過剰な何か

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「坂の上の雲」再読 - 藤尾
2020/08/15 (Sat) 22:20:20
「坂の上の雲」を再読している。以前読んだのは二十代の頃だった。憶えている個所も多いが、こんな事が書いてあったっけか?と、始めて読むような新鮮さを感じるページが多いのにも驚く。
当時と今とでは興味関心の持ち方がだいぶ変わったのだろう。面白い個所、興味深いページの端を折るのは昔からの習慣だが、数十年経て今読むと、当時読み飛ばしていたような個所に、感じ入る事が多い。なぜこの個所のページが折って無いんだ?当時は何も感じずに読み飛ばしていたんだろうか?何を読んでいたんだ?と不思議に思う事が多い。



江戸が終わり明治時代になりはしたが、欧米人に侵略され植民地にされててしまうのではないか…という恐怖は、ほとんど国民共通のものであった。何と言っても、帝国主義の時代だ。武力を背景に、強い国が弱い国を分捕って食い物にするのが当たり前の時代だ。日本も欧米諸国の植民地にされてしまうのではないか?
国民という意識を初めて持った日本人たちは、日本という国家を帝国主義の荒れ狂う時代の中に、自らを投げ入れて、そこで生き抜いてゆく道を選ぶ。(選ばざるを得ない。そいうった、やむにやまれぬ過酷な時代状況なのだ)新聞も言論界もそれを煽る。国力が無いことを、経済力も軍事力も、欧米にはとても敵わないことを国家中枢の者たちは痛いほど判っている。しかし、国家も軍隊も危機感を持った国民に煽られまくる。それをまた新聞が無責任に煽る…。

ひょんな形で日清戦争に勝ちはしたものの、ロシアがむき出しの南進政策で迫ってくる。朝鮮半島をロシアに獲られては、日本の独立が本格的に脅かされるであろう。極東ロシア軍が欧州からシベリア鉄道で本格的に増強されては、とても勝ち目はない。その前に戦わざるをえない…。そんな恐怖を背景に、対露戦は準備されてゆく。

それにしても明治憲法における統帥権は鬼門だ。日清戦争の頃から陸軍はそれを縦横に用い、太平洋戦争で敗戦するまで、魔法のように用い続けて、結局、国土を焦土にした。
日露戦争当時は、善悪はともかくとして、まさに状況として戦わざるを得なかった。国家予算の半分を軍備増強にあて、国家予算の7倍もの公債を欧米で募って軍費に充てる。何という時代!日本人のその必死さに驚くと同時に、その時代を生き抜く困難さに呆然とさせられる。
欧米では日本が勝つなどとは誰も思っていない。そんな不人気の、戦費調達のための日本公債を引き受けてくれたのは富豪のユダヤ人であった。ロシア帝政はユダヤ人を迫害し続けている。日本とロシアの戦争が継続されるほど、革命活動が活発になり、ロシア帝政は倒されるであろう…という目論みであるという。何という社会の複雑さ…!

日露戦争当時は、国民が、政府や軍の尻を蹴るように煽りまくった。しかし後年、満州国建国から太平洋戦争敗戦にに至るまでは、軍隊は統帥権を万能の黒魔法のように用いて、ついには軍部は国民を奴隷のように扱うに至った。



日本軍は、ロシア軍に対して辛勝を続ける。(実際は、海戦においてはロシア海軍の艦隊保存戦略に、陸戦においてはロシア陸軍の戦略的後退に助けられているにすぎない)しかし国民は大勝を求める…。
日本軍は司令部も兵士も必死の不退転の決意でで臨んでいる。国家の、自分たちの運命が掛かっているのを痛いほど感じている。しかし庶民・農奴階級やポーランド等の被占領国から徴用されたロシア軍兵士は、半ばイヤイヤだ。ロシア革命の機運も起こりつつある。他方、ロシア軍の世界的に優れた作戦家は、完璧主義で繊細過ぎた。完璧な勝利を目指して戦略的後退を繰り返し、時機を逸してしまう。
この辺りの両国の対比を見ると、日本の必死さは実に痛々しいほどだ。

しかし、太平洋戦争敗戦に至る15年戦争あたりの日本軍の硬直ぶりは、まるで別の国のように様変わりしている。確かに、太平洋戦争開戦前の日本に対する米国の圧力は過酷に過ぎた。が、統帥権を振るって突き進んだ日本軍の独善ぶりは、内外に対して過剰でありすぎたであろう。それらはついには、国民を、国体の(軍の)奴隷のように扱うに至った。本末転倒、ここに極まれり。



靖国神社・遊就館の言う「日本は何も悪いことはしていないのです」という恥ずかしいほどの大嘘を信じたい人が「坂の上の雲」を読むと、また違った読み方をするのだろう。
司馬遼太郎は、何度も持ち込まれる「坂の上の雲」の映画化・ドラマ化案を断り続けた。模型を使ったチャチな映像にされるのを嫌ったという事以上に、戦争アクション物として描かれたり、右翼や懐古主義者が喜ぶような代物に成り下がるのを激しく恐れたからだ。

司馬の死後、2009年にNHKでついにドラマ化された。良く出来ていた。しかし、娯楽作品としての色合いがどうしても濃く、(司馬が恐れていた通り)司馬が原本で描きたかった事の1/10も描かれていなかった。例えばそれは、今回、本稿で触れた様な事などだ。
NHKドラマでは、充分な時間を掛けて作られはしていたが、ストーリーの表面(おもてづら)をなぞるのが精一杯で、登場人物たちの苦悩や時代の必死さは描き切れていなかったのではないか。秋山真之が海軍作戦に没頭し、ロシア艦隊を文字通り全艦殲滅しなければならないという重圧から、精神のバランスを欠くほどに追い詰められる様や、好古らの軍司令官達が、目の前で何万人味方が死のうが、決して後退できない苦しさなどは描き切れていなかった。
日本は、実によくやった。しかし、そういった感慨は、暮夜一人で密かに思えば良いことであり、決して大声で誇ったり他国を蔑むためのアイテムとして持ち出すべき物ではない。そういった矜持を持った上で「坂の上の雲」を読まなければ、同書も、そのドラマも、単なる夜郎自大のための燃料に成り下がってしまうだろう。



日露戦争にしろ太平洋戦争にしろ、時代背景からして、日本が戦争に突入してしまったのはある意味仕方が無かった。
しかし15年戦争・太平洋戦争に関しては、(日本側の)その内容が、あまりにも酷い。国体思想と統帥権を盾にとった軍部の独善的な横暴が余りにも過剰でありすぎた。それらが自家中毒を起こして、負けるべくして負けただけだ。その間、臣民(コクミン)は国体・軍の奴隷として使役されて、310万人もが過酷な死を強いられた。
(国民が奴隷として使役されたという証拠は、政府が戦災責任を未だ認めないということでも明らかだろう)


他方、確かにコクミンも戦争遂行の共犯者であったという事も事実だ。戦争責任を一部の「戦犯」に負わせて、一般国民を、戦争を遂行した指導者たちの被害者と規定して無罪放免にしたのは、米国による戦後処理の戦略だったであろう。それで清算済みのような気分になり、戦争責任追及を思考停止状態にしているとも言えそうだ。

(愛国心を持て、などと自民党は言うが、寝言もいい加減にしろと言いたい。私は、日本の文化や自然を心から愛している。骨の髄まで、日本の文化・自然で構成されていると感じている。でも、権力や既得権益者が言う愛国とは、政府・政権を愛せという事だろう。何という恥知らずな!)




(くどいようだが、15年戦争、太平洋戦争を始めた事に関しては、当時の時代状況・国際情勢の傾向、流れとして、仕方が無かったとしか言い様がない。米国は日本を追い詰めすぎた。日本は大陸における軍部の独断が過ぎた。始まるべくして始まった戦争だ。
問題は、その中身だ。アレは決して東亜を欧米の植民地状態から解放する等というケッコウな物ではなく、資源確保のための進出でしかない。遊就館は「日本が解放してくれたことを感謝するアジアの人々」というビデオを見させるが、盗っ人猛々しいとはこの事だろう。恥ずかしすぎる。本当に感謝する人が何人いたというのか?日本がそこで何をやったか知らないとでも言うのか? コレを言うと自虐史観だと言って反発する意見が出るが、夜郎自大・腐った自己愛と言うほか無い)

久しぶりに「坂の上の雲」を読んで、敗戦記念日にそんな事なんかを思った。