過剰な何か

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物語的納得、自己との(他者との)対峙 - 藤尾
2025/05/12 (Mon) 23:02:35
映画「ドライブ・マイ・カー」を今頃やっと観た。
「他者の心の中などわかるはずがない。自分自身の心に向き合い、しっかりと観るだけだ」
といった意味の台詞が胸にしみわたる。

僕は東畑開人のファンだ。「日本のありふれた臨床心理学」「いるのはつらいよ」「野の医者は笑う」は抜群に面白い。そして「すばる」に連載されている占星術研究家・鏡リュウジとの対談「占いと心理学の対話・昼間のスターゲイザー」も刮目せずにおれない面白さだ。「合理的な思考でなく、どんな物語でそれを意味づけるのか」というあたりは、シンクロニシティ(共時性)を理解するのに核となる観方であろう。

さて、そんな東畑開人のZOOMでの講座「令和の深層心理学入門(深さってなんだろう)」が開始されるにあたって、参考文献・映画のひとつとして「ドライブ・マイ・カー」が挙げられていたので慌てて観た…というわけだ。

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自我は、他者との関係・(自分が属すると自己規定した)社会における自分の位置づけによって構築される。自分にとっての他者は、自分の頭の中で再構築した他者像に外ならず、どこまでいっても他者の心の中など判ろうはずもない。だから、私たちはまず、自分自身の心にしっかりと向き合い、そこにある他者像と向き合わなければ・向き合うしかないのだ…。(終盤の手話のセリフも、まさにコレを暗喩している)
それには、表面も影も含めた自己受容が求められる。そしてその後はじめて、他者全体の受容、他者の全体対象関係的な受容ができるようになる。

「ドライブ・マイ・カー」から、こんな学びと気づきを得た。
Re: 物語的納得、自己との(他者との)対峙 - 藤尾
2025/05/12 (Mon) 23:18:29
上記の文章を、ChatGPTに投げてDeep Research で深掘りしてもらった。
例によって、不十分な検索を基に偏った情報を牽強付会につなぎ合わせている感は否めないが、なかなか面白いので備忘録的に貼っておく。

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『ドライブ・マイ・カー』における他者理解と自己観察の心理学的考察

「他者の心はわからない」――深層心理から読み解く『ドライブ・マイ・カー』


映画『ドライブ・マイ・カー』の劇中で語られる「他者の心はわからない。自分自身の心に向き合うだけだ」といった内容の台詞は、作品全体のテーマを象徴する名言である。どれほど理解し愛し合っている関係でも「他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です」note.comと劇中人物は語り、観客に**「愛する人の他者性」という難題を突きつける。このテーマについて、平野啓一郎も自身の小説『本心』に関連づけて「どんなに親しい相手でもその人の心のすべてがわかるということは暴力的であって、でも、だからこそ、わかろうと努力して相手と関わろうとする」と指摘しているbungakunomori.k-hirano.com。本稿では、この台詞を手がかりに自己理解と他者理解の構造的困難**を掘り下げる。分析心理学(ユング)や臨床心理学(特に東畑開人の実践)、禅仏教、精神分析(フロイトから対象関係論まで)といった視点から、『ドライブ・マイ・カー』を論じ、最終的に「深層心理学における深さとは何か」という問いへと接続してみたい。スタイルは論文調を基調としつつ、ところどころ講義ノート風の補足(*注釈)も交え、心理学に詳しい読者にとって親しみやすい解説を試みる。


自我の形成と「他者」のイメージ(分析心理学・精神分析)

まず、ユング心理学および古典的精神分析の観点から「他者の心はわからない」構造を考えてみよう。ユングは人間の心(psyche)を「意識と無意識を含む全体」と定義しthesap.org.uk、その中には自我の知らない領域が広がっているとした。特徴的なのは、ユングが「こころとは他者のような存在である」と述べる視点であるnote.kanekoshobo.co.jp。つまり、自分自身の心でさえ自我の思い通りにならず、ときに独立した他者のように振る舞うというのだ。忘れたい記憶がふと蘇ったり、考えまいとすることを考えてしまったり──誰しも経験のある通り、人は自分の心すら完全には制御できないnote.kanekoshobo.co.jp。ユング心理学では心の中に複数の人格的要素(シャドウ=影、アニマ/アニムス=異性の心像など)が存在し、それらはしばしば**独立した「第二の自己」**のように自律的に働くと考えるthesap.org.uk thesap.org.uk。要するに、自分の中にすら「未知の他者」が住んでいるのであり、他者の心となればなおさら直接見ることはできないということになる。 フロイト以来の精神分析もまた、無意識の存在を前提とする点で「人は自分自身を完全には知らない」ことを出発点としている。フロイトは「自我はエス(イド)の僕である」と述べ、自我が自分の無意識(イド)の衝動に振り回されていると指摘したが、これも心の中の他者性と言えるだろう。ラカンはさらに、人は言語や文化の体系(象徴界)が作る「他者(大文字の他者)」によって欲望を規定されると論じ、「人の欲望は他者の欲望である(人は他人の欲望を通じて自らの欲望を知る)」と述べた。難解な理論はさておき、要するに私たちの心の核は、他者や社会との関係抜きには形成されず、どこかに自律的・未知なる部分を残すという点では共通している。 ユングとフロイトの分岐点の一つは他者像の捉え方だ。ユングは内的無意識の人影を元型(アーキタイプ)として扱い、夢や空想に現れる人物像を自分の心の写しと考える。例えば男性の無意識に現れる女性像アニマや、己の影としてのシャドウは、他人に投影されることが多いco.jpkanekoshobo.co.jp
。誰か他人に強い嫌悪や執着を覚えるとき、それは自分自身の中にある見たくない側面(影)を相手に見出しているからだ、とユング派は解釈するkanekoshobo.co.jp。これに対し古典的フロイト派では、他者への感情は転移(過去の重要な他者に向けた感情の再演)として理解される。いずれにせよ、人は他者そのものではなく、自分の心が作り出したイメージや感情と向き合っている面がある。「他者の心はわからない」のは、実のところ「自分は常に自分の心像(イメージ)を通して他人を見ている」からかもしれない。 映画の主人公・家福(かふく)は、劇中で妻・音(おと)の浮気という「他者性」に直面する。愛する妻の秘めた一面を知りながら彼女と向き合えなかった家福は、その喪失後も妻の心の謎に囚われ続ける。彼は妻が遺したカセットテープ(彼女が朗読するチェーホフ『ワーニャ伯父さん』の台詞)を毎晩車中で聞くが、そこには生前に交わし得なかった心の対話が虚しく流れるばかりだ。家福にとって妻の心は死後もなお「不可知な他者」であり続け、その喪失の痛みから彼は目をそらしていた。しかし広島で専属ドライバーのみさきと出会い、長い沈黙のドライブを重ねる中で、自分自身の内面と向き合う準備が少しずつ整っていく。やがて家福は語る。「本当に他人を見たいと望むなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかないんです」note.comと。この言葉には、まさにユング心理学や精神分析の核心が表れている。他者を理解するには、相手の心の奥底を直接のぞき見ることなどできない。できるのは自分の内面を見つめ、その上に投影された他者像を自覚することだけなのだ。


自己受容と対象関係論(臨床心理学の視点)

他者理解の限界を踏まえつつ、ではどうすれば人は他者と健全な関係を築けるのか。ここで臨床心理学、とりわけ対象関係論の視点を導入してみよう。対象関係論とは、精神分析の中でもメラニー・クラインやドナルド・ウィニコットらに代表される学派で、人が幼少期に内部化した**「対象」(特に母親像)とその関係性が、その後の対人関係様式を形づくると考える理論である。平たく言えば、「我々は他者をありのまま捉えるというより、自分の内面に作り上げたイメージ(内的対象)として他者と関わっている」という見方だthepsychpractice.com。対象関係論の臨床家は、クライエント(来談者)が過去の重要な他者との関係パターンをセラピストとの関係(転移)**に無意識に再現する様子を丁寧に読み解き、癒しにつなげようとする。ここでもやはり、人は心の中の「幻想の他者」と対話しているという前提がある。「まるで頭の中で作り上げた二次元の幻想的な人物と関係しているかのように、本物の多面的な相手ではなく、自分の心像だけを見てしまうことがある」thepsychpractice.com
──この指摘は、私たちの日常にも思い当たる節がないだろうか。 例えば映画では、家福は妻・音の浮気相手だった若手俳優・高槻(たかつき)と偶然共演し、同じ車に乗せて会話する場面がある。高槻は家福に向かい、自身の罪や後悔を饒舌に語るが、その長台詞の最後に先述の「他人の心は覗けない」主旨の言葉を述べる人物だ。高槻にとって家福は、自らの孤独や悔恨を映す鏡像(ファンタジー)の他者だったのかもしれない。一方の家福にとって高槻は、亡き妻が愛した謎の青年という理解不能な存在であり、彼と向き合うことは同時に妻の心の謎と向き合うことでもあった。二人が車中で交わす対話は、互いに相手個人を理解するというよりも、それぞれの胸の内で自分自身の葛藤と向き合う契機になっていたように見える。そして物語は、家福がついに妻の死と自分自身の心に折り合いをつけ、高槻とも和解(あるいは諦念)を得ていく方向へ進んでいく。 対象関係論には、心の成長における**「自己と他者の統合」という重要なテーマがある。クラインの理論では、乳児は最初「部分対象(良い母/悪い母)」として他者を分裂的に認識するが、やがて抑うつポジションへ移行し、他者が良い面も悪い面もあわせ持つ一人の存在だと受け入れられるようになる。これは他者像の統合であると同時に、自分自身の攻撃性や依存欲求など「未熟でわがままな部分」を受け入れる自己統合のプロセスでもある。言い換えれば、「他者をあるがまま理解するためには、まず自分の未熟さや不完全さを認め、自己を受容する必要がある」ということだ。映画の家福もまた、妻の浮気という裏切り(悪い面)と、彼女が自分に示した愛情(良い面)の双方を最後には受け入れ、妻という人間を丸ごと抱え直す境地に達したように見える。北海道の雪に埋もれた廃屋の前で、家福がみさきと抱擁しながら「大丈夫だ。僕たちはきっと、大丈夫だ」と繰り返すシーンは象徴的だ。それは妻・音という他者の不可解さを完全に理解できなくても良いのだと悟った瞬間であり、自身の中の喪失感や罪悪感を含めて引き受けた自己受容の瞬間でもあるだろう。対象関係論的に言えば、家福は妻という対象イメージを理想化することも貶めることもなく、その喪失を哀しみつつ現実のものとして心に統合した**。そのとき初めて、彼は前に進む準備ができたのだ。


「無心」「無我」と禅が示す他者理解の限界

「他者の心はわからない」という悟りに近い達観は、東洋思想の文脈ではどのように語られてきただろうか。禅仏教や老荘思想には、自己と他者を巡る示唆に富んだ言葉が多い。老子の有名な一節に「人を知る者は智、自ら知る者は明(めい)なり」note.comというものがある。「他人を理解できる人は智恵があるが、自分自身を理解している人はより一段深い聡明さがある」という意味であり、老子はまさに他人を知るより自分を知れと説いたのであるnote.com。これは先の映画の台詞とまさに一致する見解と言えよう。老子は孔子のように「仁や礼」といった対人倫理を重視せず、「無為自然」の生き方──自分という存在を徹底して見つめ、世界と一体になることを理想としたnote.com
。そこでは他人をどう理解するかよりも、「自分自身を深く理解すること」が根本だとされるnote.com。この思想的伝統を受け継ぐ禅もまた、「他人の心云々」に煩わされるより己の心を究めよと教えるだろう。 禅のキーワードに「無心」「無我」がある。「無心」とは一切の妄念を払い心を空にすること、「無我」とは執着すべき自己が無いと悟ることだ。これらは一見、「自分の心すら空っぽにする」のだから他人への関心を捨てろと言っているようにも思える。しかし禅の paradox(逆説)は、自我への執着を手放した時にはじめて万物と一体となり、他者への真の共感も生まれるという点にある。道元禅師は「自己をならうというは自己をわするるなり(=自己を学ぶとは自己を忘れることである)」と語り、自己を忘却したとき「万法(あらゆる存在)が自己を証する(=自己が万物に現成する)」境地に至ると説いた。これは「自分勝手なエゴを超えて無我の境地に至れば、自他の区別も溶け去り真に他者を知る」という意味にも取れる。禅的な悟りにおいては、「他者の心はわからない」というより「自己と他者の二元対立自体が消える」のだ。もっとも、凡夫にはそこまでの高みに到達するのは容易でない。だからせめて「日々の坐禅で自らの雑念と向き合い、他者への妄想を手放す」ことが奨励されるのである。例えば禅語に「看脚下(かんきゃっか)」というものがある。足元を見よ、すなわち他人ではなく自分の修行に集中せよという戒めだ。結局のところ禅も、老子と同じく「自分自身の心と向き合うしかない」という厳然たる真実を示しているように思われる。 禅仏教にはまた、言語を超えた直接体験を重んじる態度がある。「不立文字(ふりゅうもんじ)」――真理は文字や論理では伝えられないという教えは、その典型だ。他者理解にも通じるものがあるだろう。どれだけ饒舌に語っても、究極的には人と人は分かり合い得ない。しかし、言葉を超えた沈黙の共有や行為を通じて、言葉以上の理解が生まれることもある。映画でも、家福とみさきが長距離のドライブの中で交わす言葉は最小限だが、その沈黙の時間が両者に不思議な連帯感を芽生えさせていた。クライマックスで二人が北海道の廃屋跡で抱擁する場面は、ほとんど説明的な対話もなく進むが、かえって彼らの心が通い合ったことを雄弁に物語っている。禅的に言えば、あれは**理屈ではない「以心伝心」**の境地なのだろう。互いの心のすべてを知ることなどできなくても、その場に真心をもって共に居ることで通じ合うものが確かにある──禅にはそんなメッセージもあるように思える。


シンクロニシティと「物語」の意味づけ(ユング&占星術的視座)

続いて、もう少しユング心理学寄りのテーマであるシンクロニシティ(共時性)と物語的意味づけについて考える。ユングは「シンクロニシティ」を因果関係では説明できない意味的な同時発生事象と定義した
thecollector.com。簡潔に言えば、内的な心の状態と外的な出来事が偶然にも意味深く一致することである
thecollector.com。たとえば有名な「スカラベの逸話」では、ユングの患者が夢に黄金のスカラベ(フンコロガシ)が出てきた話をしていたその瞬間、本物のコガネムシが診察室の窓を叩いたという。この偶然の一致(共時)は患者に強い印象を与え、彼女の心境に変化をもたらしたとされる。このように、ユングは出来事の偶然的な一致に心的な意味を見出すことが心の深層に触れる鍵になると考えた。シンクロニシティはある種の**「物語性」**を帯びる。因果律ではなく「意味」で結ばれた出来事同士は、まるで一つのストーリーのように感じられるからだ。 村上春樹の小説や濱口竜介監督の映画には、しばしば偶然のめぐり合わせが重要な役割を果たすと言われる。『ドライブ・マイ・カー』でも、妻を亡くした家福が広島で偶然みさきという女性ドライバーに出会い、お互いの過去が奇しくも「親しい肉親の死」という共通点を持っていたことが明らかになる。これも冷静に見れば偶然だが、物語の中ではどこか運命的な符合として描かれている。まるで見えない糸に導かれるように、二人は北海道の地でそれぞれの喪失の核心に向き合うことになる。ユング風に言えば、家福とみさきが出会い共鳴したのは単なる偶然以上のシンクロニシティ(意味ある共時性)であり、それぞれの心的課題(トラウマ)の象徴的な解決へと導く物語的必然だったのかもしれない。 また、「物語的意味づけ」という観点では、人間は自分の経験を物語(ナラティブ)として理解しようとする生き物だという点も重要だ。深層心理学者の河合隼雄は「人の心は物語によって癒やされる」と述べ、多くの臨床現場でお伽話や神話の語りが治療に用いられてきたことを紹介している。ユング心理学ではクライエントの夢や想像を物語として尊重し、そこに現れる象徴を解釈することで心の自己治癒力を引き出そうとする。物語は時にシンクロニシティと同様、複数の出来事に一貫した意味を与えてくれる。たとえば占星術は惑星の配置と人間社会の出来事に意味の対応を見出すが、これも人類が古来から行ってきた**「出来事への物語的意味づけ」のひとつだ。ユング自身、占星術に強い関心を抱き、来談者と議論する際にホロスコープ(出生星位図)を参照したとも伝えられる(*占星術の統計研究まで行ったという記録もある)。彼にとって、星の動きと個人の心理の符号もまた集合的無意識の元型が現れる舞台**であり、因果を超えた意味のネットワークだった。
映画『ドライブ・マイ・カー』は一見リアリズム的な人間ドラマだが、その底流にはこうした象徴的・物語的なレイヤーが流れている。劇中劇のチェーホフ『ワーニャ伯父さん』の台詞は登場人物たちの現実と幾重にもシンクロし(例えば家福自身が最終的にワーニャ伯父さんの役を演じることになるのは単なる偶然ではなく、彼自身の心境変化と物語的に響き合っている)、ビートルズの楽曲 “Drive My Car” や劇中の会話の端々にも、多言語演劇や広島という土地の歴史まで含めて複層的な意味の連なりが読み取れる
tufs.ac.jp tufs.ac.jp。観客一人ひとりもまた、自分自身の人生経験と物語を持ち込んでこの映画を観るため、作品中の出来事にそれぞれ固有の意味を見出すことだろう。深層心理学的な視座から言えば、映画と観客の出会い自体がひとつのシンクロニシティともなり得る。鑑賞後に「自分の心の痛みや喪失とどう向き合うかを考えさせられた」と感じるなら、それはこの映画があなた自身の無意識の物語と響き合った証拠なのかもしれない。


東畑開人の「臨床的リアリズム」と映画の接点

現代日本の臨床心理学者である東畑開人は、先述のテーマを現場で実践している一人と言える。彼の著作には「臨床的リアリズム」という姿勢が貫かれているように思われる。それは、華やかな理論より現場のリアルな人間の物語に寄り添う態度であり、クライアントの語る“小さな物語”の中にこそ癒しのヒントを見出そうとする立場である。実際、東畑氏のエッセイ集『心はどこへ消えた?』の紹介文には、彼が日々のカウンセリングで出会う人々の重い荷物を背負った心が変化する瞬間をすくい上げ、それを読む人が「見失ってしまっている心にもう一度出会う」助けとする──といった旨が記されているbooks.bunshun.jp。そして彼はコロナ禍を経て、「あまりにも大きな物語(社会全体の出来事)にかき消されている現代の個々人の小さな物語にこそ、心を軽くするヒントがある」と確信したというbooks.bunshun.jp。この言葉は示唆的だ。個人の小さな物語が、大きすぎる世間の物語によって埋もれてしまう──まさに映画『ドライブ・マイ・カー』でも、広島という被爆地や東日本大震災の記憶(みさきの故郷の地震)といった大きな物語の影の下で、家福とみさきという一組の男女の小さな再生の物語が静かに描かれていたtufs.ac.jp tufs.ac.jp。 東畑開人の臨床談話は、一見地味で日常的な出来事の積み重ねを丹念に描く。派手な奇跡や劇的なカタルシスは滅多に登場しない。しかし読者は、その中にこそ人が変わるリアルな瞬間が宿っていることに気づかされる。これは濱口竜介の映画演出とも通じるものがある。『ドライブ・マイ・カー』もまた、声高な感情表現や分かりやすい解決を避け、登場人物たちの日々の対話と沈黙、移ろう風景を丁寧に映し出す。物語全体は3時間近い長尺にもかかわらず、決定的な事件よりも余白の時間に意味が満ちている。それはまさに**「臨床的リアリズム」的なアプローチ**と言えるだろう。クライアントの語りを傾聴し、その人自身が自分の物語に気づいていくのを待つ心理療法家のように、濱口監督は登場人物が自ら心の変化に至るまで焦らず寄り添っている。東畑氏の言う「小さな物語」は、一人ひとりの内面に潜むドラマであり、それは往々にして世界の大きな潮流とは無関係に見える。しかし実際には、個人の物語の集積こそが世界を形作っているとも言えるのではないか。臨床家が目の前の一人に真摯に向き合うように、映画もまた目の前のキャラクターの心に真摯に寄り添うとき、観る者の心にも深い変容を促す力を持つのだ。 おそらく東畑開人は、『ドライブ・マイ・カー』を観て自身の提唱する「臨床的リアリズム」と響き合うものを感じたのではないかと思う(*実際に彼が本作についてどこかで言及していれば興味深いが、ここでは仮定である)。少なくとも、家福とみさきの繊細な心理的旅路には、臨床家ならではのリアリティが備わっている。カウンセリングの場でも、人が自分の痛みに向き合い回復していく過程は劇的というよりは静かな対話と沈黙の積み重ねであることが多い。映画のラスト近く、家福がみさきの故郷で彼女に寄り添い、自らも涙する場面は、まるで長いセラピーの最終局面を見るようでもあった。クライアント(みさき)が自責の念から解放され、自分を許せたとき、セラピスト役の家福自身もまた癒されていた──そんな相補的な関係性が感じられるのである。それは決して劇的な「問題解決」ではなく、お互いの物語を受け止め直すことで生まれた静かな変容だった。東畑氏の言う「心を再発見して軽くするヒント」は、この映画の中にも確かに息づいているように思える。


深層心理学における「深さ」とは何か

以上、『ドライブ・マイ・カー』の名台詞を手がかりに、様々な心理学・思想の観点から自己と他者の問題を考察してきた。最後に、「深層心理学における深さ」とは何か、改めて問い直してみよう。深層心理学(Depth Psychology)とは文字通り心の深みを探る学問であるが、その「深さ」とは単に心の奥底に隠された何かを暴くことではない。むしろ、日常の表層に現れない意味や文脈を発見する力こそが「深さ」だと言えるのではないだろうか。 ユング心理学で言う深さは、個人を超えた集合的無意識や元型とのつながりであり、夢やシンクロニシティに垣間見える普遍的な物語の層である。フロイトにとって深さとは、意識の下に横たわる幼児期の体験や欲動の痕跡、言語化されず抑圧された無意識的真実だった。対象関係論における深さは、心の中に内在化された他者像との関係性という奥行きであり、それは人間関係の表面に現れる行動の背後にある見えないドラマを意味する。禅や老荘の深さはさらにラディカルだ。彼らは心の最も深い所に**静寂と空(くう)**を見出し、そこから万物の連環を見る。つまり深さとは、「静かな水面の奥に広がる深淵」のようなものだろう。表面的な波(出来事や言葉)の下にどれだけの層を感じ取れるかが深層心理学的な深さだとも言える。 映画『ドライブ・マイ・カー』は、その静かな表現ゆえに「深読み」が可能な作品だった。些細な仕草や何気ない会話の背後に、登場人物たちの計り知れない感情の深みがにじみ出ている。深層心理学的アプローチで本作を眺めると、沈黙や遠回りな語りの一つひとつにすら豊かな意味が宿っていることに気づく。冒頭の音と家福のベッドでの会話(実はコミュニケーションのようでいて肝心なことは何も語られていない「会話ではない会話」bungakunomori.k-hirano.com)、オーディションで手話の女性が紡ぐ沈黙の台詞、広島の階段劇場で各国の俳優が異なる言語で演じながら不思議と心を通わせるラストシーン──どれも、人と人の心の隔たりと交感の可能性を象徴して印象深い。深層心理学における深さとは、このように多義性と余白を持つ表現の中に垣間見える。言葉にされない想い、偶然の符合、時代と個人の二重写し、内面の投影としての風景…。それらを感じ取れる感性こそが「深さ」なのだ。 「他者の心はわからない。自分自身の心に向き合うだけだ」という達観は、決して冷淡な諦めではない。それは自己の内なる深みに潜り、そこに他者とつながる秘密の回路を見出そうとする知的勇気である。深層心理学は、その回路を言語化し物語る試みと言えるだろう。他者を完全に理解することは不可能かもしれない。だが、自分の心の奥底に触れたとき、人はかえって他人への共感と敬意を深めることができる。家福とみさきが互いの物語を語り合った末に相手の存在をかけがえのないものと感じたように、自分の深みに潜り、そこに他者の影を見出すことができたとき、人は孤独を超えて連帯の深みへと達するのではないだろうか。それこそが深層心理学の目指す「深さ」であり、映画『ドライブ・マイ・カー』が静かに観客に提示する人生の問いなのである。