過剰な何か

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映画「ドライブ・マイ・カー」自己との(他者との)対峙、その2 - 藤尾
2025/05/13 (Tue) 10:30:30
( 承 前 )

「♪あなたにさえも~染められたくない 心の片隅白いひろがり 白いひととき誰もいない 白いひととき私の白夜 テクニークスー…
あなたにさえも覗かれたくない 私を満たす白い悲しみ 白いひととき誰もいない 白いひととき私の白夜…テクニクス…♪」
と、森山良子が歌う「白いテクニクス」っていうオーディオのCMソングが大昔あったっけ。「ドライブ・マイ・カー」を観て、これを思い出した。

知り合いたいけど、知られたくない事もある。

     ※

大昔「オーディオブーム」というのがあって、家電各メーカーがこぞって参入した。家電各社は(家電の生活臭を脱臭するために)オーディオ製品にメーカー名ではなく「ブランド名」を冠していた。仮面のように。
三菱→ダイヤトーン、日立→LO-D、東芝→オーレックス、NEC→ジャンゴ、三洋→オットー、ナショナル(松下・パナソニック)→テクニクス、といった感じに(そういえばヤマハやソニーは社名そのままで充分イメージ的に通用するということか、別途ブランド名を冠することはなかったなあ…)
そう、オーディオ製品にはイメージ戦略は欠くことができなかったのだ。ブラインドテストでも分かる特徴云々以前に、プラシーボ効果的なイメージ効果が重要とメーカーは心底からわかっていた…というわけだ。

ヒトも、他者に対して自分のイメージを繕う。それは自分のセルフイメージから発する防衛であったり、自己の他者に対する優越を捏造して自我の安定を図ろうとするための企てであったりする。
その場面や社会に合わせたペルソナで適応的に生きる…わけだが、背後には自己防衛が隠れていたりするのではないか。

     ※

「ドライブ・マイ・カー」に戻る。
他者の心はわからない。知りたいけれど。知りたくもないし。自分の都合の良い部分だけ知りたい。他者の心を知ることで、自分が思っているのと違う他者を知ってしまい関係が崩壊するのが怖い。
他者から分かってほしいと思うと同時に、他者に立ち入って欲しくない部分も心のうちに秘めている。他者などに知られたくない。他者からは、自分の都合の良い所だけ知ってほしい。都合の悪い所は知られたくない。
他者を理解したい、他者を知りたい。他者とわかり合いたい。そんなのめんどくさい。知りたくもない。

これらの「他者」の部分を「自分」に置き換えると、「他者」「自分」の表裏一体の関係が垣間見える。
自分にとっての他者は、あくまでも自分の中で再構築した他者でしかない。どこまで行っても。ヒトの自我構造上、そこから逃れられない。
「ものがたり」なのだ。「物語的理解」によって、自他の関係、社会における自分の役割や位置づけはつくられる。他者の存在や他者の理解も。決して「論理的理解」によるものではなく。

他者をわかることはほぼ不可能だ。(ここでも他者を自分に置き換え)自分をわかることも不可能に近い。でも、自分は自分で手掘りして内省的に探究することは(ある程度)可能だ。それは、自分で自分の体を外科手術するように辛く困難を伴うのだが。
ただ、自分の中の他者をしるには、自分自身に向き合い自分の裏も表も納得的に飲み込んで、そのうえで自分の中に位置づけた他者と対峙する必要がある。ものがたりとしての他者は、そのときはじめて自分自身を(他者自身の)姿を現す。あるいは他者が自分語りをはじめるかもしれない。

他者がわからないものであるなら、(他者を本当にわかりたいのであれば)自分自身に問う他ない。他者をわからなくしているのは、自分の内に阻害要因があるからだ。

Re: 映画「ドライブ・マイ・カー」自己との(他者との)対峙、その2 - 藤尾
2025/05/14 (Wed) 21:11:19
映画の最後の場面、みさきが韓国で憑き物が落ちたように幸福そうに暮らしている様子で映画は終わる。

状況の具体的な解釈は様々だろう。
肝心なのは、みさきが心の中で母を(全体対象関係的に)受け入れ、それによって固着した思いから解放された。みさきの心の中の母親は許され、みさきの心の中で穏やかな眠りについた。みさきは呪縛や負のループから抜け出し、バランスを得た心の状態で暮らせるようになった。
さらに、今まで周囲は噓をつく人ばかりだったが、ここに至る一連の出会いによって他者に対する信頼や暖かな思いを経験し、自らの正の方向性にスウィッチが入った…。そんな良き他者、理想自我のように手話の夫妻の家のように犬を飼い、ともに共同作業のようにして心の泥沼から抜け出した戦友である家福と同じ車に乗る(家福のクルマか?)

映画の最後のシーンは、そんなみさきの心的状態を短く映像化して見せたものだろう。

家福も、みさき同様に心に平安を得たであろう。死んだ妻の音とも、やっと深く向き合えたであろう。家福は目を悪くしはじめていた。クルマは、恐らく餞別と祝福の意味を込めて、みさきに譲ったのだろう。

他者と正面から向き合うことを避けていた暗喩としての棒読みのセリフ。家福のどこか奥の方で遠慮気味でよそよそしかった態度。仏頂面で他者に心を閉ざしたようなみさきの雰囲気。
全編を覆っていたそんな空気は最後の場面で払拭される。

映画では描かれていないが、家福とみさきの最後のドライブは、こんな(↓)雰囲気だったんじゃあないか?
(二人とも憑き物が落ちたように穏やかになり、家福は後席ではなく、みさきと並んで座っている)