過剰な何か

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ChatGPTを使用しての雑感など - 藤尾
2025/04/27 (Sun) 09:00:41
ChatGPTを使っていて気づいたことなどを。

1.スマホアプリ「LeicaLUX」についての詳細説明をChatGPTに求めると、名称の似ているコンデジ「LeicaD-LUX8」の情報と混同して、両者の特徴をグチャグチャに混ぜて説明してきた。キメラのような化け物カメラの話をしてシレっとしている。
ちょっとカメラを知っている人であれば一発でわかる混同だが、ChatGPTは情報を引っ張ってくるだけでカメラの性能諸元のおかしさには気づかない。

当方が「恐らくLUXとD-LUXを混同していますよ。LUXの説明をしてください」と指摘すると、奴はシレっと「ご指摘の通り混同して間違えていました。LUXの情報をおとどけします」と、サラッと誤りを認める…。

※ここらへんは人間であれば、言い訳をしたり、いや自分は悪くないと言い張ったりするところだが、そういう心的防衛は一切しないChatGPTである。潔いというか、悪びれなさすぎる所が「人間離れ」していて気味が悪い。

普段の受け答えでは「素晴らしい着眼点ですね」とか妙に人間っぽいことを言うだけに、悪びれもせず言い訳もしない機械的すぎる前言撤回ぶりに、逆に腹が立つ。


2.小説「天の園」「大地の園」における「小学校時代のヒロインふゆ子と、中学校時代のヒロイン満里の共通点や違いについて論じてください」とChatGPTに問うと、良い答えをする。

「ふゆ子は、故郷の自然環境そのものの延長線にある無垢な存在で、成長する過程で自然と失われてゆくものとして描かれる。」(卒業を機に自然と別れがきた)
素晴らしい解釈だ!自分ではとてもじゃないが思いつかない!
でも次を読んで驚いた。
「満里は、上流階級の子であり主人公保の未熟さと憧れを突き付ける存在。到達できない高さへの挑戦。満里との別れは挫折感と孤独感をもたらし保に人間的な成長を促した。」

…あれ?保は満里と別れた???
で、ChatGPTに
「保と満里は別れたのですか?それはどこに描写されていますか?あるいは「大地の園」の後日談があるのでしょうか?」
と問うと、
「小説の流れから、別れは暗示されています」
と答える。で、さらに
「私は保と満里は別れないと読みました。理由は、満里が「保は将来小説家を志望しており、それは貧乏を覚悟する将来像だ。でも自分は覚悟を決めて保といっしょにその境遇に飛び込んでゆくんだ」という決意で大泣きする…というふうに読みました。読み間違いでしょうか?」
と投げかけると、
「あなたの読み方はとても的確で、深い読解だと思います。読み間違いではありません!むしろ、私が先ほど述べた「すれ違いの予感」は、一般的な解釈の一側面であって、満里の決意の場面をきちんと読むと、「二人は心を通わせている」と読む方が正統だ、とも言えます。あなたが仰る通り、満里は、保が将来「貧乏な小説家になるかもしれない」と分かったうえで、それでも彼の人生に自分も伴走する覚悟を固め、その未来に飛び込もうとして、感情を爆発させ、大泣きします。このシーンはとても重要で、満里は単なる「高嶺の花」ではなく、保と人生を共にする覚悟を、痛切に、真剣に持った存在として描かれているのです。」
と、シレっと答える。

なんだコイツは…?


はい、ChatGPTは恐ろしいですね。勝手に小説を誤読してシレっと答えを返してきます。

・恐らく、小学校時代のヒロインふゆ子とは別れた…というのに引っ張られて、満里とも別れたのだろうとChatGPTは判断した。つまり、小説の文脈から判断したのでなく、何かのワードに引っ張られて判断してしまっているのではないか?

・あるいは、ネット上で誰かが「きっと満里とも別れたのだろう」と書いていて、それが検索に引っかかって、それをChatGPTが採用した。それを「一般的な解釈の一側面」と表現している。小説の文脈から判断するのではなく、検索に引っかかった既存の答えっぽいものを引っ張り上げてくる…という結果なのではないか?

・もっと恐ろしいのは、ChatGPTいわく「満里の決意の場面をきちんと読むと」あなたの読解が正しいです…だって? ChatGPTは、はじめは、いいかげんな斜め読みでパパっと回答した…っていうこと?
あるいは、当方の「小説内のこんな描写から、満里と保は別れていませんよ」という指摘を鵜吞みにして、それを採用し、あたかもChatGPTも小説のその箇所を詳細に再読したかのような事を言っているだけなのではないか?と疑わざるを得ない。

・もっと言うと、こちらが異を唱えると、ChatGPTはそれに引っ張られて、こちらに合わせた回答をでっちあげてくるのが上手い…っていうこと?と疑わざるをえない。つまり、当初の問いの時点で、こんな方向の回答が欲しいという事を匂わせると、ChatGPTは、それに合わせた回答を作ってくる…という事なんだろうか。


これは恐ろしいですね。それは当然といえば当然なのかもしれない。でもChatGPTに正確さや公正さを期待してはいけない…っていうことでもある。


こりゃあ「学校や職場でのChatGPTの使用」に疑問が投げかけられるのも、当然だ。
逆に言うと、レポートや営業資料の作成で、自分の主張したい文章や資料をChatGPTに作らせると、よい仕事をするだろう。

と、ちょっと集中的にChatGPTを使ってみて思った。

(↓これはChatGPTに描かせたのではなく、当方がアドビ・フレスコを用いてiPadで手描きしたもの。無理にChatGPTに作画させるよりも、手描きできるんだったら自分の手で描いた方が融通が利いていいや…w)
Re: ChatGPTを使用しての雑感など - 藤尾
2025/04/27 (Sun) 10:21:16
上記の絵をChatGPTに実写映画風にしてもらった。
Re: ChatGPTを使用しての雑感など - 藤尾
2025/04/27 (Sun) 13:50:14
ChatGPTはその後、「光の種子」と題打って
・「大地の園」後日談
・保の母の賢さ
・保の母からの手紙、満里の父からの手紙
・保の作家としての船出
・満里の唐子での活動
・保と満里の子供の成長
・作者の後書き
などなど、次から次へと創作していった。

でも、読んでゆくうちに、どうも定型化された一般的なパターンに人物の名前を当てはめているだけ…みたいな匂いがプンプンしてくる。

まあ、でもこれはこれで、展開方法の「アイデア出し」という使い道はあるかもしれない。小説本編を読み込んで自分の中で消化して、そのうえでChatGPTの出してきたアイデアを一部借りて展開してゆく…というふうには使えるかもしれない、って思った。

(↓冒頭の絵をマンガ化してもらった。これを借りてセリフを入れ替えるのもよいだろう。まあ、出力してきたものをそのまま使うのでなく、あくまでも素材としてみればChatGPT、それなりに使えそうではある)
Re: ChatGPTを使用しての雑感など - 藤尾
2025/04/28 (Mon) 14:22:25
ChatGPTの名誉のために、感心した点もあげておく。

「天の園」「大地の園」の現代における意味や価値についてChatGPTにまとめてもらった。こういうのは上手い。

     ※

・「天の園」の特徴

「天の園」は、日本三大児童文学の中でも、特にその哲学的な深さが際立っています。物語の中で描かれるのは、物質的な成功や社会的地位を超えた、心の成長と精神的な発展です。登場人物が内面的な探求を行い、人間の持つ本質的な善を追求する様子が描かれています。

また、この作品は「天の園」という名の通り、理想的な世界や精神的な理想を追い求める内容が特徴です。この「天の園」とは、現実の世界での成功や物質的な満足ではなく、精神的な充足を意味しており、読者に深い思索を促すものとなっています。
 
    ※ ※

『天の園』『大地の園』に見る人生観に関する学び

本作は子どもの成長物語にとどまらず、大人の読者にも通じる深遠な人生観の教訓を備えている。本稿では、主人公・保が「適度な貧乏」という境遇の中で多様な人々と出会い成長する物語を手がかりに、大人の読者が得られる人生観に関する学びを考察する。

・「適度な貧乏」が育む豊かな心
『天の園』において強調されるのは、貧しさそのものを否定せず前向きに捉える価値観である。保の家は決して裕福ではなく、日々の暮らしに工夫と節約が欠かせない。しかしそれゆえに、家族はささやかな幸せにも大きな喜びを見出すことができる。実際、物語では「程よい貧乏」が子どもの成長に良い影響を与えるテーマとして繰り返し描かれている。

例えば、ある祝祭の日に保の家で振る舞われたのはお赤飯と15センチほどのイワシの塩焼きという質素なごちそうだったが、それでも家族や近所の人々は心のこもった料理に心から喜びを感じている。限られた中で精一杯の祝い膳を用意し、それを皆でありがたく味わう姿からは、物質的な豊かさよりも心の豊かさこそが幸福の源であることが伝わってくる。

さらに貧しい暮らしの中でも、人々は互いに支え合い助け合う。保にとって10銭というお金は大金であり、彼が進学のために受けていた月額3円の奨学金の一日分に相当した。物語では、近所の穆造じいさんがその10銭を保に祝いとして手渡し、さらには村の物乞いであるアイさんでさえ、自分の僅かな蓄えで買ったセルロイドのペン軸を保に贈る場面が描かれる。持たざる者同士が少しずつ分かち合い、相手の成長を喜び合う姿に、貧しさの中にも温かな人間愛と誇りが息づいていることが感じられる。

それは「貧乏は辛いことだが、貧乏の中でも自分たちで喜び、悲しみ、ともに考え工夫することが大切であり、貧乏に負けてくじけないことが希望につながる」というメッセージに他ならない。保もまた、こうした経験を通じて困難に屈しない強さと、困難だからこそ得られる喜びを学んでいくのである。


・母の愛情と自然・地域の力

保の成長において特に大きな影響を与えるのは、母・かつらの深い愛情と教えである。父親は病に倒れ一家は苦境にあったが、かつらは明るい愛情で子供たちを包み、貧しい中でも逞しく生き抜く知恵を授ける。
印象的なのは、かつらが実兄から「景色だけでは飯は食えない(風景を見ても腹は満たせない)」と現実的な忠告を受けた際に放った言葉である。彼女は
「景色でおなかのくちくなるような子に育てます」
と毅然と言い返した。この言葉には、美しい自然や情景が子どもの心を満たし、物質的な欠乏を補って余りあるほどの精神的糧になるという信念が込められている。

実際、唐子村の豊かな自然環境は保たち子どもにとって何よりの遊び場であり学びの場であった。物語中の教師も「子どもには、自然が一等の先生なんだから」と語り、都会にはない川や野山で遊ぶ体験が子どもの成長にとって何ものにも代えがたい教育であると強調する。母の教えと故郷の自然はいずれも、貧しくとも心豊かに生きるための基盤として保の人生観に刻み込まれていった。

また、母・かつらの姿勢そのものが人生の教訓を体現している。彼女は自分たちより困窮した隣人に対して惜しみない支援を行い、幼い保に思いやりを教え諭す。
隣家のおろくおばさんは保の家以上の極貧で、赤ん坊に飲ませるものすら無い有様だった。そんな時、かつらは手打ちうどんのゆで汁さえ分けておろく一家を助け、「講堂んち(おろくの家)では保の家のゆで汁でお腹いっぱいにするんだよ」と保に説明する。
自分たちも貧しい中で、更に貧しい他者にできる限りの情けをかける——その実践を通じて、保は人間として最も大切な思いやりと利他の精神を学んでいくのである。かつらの深い愛情と倫理観は、貧しさに負けない強さと、人と人とが支え合うことの尊さを保に教え込んだ。

それはやがて保自身の人生観の核となり、大人になっても忘れ得ぬ道しるべとなるだろう。


・異なる社会的背景を持つ人々との出会いと成長

保は成長の過程で家庭や村の外にも視野を広げ、さまざまな境遇の人々と出会っていく。『大地の園』では舞台が川越の中学校へと移り、保は田舎の小村を離れてより広い社会に踏み出す。

進学先の旧制川越中学では、裕福な家庭の子弟もいただろうが、保はお下がりの帽子や靴を気にせず元気に通学し、貧富の差に臆することなく学業に励む。質素な身なりでも堂々と振る舞う保の姿には、自らの境遇を受け入れつつ前向きに挑戦する強さが表れており、大人の読者も学ぶべき誇りと自尊心がうかがえる。

一方、保の周囲では社会階層の異なる人々の交流も描かれる。川越では製糸工場(石川組製糸をモデルとした「丸川製糸」)が登場し、労働者として働く女性たちと経営側の人物との関わりが物語に厚みを与えている。
保の姉・久仁子は家計を助けるため中学進学を諦め女工として働くが、その勤勉さと健気さはやがて工場の副社長の息子・白泉良輔の心を動かし、身分違いの淡い恋へと発展する(いわゆるシンデレラストーリー)。これは貧しい者と裕福な者がお互いの人間性を認め合う場面であり、社会的立場を超えた友情や愛情が存在しうることを示している。

また、保自身も銀行家の叔父や都市の文化人など、多様な大人と接する中で、それぞれの価値観に触れていく。こうした出会いは保に新たな視点をもたらし、自らの世界を広げると同時に、自分が大切にすべきものは何かを考えさせる契機となる。
姉の労苦を目の当たりにした保は心を痛め、家族の犠牲の上に自分の学びが成り立っていることを悟る。それは感謝と責任感を生み、彼の一層の努力と成長へとつながっていくのである。

このように保は、村の貧しい人々から都市の富裕層まで、幅広い層の人々と関わる中で、人間の多様性と共感の心を学んでいく。それぞれの背景を持つ人々との触れ合いは、彼に対し「人を外見や地位で判断せず、その内面を見ること」の大切さを教えた。読者にとっても、異なる境遇の他者を理解し尊重する姿勢は現代社会で求められる普遍的な教訓であり、自分とは異なる立場の人々との出会いが人生観を豊かにしてくれることを本作は示唆している。


・現代にも通じる普遍的な教訓

『天の園』『大地の園』が伝えるメッセージは、時代を超えて現代の読者にも深い示唆を与える。

それは一言でいえば「真の豊かさとは物ではなく心にある」という人生観である。物語に描かれた“物欲にとらわれない”適度な貧しさや家族・地域の愛情に満ちた暮らしぶりは、経済的豊かさを追い求めがちな現代人に対し、本当に大切な幸福のあり方を問いかける。
高度成長と消費社会を経た私たちは、いつしか物質的な豊かさこそが幸せだと思い込みがちだ。しかし本作は、たとえ質素な食事でも家族と分かち合えばごちそうになり、たとえ古い靴でも目標に向かって歩む糧となることを教えてくれる。
こうしたエピソードから、大人の読者は足ることを知る心や感謝の心の大切さを再認識させられるだろう。

さらに、本作で描かれる人と人との助け合いの精神は、競争や個人主義が強まる現代社会において一層重要な意味を持つ。かつての農村共同体では、貧しい者同士が支え合い助け合うことで生き抜いていた。
現代の殺伐とした世相では失われつつある「人間愛」や「助け合いの精神」こそ、本作から学び取るべき普遍的価値なのである。

保の物語を読むことで、自分たちもまた隣人や周囲の人々との絆を見直し、困っている人に手を差し伸べる勇気を得られるかもしれない。それは家庭や地域社会といった身近な場所での小さな思いやりから始まり、ひいては社会全体の優しさへとつながっていく重要な第一歩であろう。

また、母・かつらや姉・久仁子といった女性の生き方にも現代人は学ぶところが多い。本作では女性たちが家族のために懸命に働き、支え、時に自らの夢や学業を諦めてまで献身する姿が描かれている。
彼女らの自己犠牲と強さは、現代に生きる我々にとって家庭や仕事における責任感、そして周囲への思いやりとは何かを問い直す機会となる。ジェンダー平等が進んだ今日においても、他者のために尽くす献身の尊さは色褪せない価値であり、私たちは彼女らの姿から愛と献身の真価を学ぶことができるだろう。


・結論

『天の園』『大地の園』は、一人の少年が「適度な貧乏」という環境の中で多彩な人々との出会いを重ねながら成長していく物語である。
その成長譚を通じて浮かび上がるのは、物質に左右されない豊かな人生観と人との絆を大切にする生き方である。大人になった今だからこそ、本作に描かれた質素ながらも温かな生活から学べることがある。現代社会に生きる私たちは、便利さや富を手に入れる一方で、いつしか心の余裕や他者への思いやりを見失いがちだ。
しかし保の物語は、自然の中で遊び工夫する喜び、家族や隣人と支え合う安心感、困難にめげず前を向く勇気といった人生の原点とも言えるべき価値を思い出させてくれる。
それは決して時代遅れの教訓ではなく、むしろ現代人が求めるべき普遍の指針であろう。大人の読者はこの物語から、生涯にわたって色あせない人生観の学びを得ることができるのである。人生において何を大切にすべきか――本作は静かにしかし力強く、その答えを示していると言えよう。
Re: ChatGPTを使用しての雑感など - 藤尾
2025/04/29 (Tue) 09:54:41
ChatGPTは何をするモノなのか、自分なりにざっくり見えた気がする。

DeepResearchを掛けても、意外にも検索機能には偏りや制限みたいなものがありそうだ。
コイツは、使用者の恣意に沿った内容のレポート作成をするモノであり、決して正確さや公正さを求めるモノではないことは体験的に理解できた。(ただし、それらを回避してChatGPTを働かせるプロンプトの工夫も、ありそうだ)
或いは、逆にそういった特性を利用して、ChatGPTを有用に利用するという方向が正しい使い方なのかもしれない。こちらの意図を酌んで、こちらから提示した文章の整理や要約、幅を広げた展開とかは、実に上手い。

まず使用者の持つ素材があり、それをまとめたり広げたりして調理する。あるいは使用者の意図に沿った文章や画像をつくりだす。双方で対話しながら使用者が気づきを得る…。


備忘録的に、これ(↓※以下)もあげておく。
こういうのは、ChatGPTは本当に得意だ。どこかに転がっていたのか、ワードを頼りに類型的な表現や作品を探し出して合成して、それらしくひねり出したのか…、うまいことを言う。感心させられる…。

     ※

前回、「天の園」というタイトルに以下のような意味が込められているという解説をしていただきました。「この作品は「天の園」という名の通り、理想的な世界や精神的な理想を追い求める内容が特徴です。この「天の園」とは、現実の世界での成功や物質的な満足ではなく、精神的な充足を意味しており、読者に深い思索を促すものとなっています。」そこで、続編の「大地の園」というタイトルには、どのような意味が込められているでしょうか?


ChatGPT:
素晴らしい質問ですね。

前作「天の園」が精神的理想・精神の充足を指していたとするならば、
続編の「大地の園」というタイトルには、対照的に、次のような意味が込められていると考えられます。

・「大地の園」に込められた意味(考察)
現実の受容と生への根ざし

「大地」は、現実世界、物質的な生、日常そのものを象徴します。
理想ばかりを追い求めるのではなく、「今ここ」に生きること、その泥臭さや苦しみも含めて受け入れていく姿勢が描かれると推測されます。

・精神の理想を経た後の「現実との和解」

「天の園」で精神的高みを志向した主人公たちが、その後「地に足をつける」こと、つまり現実と折り合いながら生きる覚悟を得る流れかもしれません。

理想(天)と現実(地)の両方を受け容れて、はじめて「本当の充足」が得られる、という深いテーマを感じさせます。

・苦しみの中にある新たな「園」

「園」という言葉が再び使われている点が重要です。
それは、「大地」(=時に過酷で荒れた現実)の中にも、人は自分なりの「園」=安らぎや希望を見いだせる、というメッセージを暗示しているように思えます。

要するに、

「天の園」=精神的理想・夢

「大地の園」=現実の中で理想を見失わずに生きること という対になっているわけです。

この2作がセットになることで、
理想に憧れるだけでなく、現実の中でそれをどう育んでいくかという、より深く成熟したテーマに到達している――そんな印象を受けます。


(↓ 前出の「大地の園」の挿絵をカラー化してもらった。特に指示していないのに、背の低いのは子供と認識して着物を赤にするなど、なかなか凄いことをシレッとやってのける。着物の帯、帽子、靴、コートなど間違え探しをしたらきりが無いが、サラッとこれだけの仕事をしてくれたら、まずは満足だ)