過剰な何か

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サン テグジュペリ 7月31日 - 藤尾
2021/07/04 (Sun) 22:58:16
飛行場脇の宿舎に隣接するバーに入ると、室内は煙草の煙で霞んでいた。
喧騒がピタリと止み、全員が俺に注目する。
「サン テグジュぺリ。飛行士」
平静を装い、簡単に自己紹介を済ませた。この場では、俺は世界的に有名なベストセラー作家では無い。ただの、一人のパイロットだ。

カウンターでウイスキーのグラスを受け取り、さりげなく室内の連中の様子をうかがう。カードゲームをしている数人の横に一脚空きがある。カードは得意だ。ごく自然に近づき、
「空いてるかい?」と軽く挨拶してスルリと座った。
控えめに軽口を挟みながらゲームに参加してゆく。フランス、スペイン、アフリカと、飛行基地を渡り歩いて得た社交術が自然と発揮され、今回も、場に溶け込む事ができた。

人はこう言っても信じないだろうが、俺は本来無口で内向的な性格だ。一人でボンヤリと空想にふけるのが好みだ。他人に自分の世界に踏み込まれたくない。
そんな自分の世界を守るために、逆張り的に周囲の他者にどんどん話しかけて、その場を上手く回してゆく。しかし、それらは、どうでも良い話ばかりだ。その場が保たれればいいだけだ。自分の地を出して、大切な話をするのは…ごく限られた相手だけで充分だ。
そう思う一方、他者を利用したり、既成概念で他者を値踏みすることはしたくない。馬鹿話をしている時も、心からその場に身を投げ出す。俺の中では矛盾ではない。



妻であるコンスエロは、魅力的な女だった。華やかな声音、当意即妙な会話、切れ味鋭い論評、しかし同時に、情熱的で負けず嫌いな、確固たる自分の世界を持ち、決してそれを曲げない。ある種の完璧主義者である彼女は、自分の要求が少しでも聞き入れられないと、俺を責めて口をきいてもくれない。オレはもう、疲れ切った。
憧れの対象は、遠くから静かに想うだけ…にしておくべきだったのか?
生きてゆくことは、愛おしい。そして哀しさを内包している。人は裏切られ続け、この世を砂漠だと感じる。しかし砂漠がこんなに美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだろう…。
死や別れと直面すると、人間は他者との結びつき、他者との絆の深さに気付く。他者と深く結びついた自分に気付く。
そこへ戻ろう。せめて魂だけでも…。

そんな想いは、フランスの同胞に対しても抱かざるをえない。ヴィシー政権からも、ドゴールの自由フランス軍からも裏切り者呼ばわれされる。さらに、同胞の大多数は、抵抗して血を流す者はバカだと言わんばかりにドイツ占領軍にへつらう。既得権益者は何事も無いかのように、我関せずだ。まさに、故郷は遠くから眺めて懐かしく思い起こしているうちが花なのか。同胞にも、国家にも、もう疲れた。しかし、それでも、自分の故郷であることにかわりはない。

幸福は、対象を所有することではなく、所有物を増やすことでもない。対象と、心豊かな交わりを積み重ねるという関係の質にこそ在る。
他者とは、具体的な、感性的な存在だ。声、雰囲気、パーソナリティーだ。別れは哀しいが、再会の歓びも深いだろう。
今は、大切な所へ帰ることをめざして、生きよう。

ロッキードP38の搭乗制限年齢は35歳だ。一人乗りとしては大型機であり、高性能であるが故に操縦するのは肉体的負荷が大きい。偵察型機(F-5B)のため高高度を飛行し、気温差・気圧差が大きく、適応力が求められる。着陸速度も速く、反射神経が問われる。
40歳を超えた自分は、あらゆる手段を使って搭乗を認めさせた。理由は…そうせざるを得なかったのだ。最前線に立ち続ける事が、どうしても必要だったのだ。そうするしか、ないんだ。



高度一万メートル、時速600km/h。地中海、サルディニア島の基地を飛び立ったP38偵察型機F-5Bでリヨン上空を偵察飛行した帰路、疲労に襲われた。このところずっと眠れない日が続いている。自分はファシズムとの戦いの前線に立ち続けなければならない。しかし、祖国フランスは身内争いが続き、自分は裏切り者扱いだ。なんという本質を離れた不毛。コンスエロとの今後は思うだけでも哀しい。そんな事をボンヤリと思っていると、不意に敵機からの攻撃を受けた。この高度・速度で攻撃を掛けてこられる敵機は居ないはずだが…。上空を縦横が奇妙に長いドイツ軍機が追い抜いてゆく。開発が噂されているフォッケウルフTa152高高度迎撃機か?
激しく被弾した。急降下しだした機体はコントロール不能だ。このまま地中海に突っ込むのか…。急激なGの変化で気を失った。



P38偵察機F-5Bでフランス南部からイタリア北部の敵戦車隊の配置を撮影し、地中海上空を帰路につく。コルシカ島付近は幼少期に過ごした場所だ。今日は雲も無く良く見える。あの頃は良かった。物と人とが心を通じていた。それが今はどうだ、精神が物質に圧殺されてしまっている。この恐るべき人間の砂漠は、わたしの心をなごませるものは何一つ無い。しかし、砂漠の底に隠れている井戸があるはずだ。祖国にも、妻コンスエロとの関係にも…。そんな事を思いながら、もっと良くコルシカ島を見ようと高度を下げた。
うかつだった。背後の警戒が疎かだった。突然後方から銃撃を受けた。メッサーシュミットBf109が上空を追い抜いてゆく。エンジンが火を噴いた。昇降舵が効かない。どんどん海面が迫る。脱出…いや、ついにこの日が来たのだ。(自分は密かに、これを望んでいたんじゃあなかったのか)
砂漠がそれでも美しいのは井戸を秘めているからだ。ああ、帰るべき場所があるじゃないか。そこへ帰ってゆくんだ…。



サン テクスの被撃墜には2説ある。
ドイツ空軍が開発試作中の高高度迎撃機フォッケウルフ・タンク152(?)に落とされたというもの。高度1万mを600km/hで飛行するP38が撃墜されるには必要な道具立てだ。しかし、1944年7月に実弾を積んだ試作機が飛行していただろうか?

もう一つは、メッサーシュミットBf109に落とされたというもの。これは、当の独軍パイロットの証言が近年公表され、資料的にもほぼ確定とされている。
なぜサン テクスは敵機の出現する危険のある高度まで降りてきていたのか?
思い出深いコルシカ島を見るためか、いつものボンヤリ癖か、酸素吸入装置に異常が発生し高度を下げたのか…或いは…。

Re: サン テグジュペリ 7月31日 - 藤尾
2021/07/06 (Tue) 15:39:05
人は、自分の想いを他者や社会から裏切られ続けて、この世を砂漠だと感じる。しかし砂漠がこんなにも美しいのは、どこかに井戸を秘めているからだ。
(人生・人の世が醜く辛い物であると感じることがあっても、それでもこの世が愛おしく思えてしかたがないのは、どこかに美しい物・大切な物がひとかけらでも有るからだろう)


単に物を所有することに心が囚われたり、他者との比較で優位に立つことに心を奪われていては、幸福は得られない。
「大切なものは、目には見えないのだから」

「バラの花に水をやるのを忘れていたんだ」
大切なものの存在に気付いたら(それを思い出したら)、そこに帰って行って、それを大切に育てるんだ。



サン テグジュペリの「星の王さま」は、美しい啓示や箴言が散りばめられている。
昔読んだときは「何だコレ」という感想しか持たなかったが、今は一々がシミて沁みて…。

しかし、サン テクス自身の周囲の現実は厳しいものだった。祖国は戦争で占領され、人々の心は分断されている。妻との仲違いも解決できそうにない。どうにもならないのか…。しかし、砂漠には隠れた井戸があるように、祖国にも妻にも、かけがえのない愛しい想いが残っている。大切な愛しい場所へ帰ろう、現実が上手く行かなくとも、せめて魂だけでも…。

サン テクスは、戦争が終わったら修道院に入って修道士になるのだとも言っていた。まるで「星の王子さま」は遺言か墓碑銘ででもあるかのようだ。
フランスの同胞へ向けての、そして妻へ向けての。
世界中の人へ向けて…の。(200以上の言語に翻訳され、その想いは成就した…?)



仏教は煩悩(愛着)から離れよ(執着を手放せ)、と言う。諸行無常なのだ、と。
実際にそれを捨て去れ、というのでなく、「今とは違う視点もあるのだ」と気づけ…ということでしょう。頭を冷やせ、と。世界が違って見えるようになるぞ…と。

芸術は、精神の高揚や苦悩、偏りから生まれるのかもしれない。でも、人が生きてゆくには、平穏さや無難さも欲しい…。
無事に生きてゆくために、正気を保つこと…、禅仏教の知見が、そんな所につながればいいなと思う。
人それぞれ、だ。何が絶対に良いなんて言えっこない。
でも、こだわりや結ぼれ、執着から自由になると、気分が楽になる。
最後には、それを目指したいな、と。
愛しい時間もあるが、別れも必ず訪れる。それ(離別と悲嘆)を拒否するのではなく、それと供に生きてゆくには、それを受け入れる心の涵養が必要かも知れない。
夜、星を見たら、王子さまが笑っているのを想像できるような。
そして更に、相対化し、脱同一化してゆく…。
酸いも甘いも、人生のあれこれを味わいつつ、それに引きずられすぎないように。
自分の視点など、幻想でしかないのだ。
決してニヒリズムではない、半歩離れた相対的な視点を、どこかに持って生きてゆきたいな。




Re: サン テグジュペリ 7月31日 - マリオ
2021/07/10 (Sat) 19:49:06
還暦過ぎて尚尽きぬ、戦記や兵器への興味、潤滑油や燃料の薫香への憧れ、、アタシももう一度読み返してみたい。この双発機が年齢制限があったとは初耳です。それと、同時代の米軍機が、アナログのコンピューターやらレーダーやらを搭載して、自在に飛び回った?って最近知ることになり、唖然、、、
Re: サン テグジュペリ 7月31日 - 藤尾
2021/07/11 (Sun) 23:26:49
やあ、ども。
本稿は、ふと思い立ってターッと半日ほどで殴り書きしたのだが、一つ確信が持てなかったのが、ロッキードP38(F-5B)に与圧室があったのか無かったのか、だ。

改めて調べてゆくと、与圧室を装備した試作機はあったらしいが、正式採用はされなかったようだ。
同じように排気タービンを装備したリパブリックP47には、与圧室はあったはずだ。と、思ったが、調べてゆくとエアコンは装備されていたらしいが、コクピット与圧は試作機だけのようだ。被弾・爆発を恐れて、当時の単座戦闘機への採用は無かったということか。技術的な難易度に対して、当時の戦闘機での需要は低かったということか?

排気タービン(ターボチャージャー)装備機といえば、本邦の機体ではキ87やキ94Ⅱといった高高度戦闘機が思い浮かぶ。一説には与圧室も装備していたというが、ここら辺は不明。いずれにせよ、当時の日本の技術や素材では、ターボは難易度は高すぎた。
(ウチの軽自動車ジムニーのエンジンには、シレッとインタークーラー付ターボチャージャーが付いていて、低回転域からスムーズで強力なな出力特性を得られるという恩恵にあずかっている。ウチのヨメに「ジムニー、ターボが付いてんねんで。凄いやろ」って言うたったら「え、そんなん付いてたっけ?で、何が凄いん?」という。少し前までは、クルマのターボって、スゲえ高回転域でいきなり効くドッカンターボ=走り屋仕様というイメージだったが、今や軽に装備されマイルドな走りに寄与する標準装備品だ。今ではそれぐらい何でもないメカになったということだろう)


B29に与圧室があったのは有名な話だ。当時の実戦投入モデルで与圧室装備はB29だけなのか?
B29の与圧室といえば、日本上空で撃墜され墜落したB29を日本の官憲が調査したら、乗員がTシャツにサンダル姿だったということで、「いかに米軍は逼迫しているか、爆撃機搭乗員に飛行服も支給できないでいる」と、宣伝した…という話があった。(この件、真偽不明)


今や戦闘機も、機体自体の大幅な進歩は終わり、あとは電子戦機器の更新が続けられるだけで、機体自体は永年運用され続ける…と言う時代だ。
で、お次は、広義のAI兵器、自爆ドローン、無人兵器のAIによる攻撃の自律判断…などが、10年以内に大国に装備されるという。近年のアゼルバイジャン紛争では安価なカミカゼ・ドローンが猛威を振るった。確実に戦闘開始の敷居が下がる。
戦争行為における軍事力の意味・内容も変わる…ということだそうな。
電磁波爆弾で、デジカメのデータが消えちゃったら困るなあ、なんて、のんきな事言ってる場合じゃあ無い?www

与圧室・ターボ過給機 - マリオ
2021/07/12 (Mon) 20:13:33
B29は与圧構造で当然行き届いた空調、、24Vの電装でコーヒー沸かして快適な爆撃の旅だったらしい。翻って日本の冶金技術ではターボチャージャーは実用にならなかったらしい。アタシも長じて昭和⇨平成の切り替わり後、ウイングターボって技術に関わることがあり、感慨深くこの航空エンジンの技術を堪能したよ。現代の小燃費志向時代にあっては省エネターボが一番合理的じゃないかなぁ?二代続けてハイブリッド車に乗ったけど、、色々な考えの結論として今は自然吸気だけのものに乗っている。だけど、自分の排圧を有効活用して吸入空気を増やすと言うのは、誠に合理的な技術だね。
ジムニー、、いいよなぁ。アタシも最後の車にどうか?と考えたい(一方、2サイクル時代のジムニーも魅力が満載)
砂型 - 藤尾
2021/07/13 (Tue) 22:52:21
おお! マリオ氏の結婚式での、上司の方のスピーチを思い出すよ。
「鋳物は、砂型10年などと申しまして、この仕事の肝になりますが、彼は実に筋が良い」
とか何とか。
ありゃあ、クランクケースでも作っておったのかい?



今回はサン テグジュペリだったが、第二次大戦の飛行機モノの小説・ジュブナイル物として有名なのは、
・ロアルド ダール「単独飛行(Going Solo)」
・ロバート ウェストール「ブラッカムの爆撃機(Blackham’s Wimpy)」
がある。どちらもイギリスらしい渋みの効いた小説だ。

サン テクスはいい歳こいたオッサンだったが、この2冊の主人公は、RAFに入隊した若者たちだ。淡々と事態を受け入れながら、客観的な視点を見失わずに生き抜いてゆく。
この世は矛盾に満ちた酷いもんだ。でも、そいつに飲み込まれないように注意して生きてゆくと、静かに、この世は生きるに値する…と気づいてくる。
何だか、透徹した雰囲気のある小説だ。独特の読後感。
熱せられすぎる事も無く、さめているのでもない。
これが本物の小説ってえもんだぜ。ホンモノはスゲえなあ…と、しみじみと感じ入るものがある。



人は日常、様々な事柄に囚われて生きている。
ああ、自分は今、こんな事に囚われているな。身近な誰か他者に。周囲の社会環境に。所属する集団に。時代認識に。趣味と称する何かに。とりあえず目の前にある暇つぶし程度のモノだったはずの事に。
半歩高い立ち位置から、それを自覚する目を持つと、少し冷静に戻れたりする。
そうすると、周囲の他者も、同じように何かに囚われて生きているのが見えてくる…。

この世は、矛盾に満ちた酷いものだ。
でも、誰しもがそこを生きているのが見え、自分もそこを生きているんだと気づくと、ああ、そこを生きてゆくんだな、まあ、それならそれでいいかと、思えたりする。

ちょっと得難い体験、といったところでしょうか。この2冊。この小説の醍醐味は、ジュブナイルとくくるのがもったいない。



Re: サン テグジュペリ 7月31日 - マリオ
2021/07/24 (Sat) 18:52:51
この2冊手配して堪能してみるか?どんなものでも見るとやるとでは大違いで、、観たり想像したりその体験を文章にしたものを読んでも、本物の1/100くらいの情報しか伝わらないんじゃないかな、今でも毎日ナナハン乗っているが毎日少しずつ慣れてきている←少しずつ上達している。そして加齢の神経の鈍さ・筋力の低下で拮抗して、飽和、、つまりこれ以上は上手くならなさそうだ。故に「ライディングのコツ」みたいな本は意味がないなぁ。
Re: サン テグジュペリ 7月31日 - 藤尾
2021/07/31 (Sat) 13:40:37
ども。
やー、ワクチン2回目接種で熱が出て、三日間ダメでしたw
一回目はごく軽い微熱程度だったけど。これ、ブースターとか言って来年に三回目接種とかありそうだけど、今から怖いwww



やあ、面白いな。「上達のコツ」モノの本とかwebコンテンツとかって、
・各人のレベルに応じた、押さえるべきポイントの解説
と同時に、
・気づき、とか発見を促す
っていう面があるよね。

それは、各人の課題の発見、っていうのに止まらずに、さらに、
自分は何でソレをやってるんだろう、どこに面白さや歓びを見出しているのか。
何で自分はそれに向かうのか。
まで導くような本、深耕を促す文章だったら、結構ホンモノかな、と。

多くの場合、そこまでは語られないし、読者もそこまでは求めていないわけで、あんましそこまで言及するモノは無いのだが、スランプに陥ったり、限界みたいなモノを感じたり、何だか飽きて踊り場的に情熱がさめかけた時なんかに、そんな覚醒を促す本・文章に出会うと刺激になりますな。

以上は、写真・カメラ関連の「上達モノ」を念頭に語ったのだが、昔、プラモ雑誌にこんな名文があった。
「プラモを作る情熱が冷めたと感じたら、戦記モノや歴史書を読め」と。燃料を注入しろ、っていう事でしょうか。

いずれにしても、自分自身の満足、充足のためにやっている事って、自分が何だか知らないけど好きだからやっている訳で。
単にソレが対他者関係の構築上、必要でやっているだけとか(接待・付き合いゴルフとか、付き合いマージャンとか、付き合いゲームとか)、流行だからやってみているというのにはない、内発的動機に突き動かされているであって。



あるいは、ソレは、他者に対する自己の優越を捏造するためのアイテムでしかないのか?
これ、大いにありがちですよね。嫉妬によって動機づけられている場合も同じで。
カメラ界で言えば、ライカですよね。
ライカは特別な存在だ。持っているだけで、「お!」と、一目置かれる。ライカを持てば、「オレ様も遂にライカ持ちだぜ」という気分になる。


僕は以前、「ライカはカネの匂いがプンプンする」といって毛嫌いしていました。でも、今はごくごく自然にライカ使いです。(僕の場合はレンズだけですが)
実際、ライカのレンズを使い倒してみると、本当に特別であることが分かってくる。高級レンズ(お高いレンズ)には、高価なだけの理由がちゃんとある。
「解像感」の高さだけを、一点突破的に狙ったエゲツない「高性能」レンズとは訳が違う。トゲトゲし過ぎない素直で上品な描写。豊かな階調表現。誇張しない色彩再現。世界観が全然違う。
勿論、国産高級レンズで、これに迫る描写のレンズは存在し、ライカの半額以下で買える場合もある。それが分かる人は、そっちを使ったって充分幸せになれる。自分も、一部はそうしている。でも、今やユニバーサルマウントと化したMマウントレンズは、ボディのメーカーを選ばない。ゆえに、一番大切なレンズだけは、(同じ描写が得られる、ライカより大幅に安価な国産レンズに置き換えずに)ライカを残している。

ここまで来ると、「ライカ」は、決して見栄っぱりのために持つなどという低次元の動機を超えて、自分自身のカメラ道・写真道の実践に必要だから持つ、という域にまで達していると言えるだろう。



自分自身の内発的動機って、何だったんだろう。そもそも、ソレがあったのか、そんなモノははなから無かったのか。
あったとして、それは他者との比較において勝利するために、という事ではなく、「面白い!よし、それをやりたい」からやる、というものであったか…。

読書であれ、カメラであれ、絵画であれ、オートバイであれ、プラモであれ、演奏であれ…そんなのが続いたら、楽しいだろうね。


加齢による衰え…の件。谷垣幹事長が自転車でコケたのは71才ぐらいだったか。気をつけましょ。