アディクションからの逃走(或いは世間ほどバカなものはない) - 藤尾
2025/07/01 (Tue) 14:50:02
「安全に狂う方法(アディクションから掴みとったこと)赤坂真理・医学書院、ケアをひらくシリーズ」が、あまりにも面白かったので、その内容と僕の体験的理解とを交えながら、備忘録的にまとめておく。
ついでに悪乗りして、このところ熱烈に展開して余熱冷めやらないアメコミ「ホテル カリフォルニア」シリーズ続編を無理やりドッキングさせた。
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この依存状態から、どうすれば離れられるんだ。
(ここでのアディクション≒依存・固着とは、何を想像してもよい。酒、薬、ギャンブル、恋愛、SNS…,そして僕の場合は過剰な自己防衛的な傾向に裏打ちされたカメラ、レンズ沼への没入であろうか)
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全ての苦しみの元は「執着」だ。
「回復」は手段であって「目的」ではない。そもそも元いた世界がつらかったからアディクションに走ったのではなかったか?
日常と折り合いを付けるために何かへの依存が始まった。それがいつの間にか依存が日常を圧迫してしまうようになった。
「とらわれる」こと自体から日常の誤動作がはじまる。
アディクションの核心は、この方法を用いなければ楽になれないという想い詰め思考だ。アディクションとは、実行しなければ楽になれないと思い込む症状だ。
本当の自分を生きられない状況に対して生き延びようとする希求。酒や薬も、本当の自分を生きられないことへの自己憐憫。依存症とは、「緩衝帯が日常を上回ってしまう状態」だ。生きにくさを紛らわしてこの世にいるための方便がアディクションだ。
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自分を救う決心は自分にしかできない。しかし、自分でできることは案外少ない。
それは「半分」でしかなく、もう半分は外から来る。「まれびと」の来訪や、瞑想技法の導入、カウンセリング、自助グループ、体系的な学び、などだ。自分を超えた力にゆだねることだ。
自力と他力の組み合わせ。
自力でコントロールできなかったのがアディクションだったはずだ。自分は無力である。自分に対して、問題に対して無力である。そう認める。諦めが最初のステップだ)
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・自分を救う決心をする。(自力)
そして自我による自分自身のコントロールの限界を認める。
・さらに、瞑想や禅、マインドフルネスなどの方法を体系的に学び「過剰な自我活動」を休ませる方法を身につける。臨床心理学を体系的に学ぶのも良い。カウンセリングや自助グループの助けを得て自己開示と解放の場を得るようにする(他力)
・あとは、日常をどう過ごすか…だろう。(バランス・安定の継続)
「本来の自分を生きる」とは、「表現すること」だ。表現とは、人の中にある自然な衝動であり、力だ。自分の表現を抑圧すると病気になる。
表現することを「商業活動」と結びつけない。本来、「表現」と「職業」との間には関係はない。それを結び付けようとするから挫折や失敗がある。
表現は自分を癒す。それは、「情動の、抑圧の無い昇華」につながるからだ。本来の意味での芸術の定義と同じだ。
表現することを抑えたことが、生きづらさとなった。周囲の他者や、社会や、世間を気にして、自分を抑えたり曲げたりしていなかったか?
だれもジャッジしない場でそれを出せることは、希望にも癒しにもなる。
人がストレスと折り合うために求めるものをことごとく取り上げてしまったら人々を追い詰めることになる。
「正しく狂うこと」だ。
「何かに執着する」ことから、人は逃れられない。
ならば、正しく狂うことだ。安全に執着することだ。
そして、人は表現せずにいられない。それは内から湧き上がる情動の表出という人間の基本的な欲求だからだ。
ならば、それを極力抑圧することなく、平和裏に自己表現として表出することだ。
この意味において、「世間ほどバカなものはない」という暗黙裡の了解がキーワードになる。
(他者の価値観を気にしすぎるな。とはいえ人は社会を生きなければならない。でもそんなもの、必要最小限合わせておけばいい。或いは場合によっては考慮する必要は無い)
(未了)