過剰な何か

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第一人格の生還(人それぞれ…ということで) - 藤尾
2021/06/22 (Tue) 21:11:15
例年、夏の終わりには京都・奈良を訪ね、地蔵盆の夜祭りを楽しんだ。猛暑の陽が落ち始め、吹き抜けてゆく風に灯明の小さな炎が揺れ、黄色く照らされた石仏達の影が揺れる。
思い出すたびに胸いっぱいに懐かしさがこみ上げて、もう一度あの場に身を置いて撮影を楽しめたら、死んでも良いな、とさえ思う。
コロナ禍で、去年に続き、今年も祭りは行われないだろう。静で深い興奮とともに、諸行無常を思わせる寂しさに胸を満たされるあの祭りが再開される日は、また来るのだろうか。

こんな興感は、なんだか感傷的ではあるけれど、自分の奥深いところから湧いてきた、自分自身を自己規定する文化や風土といった根源的なものが打ち震えて発した尊いものであると感じる。



人は様々な感情やとらわれに左右されながら日常を過ごす。
僕の最大の趣味はカメラのレンズの味わいの探求だが、これはもう単なる暇つぶしや躁的防衛の域を超え、深く身に染みついたライフワークでさえある。これは、良い意味で自我を支えるアイテムとして、自分を構成する一つのピースというほどまで成長してくれた稀有な例だろう。

そこまでいかなくても、ちょっとした収集に我を忘れるように気をとられてしまうことは、誰しもよくあるだろう。鉄道模型を集めてしまう。カバンやバッグ類を集めてしまう。ボーダー柄のシャツを集めてしまう。お気に入りのアニメのグッズを集めてしまう…。
それが高じると、時間もお小遣いもそれにつぎ込んで、それに関する情報収集をし、更にはまってゆく…。
しかし、そんな状況に陥っても、自分を失う、というほどまではいかないだろ。普段の自分は相変わらずの自分だ。
これが更に病的に高じると、依存症にまで陥る場合もある。そこまで行くと自我の構成が変化するほどまでに事態が重篤化しており、専門的な治療につなげる必要が生じる。


別の方向に重篤化する場合もある。注意を集中する対象が単なる興味関心を超えて、「自己の奥に眠る何か」を刺激して、それによって湧き起こった「もう一人の自分」が、自分自身を乗っ取ってしまう事がある。
普段の自分を第一人格とすると、それとは別の第二人格が現れ、普段の自分とは違う欲望に突き動かされた「自分2」として心理活動を始める。
第一人格の掌握する自我は、その外周にある超自我によって社会規範に照らし合わせた検閲を受け、社会的な行動を行う。しかし、第二人格は、構造上、第一人格よりも内側にあるため、超自我の検閲を受けにくい。そのため、欲望のおもむくままに想像を膨らませ、ともすると反社会的なものに発展し、あたかも内なる悪魔といったモノにまで変貌する。



きわどいところだった。
危うく、第二人格に自我を乗っ取られるところだった。超自我の検閲・規制を破って、実際の本格的行動に出してしまう直前で、超自我は徳俵一枚という際どいところで、第二人格を退けた。
第一人格は、終始第二人格の暗躍を監視し意識していたが、第二人格を刺激したアニマは極めて強力かつ巧妙で、元来、脇が甘いところがあった第一人格の隙を突いて、いつの間にか第二人格を肥大化させていた。
第一人格はその外にある超自我の検閲を強力に受けるが、第一人格よりも内側にある第二人格は超自我から遠く、検閲・規制を受けにくい。それゆえ自分勝手な欲望をふくらませやすい。

超自我の戦術は、現実の、長年積み重ねた家庭生活の重さや大切さ、家族への愛情や信頼を思い出させるという一見オーソドックスなものであったが、社会人としての矜恃や尊厳を強く思い出させて、また、第二人格を駆動しているのは、アニマに刺激された疑似恋愛感情でしかないという客観的な分析を思い起こさせ、更に欲望の根源の無明、諸行無常の観念まで総動員して、第一人格を目覚めさせるという、自身の持つ知識能力の全力出撃による反攻だった。今の自分の持てる全能力を出し切っての辛勝だった。危なかったが、間に合った。

アニマと結びついて登場した彼女は、愛想と要領が良い、正義感の強い娘だが、年齢や性格がかけ離れすぎていて、客観的には僕とは接点のない娘だ。しかし、様々な要件が重なって、その時は極めて魅力的に見えた。
僕の内なるアニマは彼女の出現を見逃さなかった。「彼女の幻想」を僕自身の心的劣等機能と結びつけて、意識領域に進出しようとした。まず僕の自我に働きかけてきたが、超自我によって否定されると、第二人格を構成・起動し、第一人格を押しのけて自我を奪取する強硬手段に打って出た…という事のようだ。

第二人格は決して消滅したわけではないが、極めて小さくなり、無力化された。しかし、熾火のようにくすぶり続けて、時折、切ないような感情を呼び起こす。でも、そこまでだ。
これで、いいのだ。
危機は乗り切った。
そして、今まで積み上げてきた自身の家族や生活の尊さを再認識させてくれた。



これは、誰しも経験する、人生においては恐らく誰しも数度は経験するありふれた事件なのだろう。状況によっては、第二人格に押し切られることによって、幸福な人生を得ることもあるだろう。
一概に悪いことではない。
今回は、たまたま僕のライフサイクル上、第二人格の出現はあまり都合の良い物ではなかった、とういだけだ。
僕の現在のライフサイクル上、都合が悪い感情が湧き起こったからこそ、(第一人格で、その感情が排除され)、第二人格が出現し、そこで成長し膨れ上がった、という事だろう。


今回は、ここまで客観的に観察し、コントロールする事ができた。
しかし以前、人生においてまだ未熟だった頃、何度か危ういところまで行ってしまった経験がある。
まあ、自己弁護する訳ではないが、人間とはそういうものなのだろう。
誰も今回の僕を笑うことはできないし、僕も同様に誰かの失敗を揶揄することはできない。
第二人格が自我を乗っ取って主導権を得て、反社会的な行動に出ていたら、社会的な制裁は免れないであろう。しかし、その時はその人にとっては、そうするしかなかったのだ。
或いは、そうしてしまうことが、その時のその人だったのだ。

週刊誌のろくでもない恋愛沙汰のゴシップを喜んで読んでいるようでは、自らの地獄に出会ったとき、自ら救いを見出すことはできないだろう。他者の行為を批判して喜ぶという姿勢は、他者に対する自己の優越を捏造して自我の安定を図ろうとする企てでしかない。

しかしまあ、それも人。
人それぞれ、ということだ。
自分が賢いというのではない。
たまたま、今回、自分は自己救済することができた、というだけだ。

良いも悪いもない。
賢いも愚かも無い。
その時のその人は、そうであった…というだけだ。