元興寺禅室の広縁に十張ほどの箏が並び、奏でられ続けている。夕暮れの空は深さを増してゆき、いつの間にかすっかり夜になっていた。
広縁の向かいの浮図田には無数の石仏が並び、灯明にぼんやりと黄色く照らし出されている。時折吹き抜けてゆく風に小さな炎が揺れ、石仏たちの横顔の影を揺らす。咲き残った桔梗が寄り添うように咲いており、夜風の涼しさと共に夏が終わってゆこうとしているのに気づかされる。広縁の箏曲に合わせて、石仏たちの背後から尺八が低く響いてくる。
激しい内心の揺れと、それを経た後の厳しい決意を表現するかのような楽曲の、嵐のような箏曲の演奏が終わると、二張を残して箏は片付けられ、広縁に丸い蓙の座布団が置かれた。十枚ある。
チーン…。
禅室の奥から涼やかな「おりん」の音が響く。チーン…。場の空気が一変し、静かな緊張と安らぎが周囲を包む。次々と僧侶が登場し、着座すると、節回しを付けた、あ音が、声明のように唱えられ、様々な所作が展開される。徐々に静かな昂揚感は増してゆき、僧侶たちが立ち上がり散華が撒かれる。観衆の子供らが走り寄って拾う。
十名の僧侶らの読経の声は次第に大きくなり、般若心経の大合奏になった。高鳴る鼓動のようにリズミカルに太鼓が鳴り、静かな覚悟のように尺八が低く唸り続ける。ともすると襲ってくる内心の惑いや揺れのように、或いは新たな気付きや些細な歓びのように、琴が読経に絡みながら高く低く流れつづける。チャッパを擦るシャリシャリと乾いた音は、日常の雑事だろうか、それとも日々の繰り返しの倦怠や疑義だろうか。
しかし、それらを背景としながら、それらを覆うように、朗々と般若心経が繰り返される。
これは、決意表明なのだ。
これは仏教思想に自分自身の生を掛けた事への納得と、自己規定の再確認であり、励ましであり、それを思う昂揚感の表現であり、賛歌なのだ。
空観と縁起こそが仏教の本質であり、その思考の凝縮である般若心経を力強く繰り返し唱え、讃えている…のだろう。
日本仏教は、過去の様々な時代の要請や、様々な土俗信仰と結びついて現代に至った。
しかし魔術的思考を取り除き、(いわゆる西洋仏教のように)仏教の本質に戻れば、仏教は無神論であり、禅による身体技法の援用をうけながら展開してゆく、自我の構成の認識と再構築の過程、である。(今ここで言う「仏教」には、前世とか輪廻とか、地獄とか極楽とか神とか葬式とかは、一切登場しない。そういった超自然的なものや魔術的思考とは完全に無関係だ。仏教とは本来そういったものだ)
「仏教に自らを賭ける」とは、映画「マトリックス」でいうところの、「赤い薬を飲む」という事だ。妄想の覆い、錯覚を突き破る…という事だ。
チーン…。
読経と演奏が終わり、無言の内に僧侶も演者も広縁から退出し、誰も居なくなった。
「皆様の内にいる地蔵を呼び起こして、皆様自身が地蔵のように、周囲の誰かを気遣い助ける存在であられますように…」という住職のコメントをもって、元興寺・地蔵会の「音と光のマンダラ」は終演した。
これで行くんだ。
自分は、これを支柱にして生きていくんだ。
演奏が終わり、数百人もの観客らのざわめきが広がる元興寺禅室の広縁前に立ったまま、静かな昂揚感に満たされて、そんなふうに思い続けた。
既成概念、思い込み、とらわれ、結ぼれ、偏見、偏屈でケチな自尊心、権威…それらに絡め取られることなく、そして、素直な心を持って行きたい。
少々、青臭すぎるだろうか?
でも、たかだか数十年後には、自分など確実に、この世には存在しない。そんな有限性を自覚したからには、自分自身の目で見、自分自身の受容反応パターンを生きたいと思う。社会を生きてゆく上では、世間のバイアスは、多少受けざるを得ないかもしれない。社会性が重要であることにも変わりはない。
しかし、少しでも社会的な歪曲や、つまらない世間体などからは自由でいたい。
本質的な仏教思想・仏教哲学や禅が、その手助けをしてくれるはずだ。
地蔵盆の夜、元興寺・地蔵会で、そんな事を思った。
(宗教の定義に「死生観を含む納得の体系」というものがある。僕は、仏教は宗教ではなく、哲学・臨床心理学に近いものであると認識しているが、この定義に従えば、仏教は確かに「宗教」なのかもしれない。長い歴史の中で、時代の要請に従い、土俗信仰や社会的要請を引き受けて、様々な夾雑物を背負ってきた仏教だが、その本質は2千数百年前に釈迦が悟ったこと、その思想の要点は空観と縁起であるということだろう。バカはバカなりに、自分自身の思想の中心に、これを据えて生きていきたいと思った)