過剰な何か

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科学一辺倒の時代にあって、自分の神話を持つということ(試論) - 藤尾
2025/07/01 (Tue) 11:29:42
このところ久々に河合隼雄の著作を読み返すことが多いのだが、「生と死の接点」は現代においても示唆に富み得るものが多かった。昔これを読んだ時とは違う読み応えを得ることができて驚いている。読後感が新鮮なうちに、自分なりに感じたことを備忘録的にまとめておく。

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自分自身の神話を持つ、それを生きるということ。

神話=自分たちの起源や出自を説明する物語。所属意識を醸成し、価値観、社会規範を形成して生活に影響を与える。
宗教=死生観を含む納得の体系。文化、社会に影響を与え、個人の生き方や価値観に影響を与える。

科学の知識を生きている現代人には、昔ながらの神話や宗教を丸ごと信じて生きるのは難しい。
しかし、実際はそれをかなり混合した状態を生きている。子供が生まれればお宮参りに参拝し、七五三を祝いに神社に行き、おみくじを引き、受験前には神社に行き、教会で結婚式をし、お盆に墓参りに行き、葬式には僧侶を呼び、墓に収める。

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発達心理学において人の成長とは、1970年頃までは、乳幼児期から始まって青年期を経て成人になるというところまでで、その考察の範囲は終わっていた。
しかし人間の寿命が延び、成人となった後、壮年期、老年期までを課題にするようになった。西洋的な心理学においては壮老年期までの知見が乏しかったため、東洋の知に範をとることが多かった。

壮年から老年期における最大の課題は、知力体力などの低下に伴い、人としての価値を失うようにして自信や活力を喪失することであった。そこで、ネイティブアメリカンや東洋の老年期の人間は威厳や張りをもっていたり、泰然とした自適の生活を送っているのはなぜかがフォーカスされた。
彼らの老いの「気品や威厳」とは…?

それは、彼らが彼らの神話世界を生きていたり、年齢相応の段階を生きるという思想を持っている…ということが(再)発見された…。
「生活の意味」の持ち方とは?
どんな確信を持って生きているのか?
老いの意味が強化され、威厳を持って老いることがなぜ可能なのか?

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科学は本来、価値判断とは無縁のものである。

ドップリと科学の知識の世界を生きる現代人も、自分自身の神話を持つことができれば、張りや尊厳や自信や威厳や矜持をもって生きることができるのではないか?
もちろん、非科学的な物語を「納得的に」丸々信じることなどできない。でもどうだろう、科学と神話の自分なりのハイブリッドは可能なはずだ。
自分の持つ死生観、人間観とは、どういったものだろう?
・「私」とは何か? 「他者」とは何か? その両者の関係とは?
・「情動 → 自分 ← 外界」との関係とは?
・内的世界における情動の意義の承認とは?
これらを、僕は臨床心理学的知見や仏教的知見で理解し、納得的に信じている。もちろん、それら諸学を丸々採用しているのではなく、自分の理解納得に都合の良いように、都合の良い所だけ信じている。
そして、臨床心理学・精神分析・分析心理学・唯識的仏教等は、ある意味科学たらんとして非科学的なものという、実に中ぶらりんな存在たちである。(あまりにも個別の事象の救済を対象とするから…だ)


改めて自分自身の内に持つ、そんな、ある意味非科学的なこれらの事どもを捉え直してみると、それは「自分自身の神話」と言える気がしてくる。
この歳まで生きていると、「自分自身に関する伝説」を胸に秘めているはずだ。それは、危機との闘い、勝利の物語や敗北譚、通過儀礼、異性の獲得、知恵や力の獲得、流浪物語、成長物語、伝承、隠遁、普遍的な自己の重視と自我の消滅…、などが自然と思い浮かばれる。

自分を世界(外界)の中に位置づけ、世界(外的環境)と自分の関りの中でものを見るとき、どんなイメージに頼るか…、ということだろう。
それは、「自分の神話を持ち、それを生きる」というのに近いのではないか?
あらゆる社会が緩み或いは崩壊した現代において、「神話」は個々の人間が自分にふさわしいものを見出してゆかなければならないだろう。
幸い、僕は自分なりのそれを持てた気がしている。あとは、決してスピリッチャルなどに堕することなく、神話の知と科学の知を両立させてゆけばいいのだと感じる。

 (未了)