過剰な何か

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埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館) - 藤尾
2024/04/05 (Fri) 20:29:40
徴兵されて陸軍工兵二等兵となった。貨物船に乗せられ、海を南へ向かう途上で行く先を教えられた。フィリピンだという。これは、バナナやヤシの実が食い放題だな…と思ったが、とんでもない話だった。

陣地構築や橋を掛けたりして数か月すると、米軍が上陸してきた。艦砲射撃やら敵機の爆撃、機銃掃射に追われて、とにかくジャングルの奥へ逃げる。携行した食料はあっという間に尽きた。あとは現地調達だ、と言えば聞こえは良いが略奪だ。しかし、集落を見つけても住民は逃げ散っており、穀物類が多少あるぐらいで、多くの場合何も残っていなかった。残されていた水牛を、角を木に結わえ付け、立ったままの水牛の首をノコギリで切る。ブワッと流れる血をかぶりつくようにすする。塩分がうまかった。

水牛もなかなか見つからなくなると、あとは木の根やトカゲや虫を煮て食う。しかし、煙を上げると途端に敵の攻撃を受ける。どこからか砲弾が飛んでくる。敵機モスキートが機銃掃射を執拗に繰り返す。その度に地面に伏せる。機銃弾が木や葉を跳ね飛ばしながら通りすぎてゆく。隣に伏せていた者が血を噴き出して動かなくなる。揺り起こすと、背中に当たった銃弾の跡は小さいが、貫通して胸に抜けた銃創は大きく口を開けている。
うわっと思う暇もなく敵戦車のエンジン音が迫って来る。戦車は車載機銃を連射し、木を押し倒しながら近づいてくる。銃弾が耳をかすめる。とにかくジャングルの奥へ逃げるしかない。敵の方向へ無暗に小銃を数発打つのがやっとで、あとはとにかく走るだけだ。

米兵たちは遠足のように談笑し、ガヤガヤと大声でしゃべりながら徐々に近づいてくる。こっちは草陰に身を潜めているしかない…。米軍は戦車・飛行機・機関銃だ。こっちは元亀天正の頃の火縄銃とかわらないような装備の落ち武者状態、かなうわけがない。
部隊はジャングルの中で孤立し、次々と餓死・病死で倒れる者を残して、ひたすら逃げ続ける。(比島戦線全体では日本兵の3/4が死んだが、多くは餓死・病死だ)
ある日、米軍の告知により戦争は終わったのだと知った。

     ※

なんという体験…!
これは、私の父の実体験だ。これが1世代前、ついこの間、日本人が体験した世界だとは…!
この後、父は米軍の捕虜として1年数か月間過ごすことになる。
(捕虜生活の詳細については、本項の最後に添付しておく)

埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館)というのが、東松山にある。
そこに、父の捕虜時代の写真を寄贈した。
事の発端は、旧友のK君が、海軍飛行兵に志願したご尊父の予科練時代の制服などをピースミュージアムに寄贈する…という事に始まる。その際、僕も同行させてもらい、「そういえば自分の父親の捕虜時代の写真も寄贈しようか」と発展したという次第だ。

ピースミュージアムでは、この春、「寄贈資料展」として、この一年間に寄贈された物を集めて展示している。
さっそく、K君と伴に訪れてみた。
展示室に入ると、いきなりK君が寄贈したご尊父の予科練の制服とノボリが目に飛び込んできた。海軍旗を模した赤い旭日模様の描かれたノボリが、くすんだ色の多い展示の中で燦然と輝いている。隣には、七つの金ボタンが輝く、海軍特有の着丈の短い濃紺の制服が並んでいる。まるで今回の展示の目玉、アイコンのような存在感を放っている。

僕の寄贈した父の捕虜時代の写真は、「終戦を迎えて」というコーナー冒頭に展示されていた。
米軍から支給されたユーティリティーシャツを着て、ズボンや袖に「PW」とペンキで書かれた服を着ている男たち。餓死寸前で敗戦を迎えた彼らは、米軍の配給食で健康を取り戻しているようだ。かつての中隊本部は捕虜自治会として機能していたが、米軍との窓口役をしている彼らは、復員を前にして米軍の好意で写真をプレゼントされたらしい。

展示では、父の戦時中や捕虜時代を短く的確に要約した解説が添付され、たいへんに丁重・丁寧な扱いで、大いに感激させられた。
寄贈してよかった。
手元に置いておけば、いつか散逸してしまっただろう。ピースミュージアムは県の施設であり、基本的に半永久的に保存してくれるとの事だ。
こんな事ができるのは、僕らの世代が最後かもしれない。(この一年間での寄贈者は18名だったそうだ…少ない。そういえば、この施設とも関係の深い「桶川飛行学校平和記念館」も、寄贈を求めているがその少なさに困難を抱えているという)

ピースミュージアムの常設展示の内容も、興味深い物だった。戦中、戦後の様々な歴史的事物をコンパクトながら時系列に的確にまとめられている。風船爆弾や陶器製手りゅう弾から米軍の焼夷弾と、幅広く兵器に関係するものだけでなく、当時の国民の暮らしぶりや防空壕が実体験できるのは貴重だ。
さらに国内外の新聞報道の様子も展示するなど、全方位的な目配りがされている。戦後の墨塗の教科書の実物は初めて見た。戦争体験者の体験談ビデオなど、とても一日では見きれない…。

ともあれ、そんな「平和資料館」に、父の捕虜時代の写真が収蔵された。(K君がご尊父の軍服・のぼり等を寄贈する…というのが全ての始まりだ。感謝する)大いに意義深い事が出来たと満足している。本当によかった。
そして今の暮しが、そんな戦争の経験を経て構築されたものである事を、地続きのものとして感じることができる気がした。

人間はあまりにも忘れっぽい。「実物」に触れて思い返す・歴史を知る機会がどうしても必要だ。
埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館)の存在意義は大きいと、心底から思った。




以下は、寄贈に当たってのピースミュージアムとのメールのやりとりの内容だ。


     ※ ※ ※


前略
寄贈の件でご連絡させていただきます。

当方、先日(2023年5月17日)、出征のノボリ、七つボタンは桜に錨の制服等を寄贈させていただいたK君と同席していた者です。
貴館を拝見させていただき、たいへんに意義深い展示の数々を目の当りにして、ふと私の父親の写真を思い出しました。

・父は、第二次世界大戦でフィリピンに赴きましたが、そこで終戦。米軍の捕虜になり、その「捕虜収容所」での写真があります。これを寄贈させていただければと考えています(別添、当該写真の画像データ2枚)

     ※

・私の父は、大正11年8月1日、埼玉県行田市旭町に生れました。
・行田は古くから忍城の城下町、足袋縫製の町として栄えましたが、生家は江戸期から足袋工場を営んでおりました。父は次男のため東京の機械部品製造工場に丁稚奉公に出されました。ただ、そのおかげで腕の良い旋盤工となりました。
・群馬県の中島飛行機(三菱と並ぶ、当時の日本の有力な飛行機製造会社です)の協力工場が熊谷・行田に多数でき、実家に戻って来てそういった工場で飛行機の脚柱などを工作して、普通の勤め人の数倍の給料を稼いでいたそうです。弟や妹を映画や食事にに連れて行ったり小遣いを渡したりして、大層羽振りが良かったそうです。

     ※

・昭和19年3月16日に出征。陸軍工兵二等兵として、貨物船に乗ってフィリピンに連れてゆかれました。戦争も末期のためか、日本全国からの出身者を寄せ集めて構成された混成部隊みたいなもので、分隊長が九州出身者で、九州弁が何を言っているかさっぱり分からず、まごまごしていて随分と殴られたそうです。
・戦地では当初、陣地構築や橋を何本か掛けるなどした程度で、米軍来襲後は、ひたすらジャングルの中を逃げ回っていたそうです。米軍の戦車に追われてバリバリ機関銃で撃たれ、敵機モスキートの機銃掃射を受けて、すぐ隣に身を伏せた者が機銃弾に貫かれて胸から血を吹き出させたりとかする中、とにかく逃げる毎日。
・食料の補給など無く、あとは現地調達でやりくりするしかなく、当初は水牛をつかまえて水牛が立っているまま角を木にくくり付けて、ノコギリで(工兵ですから、まさに商売道具で)水牛の首をギコギコ切り落とす。ぶわーっと出る血を兵隊みんなが食らいついてすする。それらも採りつくして食料も尽きると、根っこでも虫でも何でも煮て食べる毎日で、周囲は戦死ではなく病死、餓死ばかり。(鉄砲は、敵の声のする方へ、闇雲に数発撃っただけ。こっちは隠れながら逃げるだけですが、米軍はとにかく皆で大声でワイワイとしゃべりながらゾロゾロやって来る)

     ※

・終戦はビラで知り、近くにいた米軍に投降したそうです。
・それから捕虜生活が始まり、復員したのが昭和21年秋ごろ(10月だったか?)だそうですので、1年数か月間の捕虜生活だったわけです。
・餓死寸前で捕虜になりましたが、捕虜になってからは毎日、内地でも食べたことがない、当時の日本人としては豪華で栄養豊富な物ばかり食って太って帰国することになります。
・さらに捕虜テントの隣に米軍の食料倉庫があり、毎夜そこに忍び込んでは缶詰を(コーンビーフとか何とかビーンズだったそうです)かっぱらって来て食っていたそうです。ただ、缶切りが無く、適当な物で缶を叩いて開けており、その破片が片目に刺さり、父は片目の視力を失います。
・捕虜収容所での毎日は、土木工事や施設整備などの軽作業があるていど。あとは捕虜たち主催の演芸会、素人芝居大会、のど自慢大会などが催され、それらは米軍からも大いに推奨されていたそうです。その他、日曜大工で身の回りの便利家具を作るなどしてすごす毎日。
・あとは、米軍主催の「キリスト教講座」、「米国の歴史勉強会」、「英会話教室」、「英語の歌コーラス会」…などがしばしばあったそうです(見事な親米化教育です)

     ※

・父は中隊本部付の当番兵のような事をずっとしており、今回添付の写真のメンバー達に混ざって、記念写真を撮ってもらえたようです。(このメンバーが中隊本部=捕虜自治会本部であり、米軍の担当者とのやりとりの窓口でもあったため、米軍の好意により写真を撮ってもらえ、しかもプリントして各自にプレゼントしてもらえたようです。捕虜たちと米軍とは極めて良好で円滑な関係であったようです。日本への帰国が近い事がわかり、その記念に、という事だったのかもしれません)
・写真は、
「比島・昭和21年7月3日 於カロカン・13キャンプ (米軍の好意に依る)」
「昭和21年7月7日(日曜日の午後)於比島カロカンNo13キャンプ マンゴーの木の陰で」
と、あります。
・ズボンの膝上に「PW」とステンシルのペンキ文字。(Prisoner of war … 戦時捕虜、或いは、戦争捕虜)。よく見ると、シャツの袖にPWと記されている場合もあるようです。
・捕虜たちは、米軍主導で自治組織がつくられ、軍隊当時の中隊を基に構成されていたそうです。
写真の「I中隊長」「H労務主任」「K作業隊長」「Uインタープレーター」「I・H伝令」などの役職名が、組織の機能を想像させます。(父はのんきに煙草をくゆらせています)
・衣料は米軍支給の物。複数枚持ち、頻繁に洗濯などして清潔にしていた。シャワーもあったが、毎日夕方訪れるスコールの時、石鹸を持って外に出て全身を洗っていた。
・テント背後にフライパンや飯盒が整然と干してある。この手の整理整頓の日曜大工は、工兵たちということもあり、お手のもの。
・背後の大きな車両や土木用重機の数々。こんな機械化された物量豊富な敵に敵うわけない。というのが、人力で作業をしていた日本の工兵としての感想だったとか。

     ※

・「捕虜生活」というと、あまり想像できません。(強いて言うと、大岡昇平の「俘虜記」が父の体験に近いと思います)どこの捕虜になったかでも待遇は大違いだったと思います(シベリア抑留の話を聞くと、父は暖かい場所で、しかも米軍の捕虜で良かった…と思います)
・この写真は、そんな、よくわからない(知られていない)捕虜の生活を想像できる貴重な写真と思います。


(・父は復員後、大宮市警・埼玉県警に勤務し、定年まで勤めました。平成25年1月12日病没・91歳)

※当方、病を得て余命も短く、散逸しないうちに寄贈させていただければと思い、連絡させていただきました。収蔵の件、ご検討宜しくお願いいたします。寄贈可・収蔵いただける場合、実物を郵送させていただきます。


(追伸)
I様
・人物確認の件、そのとおりです。父は身長155cmほどと小柄でした。写真でも、なんだか小さ目に見えますね。
・文字の件、父本人が書いたものです。つけペンか万年筆を使っています。(今どきですとボールペンほぼ一択ですが、ここらへんも時代を感じさせられます)
・余談ですが、それぞれの人物の姿と役職が、いかにもそれらしく一致していて面白いですね。
中隊長は年長者でいかにも謹厳そうに見えます。通訳は絵にかいたような当時のインテリ風。パワフルで部下から信任厚そうなそうな作業隊長、生真面目な中間管理職風な労務主任もいかにもハマり役。若い伝令二名は、小生意気でも真面目にすっ飛んでいきそうな勢いのありそうなアンチャン。父は中隊長付の当番兵というか雑用係のようなものだったようで、おとなしく真面目ですが、ちょこまかとよく動きそうです。蛇足でした。
お手続き、宜しくお願いいたします。
Re: 埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館) - マリオ
2024/04/21 (Sun) 22:23:20
標記のKこと國分利和の遺品を寄贈しました。応召・志願→陸・海軍従軍→終戦→除隊→埼玉県警察官拝命→同定年→鬼籍入りと共通の命運を分かった父等を持つ愚父も「展示のアイコン」と寄稿賜り、父に代わってお礼申し上げます。こうして、たった70年前の青春が、記録として固定され資料として保存され本邦の人々の記憶に残れば望外の喜びです。なぜ、日本は戦争をしたか?敗戦したか?310万人の犠牲をどう捉えるべきか?日本政府は、遠く異国の山河や海底に未だ眠る未回収のご遺骨をどう葬るのか?100年単位で歴史の評価とわだつみの声に耳を傾けたく思います。