流行りました。何でもかんでも、岸田流「精神分析」の手法で解説してしまう手腕に驚き、幻惑されて、大いに憧れたものです。
「スゲエなあ、自分もあんなふうに物事や事件を何でも分析・解釈できる尺度や基準を身につけて、自分なりの理解ができるようになる日が来るだろうか?」
と思ったものです。
岸田流のソレが、どの程度の有効性や正確さを持っていたかは問題ではなく、自分自身の頭で考えて、自身の手掘りで物事や事件を理解する、という態度姿勢に憧れていたのです。

仕事や、自分自身の人生が忙しくて、この件は長らく忘れていましたが、いわゆる中年期の危機に直面して自己分析を迫られた時、この事を思い出して勉強し直しました。仕込みに3年、自分自身の思考パターンとして身につけるまでさらに3年間必要でした。
(しかし、僕は出が出ですから、少々古くさい理論をベースにしたものになってしまったのは致し方ないところです。つまり、学生時代に慣れ親しんだ、今や古臭い古典でしかない理論が、僕の思考のベースとなっていますwww)

今の自分は、岸田流を千倍希釈した劣化コピーみたいなもんでしかありませんが、少なくとも自分自身に引きつけて考えることはできるようになったと思います。
少なくとも、物事のアウトライン・荒筋をなぞっただけの、小学生の読書感想文のような物事への接近・解釈というレベルからは脱する事ができるようになったとは感じています。
でも同時に、我ながら自分って頭が悪いんだなあ、とも感じずにはいられません。しかし、自分はこの程度の能力でしかないのだから仕方ないのだし、そもそも誰かとの比較のためにではなく、自分自身の納得のために行う思考なのだから、落胆したり絶望したりすることもない、とも思っています。



自分にとって、web上に文章をupするのはどういうことか?
最も念頭にある読者は自分自身です。ほとんどそれ以外の読者は想定していない。だったら公開する必要などないはずですが、それなのにwwwの辺境にとはいえupするのは、自分自身に客観性の視点を多少なりとも意識させるため、だと思います。この枠・制約がゼロになると(upしないことが前提であると)、自身の思考の社会性が溶解して、恐らく自己欺瞞に陥るでしょう。或いは、自我が他者との関係性・社会における自身の位置づけを基礎に構築される事を思うと、それは自我の枠組みの崩壊を将来しかねない。一般的他者を自己の内に仮定することによって自分自身の規範を構築するように、wwwの辺境にでも自身の思考をupすることは、精神衛生上有益であると思えるわけです。



「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、良くできたアニメでしたが、安直な場面展開やご都合主義の展開も散見されます。しかし、それらは、この物語の主題とは関係ない個所なので、あまり目くじら立てる必要はありません。(落下傘降下してすぐに依頼者を発見したり、鉄橋の爆弾がすぐに発見できたりなど)

そもそも、この物語の世界のテクノロジーレベルは我々の世界の1930年代ぐらいであると思われるのに、あの義手の完成度は22〜23世紀の技術レベルでしょう。
でも、そんなことはどうでも良いことです。この物語はファンタジーであり、そもそもこのお話しの主題は「技術史」ではありません。目指しているのは、人間の心についての物語を紡ぐ事にあるからです。
(この件については上記本文でも触れたとおり、義手はこの物語のテーマの象徴でもあるわけです。物質としてのソレに目を奪われるだけに終わるのではなく、それに込められた意味や例えまで、想像力や直感を柔軟で自由に働かせたいものです。それに、ファンタジーや「物語」においては、熊が喋ったり狐が赤い上着を着ていても誰も怪しまないはずです。)


画家、鴻池朋子が震災後展開している展覧会「新しい骨」では、「人間が物を作る」という事の意味を再考し続けています。人間が物を作るとは、現在のテクノロジーの形態では、結局、地球環境の破壊と、他の生物たちの絶滅を将来せざるを得ない。その方法・考え方の「骨格」自体から見直さなければ、人類は近く確実に自滅する。この誰にも自明な事がほとんど真剣に取り組まれていない。なんてったって、明日の事より、今日の飯の心配で誰しも手一杯なわけです。仕方の無いことです。


風呂敷を広げすぎました。
でも、ちょっと大げさですが「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、「新しい骨」に思考を向ける契機のカケラの一つになりうると感じます。広義の「愛」の名において。