過剰な何か

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自分の神話を持つということ(その2) - 藤尾
2025/07/04 (Fri) 14:14:04
(承前)

河合隼雄「生と死の接点」での、「ゲド戦記」を引いての老人と少年の話が興味深い。

     ※

傲慢な若者ゲドを救うために老賢人が命を捨てる。
後に、長じて若者ゲドは大賢人となる。世界のバランスの崩壊を阻止するために、老人となったゲドは若者アレンを連れて旅に出る。老人と若者二人は世界崩壊を防ぐが、老人ゲドは魔法の力を使い果たし、もはや魔法使いではなくなる。

これ、伝承→力の獲得→老成→伝承→の繰り返しですね。伝承を終えた老人は無力になり退場する。或いは隠遁生活に入る。

(これ、まるで「スターウォーズ」シリーズを思い起こさせられますね。あるいは、ウォルターJボインの「荒鷲シリーズ」で、親子二代でB‐52のパイロットになるとか(実際は三代という例さえあるらしい)、T・E・クルーズの「黄金の翼」シリーズの親子三代エースパイロット…とかいう話を思い出します。乗員交代です。つまり、「ゲド戦記」に限らず、様々な物語でこのパターンが繰り返し踏襲されつづけているっていうことです)

ゲドに戻ります。ここで河合隼雄は、老賢人となったゲドのこんなセリフを抽出します。
「 「ある」人生と「する」人生のどちらかを選ばなくてはならなくなり、ぱっと後者に飛びついた。(その選択は)何をしても、その行為のいずれからも自由になりえないし、その行為の結果からも自由にはなりえない。ひとつの行為が次の行為を生み、それがまた次をうむ。「する」ということをやめて、ただ「ある」という、それだけでいられる時間、或いは、自分とは結局のところ何者なのだろうと考える時間が持てなくなってしまう。」

「する人生」よりも「ある人生」の重みを知ること。そのことによって、老人も、それを取り巻く人々も、老人の生きていることのはかり知れぬ意味を知ることができるのではないだろうか。
「ある」人生の重みから逃げたり目をそらせたりするために、なんと多くの人が何かを「する」ことに狂奔していることだろう。

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河合節…全開ですね。
これ、まさに禅仏教ですね。何かを「する」ことに狂奔している…、躁的防衛ですね。過剰な自我活動かもしれない。
「今、ここ」を生きるとか、ライフステージに応じた自らの身の置き方、律し方でもあるでしょう。
何かを得ようとするばかりでなく、何かになろうとするばかりでなく、ときに、今ここを、ただ淡々と生きてクールダウンし、振り返ることも必要でしょう。
何かを救うために、魔法を使い切って、ただの人になってしまう。魔法(≒支配する力、権力、主導権)を、手放す。ただ「ある」こと、ただ「今生きる」ことに意味を見出す…例えば老年期の役割と意味に。

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現代人は、前世や来世の存在など信じられない。しかし、前世や来世があるものとして考えてみて、それを「心の中に大切にしまっておいて」はどうだろう。と河合は続ける。ミヒャエル・エンデの「モモ」を引用しながら、いっけん無駄なものと思えるものや、まだうまく言語化できず説明できないものは、ことばの熟するまで胸にそっとしまっておけばよい…、という。

コスパ、タイパばかりを気にして、取りこぼしてきたものはあまりにも多くなかったか?理解できないからといって切り捨ててきたものはなかったか?今現在の自分の価値観に反するものを排除しすぎてこなかったか?
時が経ち、自分の中でそれらが知らぬ間に、意味や価値を醸造するかもしれない。年齢を重ねて、初めて味わえるものになるかもしれない。ときにそれは、壮老年の生きる意味に補助線や違う視線を与えてくれるかもしれない。


時間に関しては、さらに「トムは真夜中の庭で」で語られる。
毎夜、少年が夢の中で出会う少女は、実はアパートの主人の「老婆」の夢の中の老婆の少女時代であった。少年は老婆の夢の中に毎夜入っていたのだ。鈍感な人には老人は老人にしか見えない。しかし、老人の心の中に、幼い心から若者の心まですべてが内包されていて、ドラマが進行している…。

     ※

河合節はこの章をこのようにしめくくる。
無駄をなくそうと皆が努力している。これに対して「無駄を大切にしよう」と老人の知恵は語る。価値のある事・意味のあることをしなくてはならぬ、と人々が忙しくしているとき、老人は何もしないでそこに「いる」こと、あるいはただ夢見ることが、人間の本質に深く関わるものであることを教える。

(未了)