過剰な何か

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禅ライド (KHS F20R 輪行) - 藤尾
2018/12/06 (Thu) 22:45:08
西武鉄道秩父線を正丸駅で降りると、改札前は長蛇の列だった。トレランの大会があるらしい。二十から三十歳代の女性ばかりが圧倒的に多い中、男性がちらほら混じっている。レースの主体はレディースだが、男女ペアの枠もあるのだという。

正丸駅駅前広場は、出走を控えた数百人のランナーたちで埋め尽くされている。スポンサーである日焼け止めクリームのメーカーブースでは、軽快な音楽が流れ、バニーガールが立ってしきりと商品宣伝のアナウンスをしている。

そんな駅前の片隅のベンチ脇で輪行バックを開いて自転車を組み立てていると、ベンチに小柄で清楚な女性が来てスルスルと着替え始めた。素足になりソックスを履き替える。パンツ(ズボン)を脱ぐと短いランニングパンツと程よい筋肉の丸みを持った太腿が現れたのには思わずドキリとさせられた。

自転車を組み終わり、サドルに座った瞬間、シートポストがズルッと下がって驚かされた。チラチラと盗み見しながら自転車を組み立てていたせいか、ネジを締め忘れたのだ。

     ※

緩い登りが続き、「こんなものか、楽勝だな」などと思いながら、路傍の石仏の写真を撮りながらゆるゆると進んでゆく。
しかし、そんな余裕は初めのうちだけだった。ヘアピンカーブを折れると、道は急に傾斜をキツくしはじめた。
山肌を削って無理やり造られた道は、容赦ない急角度の登り坂が続く。
自転車のフロントギアは、上り坂が始まった時点で軽い方へシフトした。リアのギアも、上るにしたがいキツくなる坂の角度に呼応するように、一段ずつ下げてゆき、もう残りは少ない。脚の筋肉の悲鳴に耐えかねて、ついにリアもローに入れた。もう後がない。それでも呼吸がさらに激しくなる。

歩くような速度でペダルを踏み込み続けたが、もうダメだ。ついに路面に足を着く。
これが、今の僕の限界だろう。後は、自転車を降りて押して上ってゆくしかない。いわゆる登山状態、というやつだ。


自転車(スポーツサイクル)は初心者だが、登山は多少なりとも経験者だ。この山道も、徒歩で何度か登っている。徒歩で行けば、ハイキングレベルの何という事も無い平凡な緩い上り坂でしかない。しかし、それを自転車に乗って上るとなると、これほど苦しいものだとは…。
後は、一歩ずつ淡々と登ってゆくだけだ。自転車は10kgほどの重さだが、車輪は良く転がり、それを押しながら歩いても、ほとんど負荷は感じない。
つづら折れの道を急角度で左右に登ってゆくと、深い木陰と初冬の日差しとが交互に現れる。鳥たちが遠く近くで鳴き交わす。高度を増すにつれて空気がはっきりと冷たくなる。自転車に乗っている時とは違う筋肉が使われてゆくのを感じながら脚を進める。

しばらく登ると、逆光で黄金色に輝く黄葉を背景に、地蔵が立っていた。傍らに赤い椿が咲いている。「子ノ権現」に着いたのだ。



参拝を済ませ、「足腰守」をいただいて、今度は坂を下り始める。
ヨロヨロと上ってきた時は気づかなかったが、急角度で下りながら次々とヘアピンカーブが続く。速度が乗りすぎて恐ろしいほどだ。

喘ぎながら登った道をあっという間に下り、県道に戻って「天目指峠」を越える。
登りは、またしてもすぐに足をついてしまい、登山状態だったが、峠を超えた下りは先ほどにもまして凄まじい急坂だ。ほとんどブレーキから指を離せない。過熱しないようにブレーキングに間断を付けながら下り続ける。
いくつもコーナーを抜けてゆくと、徐々に直線部分が長くなってくる。ブレーキを緩める。さらに速度が増す。気づくと速度計のデジタル表示は41.5km/hだ。路面が荒れた個所ではハンドルが激しく小刻みに震える。451サイズとはいえ20インチのタイヤで40km/hオーバーは恐ろしい。ブレーキを長めに握って速度を制御する。ペダルを漕がずに冷たい風を受け続けて、身体がどんどん冷えてゆく。


高度を下げ続けると、ある地点でフワッと空気が暖かくなった。空気の層が変わったのだろう。木々に囲まれた道をさらに下り続けると、ポツリ、ポツリと民家が現れ始めた。下界・人界に戻ってきたのだと実感する。

突如、道はT字路に突き当たった。山間を縫うように続いた、か細い3桁県道395号線は終わり、名栗川沿いを走る立派な県道53号に入った。後は、飯能まで延々と下ってゆくだけだ。


途中、黄色い建物が洒落ている洋食屋「ターニップ」で焼きカレーを食べる。旨い。いくらでも食べられそうだ。デザートも追加しようと思うが、前傾姿勢が辛くなるので我慢しておく。

     ※

交通量の少ない、ほぼ平坦な道を延々と定速で走り続ける。
ただただ脚を回し続けていると、只管に行ずる感覚で、まるで禅のようだ。全身の感覚器は外界に対して開かれており、風の流れや気温を感じ、ヘルメットの風切り音や鳥の鳴き声が通り過ぎてゆく。自転車と接触している手、足、尻は路面の細かな凹凸や車体の動きを感じ続ける。腰・脚の筋肉が躍動し続け、胸・腹は呼吸を繰り返している…。

しばらくぶりに赤信号で停車すると、十字路に地蔵さんが佇んでいた。自転車を路肩にとめ、写真におさめる。
往路にあった石仏も、この石仏も江戸期に立てられたものだ。地蔵が立ち続けた数百年間の間に、人は何世代も入れ替わり、自分自身もたかだか数十年後には確実にこの世には存在しない。人は、そんな有限性を持つ存在であればこそ、今日は尊い。
全てを、ただただ無批判的に愛したい。たとえ何事かを嫌おうと、そんな感情の主体である自分など様々な縁起の上に浮かんだ、相対的な極めて小さな存在でしかない、という事は忘れずにいたい。自分が固執する小さなこだわりや偏屈な自尊心など、屁のようなものでしかない。

自分を卑下する必要は無いが、自分が自分がという夜郎自大にならないように気を付けたい。この連綿と続く自然や時代の中で、自分はほんのいっとき存在しているにすぎないのだから。
そんな気づきを新たにしながら東飯能駅にたどりつき、自転車を畳んで電車に乗った。
また、日常へ帰ってゆくのだ。