過剰な何か

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シンクロニシティ - 藤尾
2023/03/29 (Wed) 00:13:12
春の雨とともに気温が下がり、花の寿命が伸びたのか、桜の満開が続いている。
例年であれば今頃は、桜が咲き誇り新緑が芽吹く秩父の巡礼古道を、カメラを持って朝から晩まで撮り歩くのだが、今年は行けそうにない。
薬の副作用がキツく、外食が怖い。少し遠めの外出も自信がない。こんな日が来るなんて…、と思う一方、生きられるように生きればよい、とも思う。それなりに生きるしかないし、残された中に凝縮した楽しみを見いだせれば、と思う。


     ※

悪い事ばかりではない。
月間「みすず」に、大塚紳一郎が興味深い話を書いていた。
僕にとってユングといえばどうしても「影」で、シンクロニシティは避けてきたというか今一つ判らないままだった。(大塚は「ひとつの心とひとつの世界・越境するユング心理学」を訳していて、この本はその問題に肉薄しているのだが、やはり一枚モヤがかかった印象はぬぐえなかった)

さて、「みすず3月号」に大塚がよせた「最初のシンクロニシティ」という論考は長いものではないが、目からウロコの驚きがあった。
シンクロニシティ(共時性・意味のある偶然)は、単なる「偶然」をさすのではない…と。
意味の感覚。変容をもたらす意味の感覚。
「何らかの心の状態と、そのときの主体の状態と、意味において対応するように思われる外的事象との同時発生」
思考や感情など心の内的体験と、いま居る世界のなかでの外的出来事、その両者が同じタイミングで起こること。
その両者の断絶を越境する体験! 
(※…河合隼雄がチューリッヒでの修業時代に、とある選択に窮した時、彼のスーパーバイザーが大真面目に、当然のように「易」をたてる場面…あの、易者さんが長い竹ひごの束をじゃらじゃらやる、アレ!!…を思い出す!)
心の世界と外的世界の断絶を越境するという事!!!
意識と無意識との、こころと体との、男性性と女性性との、個人的なものと集合的なものとの、それぞれの断絶の影響を見極め、必要に応じてその断絶を乗り越えて、生き方の変容をもたらす…
しかし、どの体験をシンクロニシティと呼ぶに値するかは、自分自身の人生を真剣に、一生懸命に生きた後にしかわからないのだ…と。

と、大意そういう文章だった。
決して、「神秘主義」や「魔術的思考」として、ではなく。(ユング自身が最も恐れたことだ)そして、安直な理解で終わらせないように(web上では、無邪気で単純な理解で終わらせているものが、山のように多く出てくる)

う~ん。すげえ。目からウロコ。生きていてよかった。
まだまだ、知るべきこと、ここから深耕するべき事がある。
朝に学び夕べに死するも可なり…だったか、でも、バカはバカなりにまだ読むべきものは多い。

     ※

今年は、秩父に桜を撮りには行けなかった。でも、近所で雨の野良桜を撮った。
何が不足か?