過剰な何か

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仏像という装置と機能 - 藤尾
2019/05/19 (Sun) 23:05:54
石仏を撮る時は、まず合掌してお祈り申し上げてから…などとしばしば解説される。
やれやれ、どこまで本気で言ってるんだ…、と思うと同時に、形式的にであれ何であれ、それも一理あるとも思う。

問題は、自身の心の中で石仏をどう位置づけるか、という事だ。石仏は、いわば単なる石の彫像でしかない。しかし、それがどんな趣旨をもって制作・造形されたかを、ヒトのミラーニューロンは感じ取る。同時に、自身の持つ文化的背景や知識教養が、その石仏の持つ、地域特性、・時代背景・宗教的意味を瞬時に総合的に勘案して、感慨なり感情なりを呼び起こす。

こういった精神・心理的装置を充分に呼び起こすために、石仏なり何なりと対面したら、まず合掌してご挨拶申し上げる、といったところであろうか。


仏像が野や辻に立つ風景に惹きつけられずにいられない、という自身の感覚は、何によってもたらされるのか。
仏像を目にすると、それには何らかの祈りや願いが込められているという知識概念が、私自身の内にある内省的な傾向に共鳴する。
そして、祈りなり願いなりをいたさずにはいられないというある種切迫した心理的状況の存在対するシンクロがあるのであろう。
或いは、普段、他者や外的刺激に忙しく左右される心理状況から離れて、内省的で落ち着いた、平明な心理状態・精神状態の存在が想起させられ、呼び起こされる。そんな装置として、仏像は機能するのであろう。

     ※

外的刺激を受けて呼び起こされる様々な反応は、感情を伴っており、その感情に駆動されてヒトは思考・行動する。この仕組みは、生存のために生得的に仕組まれたものであり、極めて根深い。それらには、別名「欲望」「煩悩」「敵対心」あるいは「あこがれ」などと様々に称される。それらはヒトを強く駆動するが、多くの場合、反社会的・反道徳的にならざるを得ない。それらは社会的要請によって生み出されたのではなく、遺伝子の継承を目的として構築されているからだ。その出自が、ヒトを「悪行」に走らせ、或は、時に利益を同じくする同胞を助けたりもする。

この仕組みから脱するには、「今、自分はその仕組みに囚われようとしているな」という気づきを得るしかない。脱同一化が近い概念か。そのためには、只管打坐、禅的な方法が有効であると、今の僕は感じている。