さて、5月18日は「ことばの日」だそうなので、言葉をめぐる雑談を展開してみることにする。
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言葉は強すぎる。
言葉によって、意味は単線的に立ち上がり、言葉にする前の考えや想いの中心部を明確にする。しかし同時に、その周辺部や内部に隠れていた、意味を下支えしていた広がりや深みを切り捨ててしまう。
曹洞禅が不立文字を掲げるように、分別知である言葉、文字は危険だ。
他者がどんな含意をもって言葉を発しているか、多くの場合理解を誤る。他者がどんな文化を生きているかによっても、言葉の意味や理解の範囲・内容は異なる。あらゆる社会が崩壊し、各人の属する文化は益々細分化し、大きな物語は力を失い、各人は益々様々な価値観を生きるようになった。論理的な理解は相対的に退き、各人なりの「物語による意味づけ」の世界をそれぞれが生きる。
各人の物語は、それぞれがそれなりの言い分や正当性を持つ。複数の他者の間に立って、それぞれを公平に理解受容しようとするとき、複数の価値観に身悶えすることになる。
人は言葉によって思考するが、人の行動の多くは思考以前の無意識領域からの情動によって駆動される。そう思うと、「ことば」は普段言われるほど重要で決定的なものであるとはいえない気がしてくる。自我活動を制御する超自我も、どの程度言葉によって構成されているか怪しい。
とはいうものの、内省に基づく情動のコントロールには、言葉による方向づけや抑止がある程度不可欠だ。(決してすべてではないが)倫理・道徳の分野においても、言葉は(ある程度)必須だろう。
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シンクロニシティ(共時性)は、論理的、言語的な理解ではなく、「物語的な理解」というところがキモだろう。まさに意味のある偶然という納得。
シンクロニシティ体験によって、新たな物語的納得が閃光のようにひらめき、何かが腑に落ちる。
無意識領域に眠っていた負のスパイラルを(夢や描画や創作で)呼び起こし意識化(言語化)することによって、自分自身の無意識領域で渦巻いていたものに気づく。その物語を、新たな視点からの物語によって再構築することによって、負の物語・負のスパイラルから脱する…。
深層心理学(懐かしい言葉だ)の理解では、こんな機序で治癒は起こる。まさに、言葉と、ことば以前の心の動きの共同作業というわけだ。
シンクロニシティは、ともすると神秘的偶然と解されがちだが、それは、「意味のある」偶然という所がポイントだろう。決して神秘体験ではなく。
自身の中で課題として渦巻いている内的事象があるとき、それは出口や解決を求めてアンテナを張りまくっているはずだ。そんな時、(それとは全く無関係な、ささいな)外的事象がそのアンテナに引っ掛かり、新たな物語的理解の糸口を紡いだり、新たな気づきの切っ掛けをひらめかせたりする。
新たな星座「物語」の発見!!
その新たな物語や気づきは、言語化され、さらに強化されて、新たな物語的理解の世界を人は生きるようになる。
言葉で外界に何かを発するとき、それは純化されすぎて危険であり、背景となる文化を見えなくして誤解を生みまくる。
言葉は自身の内界の物語を強化するとき有効に機能する…
言葉は、その峻別する機能によって科学を育んだが、他方、ともすると人の心の表層と深層を分断する。(分断された心は直感的な物語的理解によって統合され、言葉によって強化される…)
言葉の功罪といったところでしょうか。