過剰な何か

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フロイドとクリムゾン - 藤尾
2023/03/11 (Sat) 22:06:55
青年期に最も熱心に聴いていたのは、Pink Floyd とKING KRIMSONだ。
しかし、今ではレコードも売り払い、CD一枚持っていない。ときたまネット上にUPされている曲をつまみ食い的に聴くと、ああやっぱりフロイドとクリムゾンはいいなあと思うけれども、今またアルバムをDLしたりCDを買おうとは思わない。
なぜか?

僕は、青年期における自我の再構築に失敗し、高校から大学にかけて、心理的に極めて危うい時期を過ごした。フロイドとクリムゾンを集中的に聴いていたのはちょうどその頃に当たる。
フロイトもクリムゾンも、極めて精神性の高い楽曲、アルバムを出し続けていた。曲も歌詞も、孤独・不安・疎外をテーマとし、僕の不安定な自我にグイグイ食い込んで刺さって来た。共鳴しすぎて、不安発作っぽい時は危険で聴けなかったほどだ。自我の不安定さを増幅させて危険を感じるほどだった。
それでも聴きたかった…。胸を撃ち、心が揺さぶられるから。

僕の中では、そんな青年期の心理的危機とセットとして、フロイド・クリムゾンが存在するため、どうしても、今更CDを買おうという気になれないのかもしれない。

     ※

音楽は、人により、いろんな聴き方、感じ方があるだろう。フロイドの「The Dark Side of the Moon」の、当時のLP版のライナーノーツに、元NHK教育テレビのディレクターの某氏とやらが、ドラッグ文化と結びつけた解説を書いていた。当時それを読んで、正直、こいつはバカか、としか思えなかった。(今は、あの元NHK教育テレビをドロップアウト?したロン毛の彼は、当時最先端で流行していた時代の雰囲気を生きていて、実際あのアルバムを、そういうふうに聴いたんだろうな…と理解することができるが…。それでも、僕は今でもあの解説は、とんでもない的外れだと思ってしまう)
まあ、ひとそれぞれに音楽に出会い、各人各様の感じ方、共鳴の仕方、聴き方をするのは当然だ。
それは音楽に限らず、小説も、政治も、社会問題も、各人それぞれの年代、時代、境遇、立場、性格傾向を背景として、とらえ方や反応の仕方がかわったものになるだろう。僕も、フロイド・クリムゾンは、やや病的な聴き方をしていた…というわけだろう。


フロイドは、どうしてもトータルアルバムとして評価したい。クリムゾンも同様とはいえ、どちらかと言えば、単曲ごとでも優れたものが多いと感じる。例えばThe Night Watchの美しさや普遍性や文化の香り高さはどうだ!


     ※

フロイドのメンバーも、歳をとったが存命で、ツイッターでそれぞれが元気に音楽活動をしている様子がUPされたりして、なんだか嬉しい。ロジャー・ウォーターズは、小うるさそうな、いかにもひと癖ふた癖ありそうなジジイになったが、実に味わい深い。デビッド・ギルモアは、いたずらっぽい笑顔が今でもチャーミングだ。ニック・メイスンは相変わらずエネルギッシュだ。リック・ライトは相変わらずの静かな脇役だが、カッコ良くてイイ男だ。
僕が青年期にフロイドを聴いていた時は、彼らはずいぶんとオトナに感じていたが、年齢差はたかだか十数歳でしかない。今は彼らは後期高齢者のジジイだが、こっちもいつの間にかジジイになった。
青年期、精神的にギリギリで聴いていたフロイドやクリムゾンだが、今はゆったりとした気分で楽く聴くことができる。彼らの過去の演奏も、近年のステージも、相変わらず胸に迫って来るが、当時のような負の共鳴ではなく、今はプラスの感動として聴くことができる。僕は、いつの間にか精神的に寛解していたのだろう。学生期の心理的自己救済の必死の努力や、社会人生活をする必要上、現実世界と切り結ぶうちに、やっと、いつの間にか、この世に生きる事が板についてきたというわけだ。(他人と会ったりしゃべったりするのは、今でもおっくうで仕方がない。でも、総務屋・人事屋を長年やって、毎日嫌でも人と対面して話したり調整役をやったりという機会がやたらと多かったおかげで、多少それにも慣れた…ということか)
Life is Good
人生は捨てたもんでもない。(もちろん、人生はクソッタレで地獄に他ならない。地獄とは、この世に他ならない。でも少しは、人生も捨てたもんじゃあないと思えなくもない。人生は、生きるに値する…気も、少しはする)


先日、旧友マリオ氏と懐かしい音楽についてのやり取りをしたせいか、今日はそんな事が頭にうかんで、ザっと殴り書きしてみた。

(画像↓ ロジャー ウォーターズ、タダの好好爺なんかじゃあなく、一言も二言も言いたげな味のあるジジイになった。僕はこういう姿を目指したいとは思わないが、好感を持って拍手をおくりたい)

Re: フロイドとクリムゾン - マリオ
2023/03/14 (Tue) 15:47:39
これらはプログレと言うカテゴリーなのだろうか?`70年代以降は、The Beatles一辺倒だった洋楽が3乃至5程度のカテゴリーに分かれて、`80年代は其々が更に数個のサブカテゴリーを持ち、今や洋楽っても30くらいのジャンルに分かれているし、その定義も時代と国に依って異なる。滞米時代にも相変わらず下手なギターをやってたんだが、現地で21世紀風の(日本人が言う)パンク系ハードロック(普通のヒット曲)はプログレと呼ばれていて、能天気な歌詞のロケンロー(今の流行りをプログレと解釈しているらしい)って感じだった。さて才人・ヤマタツが警告している通り「The Beatlesを聴くと生涯そこから抜け出さず、聴く音楽の範囲が云々」で、アタシも洋楽ととんと弱い。日本で洋楽のチャートに上がるものの99%は知らないと言って良い。多分、ELP, YESとかこのへんの曲も素晴らしいのだろうが、知らない儘人生を終わる予定だ。(ナントカの神経衰弱は再結成のフライドエッグが`97年にドームで演奏したので聴いた)同様に、実は我々の少し年上世代のアイコンの様な「明日のジョー」を全く読んでいない。10年ほど前に同僚に「読むべきか?」と照会した処「不要」との回答、、、他に知るべき音楽・読むべき本も沢山あり、全部に手が回らない儘惚けて行くのだろう。
でも藤尾君ま深い感動を読むことでなんとなく擬似体験した気になれるのでありがたい。重版期待します。
Re: フロイドとクリムゾン - 藤尾
2023/03/23 (Thu) 14:56:29
うむうむ。
「あしたのジョー」は、床屋の待合椅子で読んでいた。月に一度床屋へ行って、待ち時間中に一か月分のマンガ雑誌をダーッと読む、という習慣だったのだ。
ただ、あしたのジョーは、我々よりも一世代上の年代の人たちが一番刺さったのではないか?ワイが読んでた頃は、ワイはまだ子供過ぎた気がする。
団塊の世代の連中や、全共闘なんかの東大闘争で立てこもった学生たちとかが、(自分自身の闘争と重ね合わせて)むさぼるように回し読みした…とか。そーいえば、三島由紀夫が、次週の「あしたの~」が待ちきれず、突然編集部を訪れ「三島です」と言って次号の早刷りを読ませてもらった…という都市伝説がある。ありゃあ本当の話なんだろうか。いずれにしても、我々の世代はちょっと遅かった感じ。


     ※

当時、日本のプログレというと、ファーイーストファミリーバンドってえのがあって、その「地球空洞説」というアルバムがあった。当時日本の一部洋楽ファンは、英国のプログレバンドの出現に打ちのめされたり、あこがれたりで、四人囃子の「一触即発」が出たりして、激震が走っておった。
同時に、「ロック・フォークは(洋楽風の音楽は)日本語では無理か?」論争がロック界隈でもフォーク界隈でもあって、クリエイションとかが英語で歌ったりするわけだけれど、今思うと、すんげえ過渡期だなあ…と。西岡たかしが「貝殻節」をフォーク調で歌ったり、「こきりこ節」を歌うフォークグループが出たり、そりゃあもう今思うと涙ぐましいストラグルだ!


(そういえば我らが母校・浦和市高の文化祭で、講堂での生徒たち出演のライブみたいのがあって、ELPだかYESだかのコピーバンドが出たことがあったっけ。やたら爆音過ぎて聴き取れないほどだったけど。そのステージづくり全般の裏方で、ストレートロングヘアーにカネブチ眼鏡の生徒がライティングとかで飛び回っていたのが印象的だった。ほとんど高校時代の記憶って無いんだけれど、そのシーンはなぜかハッキリ覚えている。きっと、凄く羨ましかったんだろうな…www)


で、ファーイーストファミリーバンドという、ヒッピー風の超うさんくさい風貌の(笑)バンドは、日本語で歌った。曲は何やらプログレ風でカッコいいのだが…歌詞が…残念だった。小学生の作文以下だった。なぜか?彼らに文化的素養が余りにも乏しかった、という事と、彼らに「歌詞を書く、内発的理由」が乏しかったのだろう。プログレ風の曲自体は、彼らがそれに強く憧れていただけに、よくできていた。だって、それをやりたいと彼らが強く熱望して曲作りに向かったのだから。
でも、じゃあ、歌詞は?何を歌うのか?は、まあ、特に無かったんだろうね。だから、まともな歌詞は書けなかった。芸術未満…。作品未満…。
ピンクフロイドやキングクリムゾンが凄かったのは、曲も歌詞も極めて強い内発的理由に導かれて、止むにやまれず、書かずにいられないという内圧に押されて楽曲づくりをしていた、っていう所なんだよね。しかもそれを、普遍性を持った高みまで昇華させて完成させている。んで、50年近く経った今聴いても耐えうる強さ・普遍性をもっている。
これ、これって、ここまでくると「芸術」なわけです。(「芸術」の定義の一つに、抑圧のない欲求の昇華っていうのがある。それね。ただ横道だけれど「現代芸術」はその文脈を理解しないと意味や価値がわからないっていうのがあって、「現代アート」って、本来の芸術とは「ちょっと違うもの」と言わざるを得ない。脱線)

その少し後に喜多郎の「Endless Dreamy World(天界)」が出たりする…が、いいかげん疲れたんでこのぐらいにしておく。


(※追記…宮下フミオや後の喜多郎が、その後ヒーリング的な音楽を展開し・開花してゆくのを思うと、ファーイーストファミリーバンドの曲は、その揺籃期であったと、今は理解できる。でも僕はどうしても活字人間なので、曲と同時に、いやそれ以上に歌詞が気になってしかたがない。曲は本当にフロイドを彷彿させた、雰囲気のある素晴らしいものだったが、 くどいようだが、地球空洞説の歌詞は…当時僕は高校生だったが、高校生を思わず赤面させて俯かせる歌詞って、どんだけよ?。その後、彼らは歌詞の呪縛から離れて本領を発揮することになったのでは。と勝手に思ってしまう)

(追記2 … あんまり他人の悪口は言いたくありません。でも、高校生の時に小遣いはたいて買ったLPレコードがクソだった怒りとか悔しさとかが今思い出してもよみがえって来て、平静ではいられませんwww
ラジオでチョロッと聴いてフロイドっぽい曲がかっこ良くてシビれて大急ぎでレコード買って聴いたら、あの歌詞…バカー!!という感じ。まあ、比較対象がフロイドやクリムゾンですから、ハードル高すぎてカワイソウっていえば、まあそうなんですが。LPは同じ値段ですからねえ…)

     ※

知るべきもの、読むべきものの件。うむうむ、ものすごく面白いテーマだ。
そーいえば、マリオ氏は手塚治虫全集を持っていたり、今思うとなかなか慧眼だな、と。

日曜の夜にNHK教育テレビで、クラシック音楽の番組があって(N響定期公演とか流してるんだが)これ眺めてると、すげえ面白い。見入ってしまうっていうか、聴き入ってしまう。でもワイは、全然クラシックの素養が無いから、まるっきり覚えられないし、深堀りもできない。残念ながらワイは、クラシック音楽は、ほぼ知識のないまま、楽しみ方を知らないまま、時間切れで人生を終わらせることになるのだろう。
ジャズもそう。ビル・エバンスを辛うじてほんの少し聴けただけ。ジャズも聴くとものすごく良いのは判っているけれど、時間切れで、ほぼ知らず終わりを迎えることになるのだろう。
文学も同じ。海外、日本を問わず、読むべき名作やら古典やら、リストは挙げられるけれど、ほぼ読めないだろう。なんせ、家の蔵書でもう一度読むべきものの順番があり、それだけで何年もかかりそうだから。

人生、短いね。一日の時間も短かすぎるよ。(あと2~3時間余分に欲しい)
まあ、これは、自由に身体が動く・自分の好きに使える時間があるから、という恵まれた状況にあるから、かもしれないけれどね。

ワテは、自分で言うのもなんだが、会社に時間を捧げすぎた。家庭を蔑ろにし、自分自身の時間・人生をほぼ顧みず、考えてもこなかった。そんなわけで、残り少ない自分自身の時間は、家庭に・家族に、惜しみなく捧げるんだ。それは、内発的な欲求であり、楽しみであり、そうせずにいられないから。


(画像↓ 玉川の「Let It Be Coffee」。もう通勤定期券も切れたし、都内に出るのも億劫だから、気になってるけど行けないだろうな…。ワテのごく初期の習作「アトム涅槃図」やっとアドビ フレスコの使い方が判り始めた頃のものwww)