過剰な何か

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自分の神話を持つということ(その6‐3) - 藤尾
2025/07/14 (Mon) 12:45:42
前回(その6‐2)でChatGPTにまとめてもらった文章が、あまりにも機械的で自分の文章とかけ離れてしまったので、ほぼ全面的に書き直した。

     ※

1. 外的神話と自分の神話

伝統的な神話は、共同体の出自や正当性を物語る、いわば外的な神話である。それは、歴史や自然の意味を共有するためのものでもあった。いわばその集団をまとめる共同幻想の物語である。

それに対し「自分の神話」とは、外界と自分の内面的な世界がどう触れ合うかを課題とし、自分の内面を照らし自己を支える個人的な物語である。伝統的な神話が集団幻想であるのに対して、自分の神話は、「私」というまとまりを意味づけ納得するものである。
先走って付け加えると、それは単に独立した「私」を確立するためのものではなく、「私」を周囲の社会や自然の中の存在として接続するものでもある。
自分の人生を納得的に理解・受容し、社会や自然の中で成熟していくストーリーを築くことが「自分の神話」の核となる。


2.「自分の物語」と「自分の神話」の違い

「自分の物語」は、いわゆる自分史が自身の成育歴に即した出来事の記録であるのに対し、「自分の神話」はその奥にある意味や象徴性、普遍的な心理とつながる物語である。
「自分の神話」という場合、単に現実の出来事の記述でなく、内奥の動きへの影響や、逆に内面からの情動と外界での出来事の関連などが語られるだろう。

神話には人の心の奥深くに触れ、人の心を揺さぶる力がある。神話は、無意識に触れる深層の物語である。個人の無意識が集合的無意識に触れる物語だ。
それは、人間の普遍的な情動に根差した物語であったり、自然現象と人間の存在を接続する物語だったりする。科学で原因を説明するのではなく、その理由「なぜそれが自分に起こったのか」という意味に向き合う構造がある。それが単なる物語と神話との違いだ。
それを背景として持つ集団の物語が「伝統的な外的神話」であり、「自分の神話」もまた、背景にそれをもつものだ。このように、「自分の神話」は単なる物語よりも深く自身の内奥や自然と接続した物語だ。

自分の神話を生きるとは、自分という個人の人生を通じてそのどこかに人間全体の根源的な物語を生きることに通じる。自分の奥の無意識領域は外界・環境に通底しており、そこから発する情動は社会や環境との接続性を内包している。それに気づく補助線としての存在意義が「自分の神話」にあるはずだ。
それによって、単に独立した「私」を確立するためのものではなく、「私」を周囲の社会や自然の中の存在として接続するものになる。

「自分の神話」を胸の中で作る段階は、長くかかる。しかし、ある程度出来上がると、「自分の神話」が現状や将来を照射してくれ、指標・指針となってくれるだろう。


3.「自分の神話」を構築する条件

内奥から沸き起こる情動に背を押された「私」は、社会(外界)と摩擦なく生きるために、両者の狭間で板挟みになり、欲求不満状態を生きている。しかし、社会(外界)と敵対的に緊張関係を生きるのではなく、納得的・中立的に生きてゆく道はないのか?両者の対立構図という視点ではなく、両者の納得的で融和的な視点はないのか?という問いが根源的にある。

「自分の神話」をさぐる過程で最も重要なのは、自己欺瞞を乗り越えることだろう。心的な防衛機制を自己分析の過程で破ってゆくこと。自分の心の中の自己欺瞞や怯懦や嘘と正面から戦うこと。自分自身に対する言い逃れや、言い訳や、嘘や、すり替えがあるほど、「自分自身の神話」は、嘘の装飾や捻じ曲げたストーリーが邪魔をして、効力が弱くなるだろう。
心の防衛機制を分析し、自分の中の嘘や恐れと正面から向き合わないと、「自分の神話」は力を失う。

過去を再解釈することは可能だ。過去を振り返って、経験や想いを視点を変えて再構築するのは構わない。しかし、そこに心からの納得が無かったら、そこから物語はほころび破綻するだろう。

★スピリチュアルに陥らないよう要注意だ。パワースポットなど存在しない。伝統・新興問わず教団宗教に布施を求められたら全力で疑うべきだ。出自の定かでない怪しげな自称カウンセラーにも気を付けたい…★


結論
「自分の神話」とは、自分の内面の真実に向き合いながら、自らの人生を深く意味づけし、人間という存在の普遍的な物語と接続していく営みである。これは自己理解と成長のための、内なる探求の旅でもある。

     ※

「自分」「私」という言葉を繰り返し使ってきた。自分の内奥の世界に触れ、世界との接続を図るとも書いた。しかしその先にあるのは、私を知った上で「わたし」を捨てることだ。
普遍的な自己の重視と自我の消失が最終的な目的地となる。
「わたし」など何者でもない。他者に、惜しみなく自分の時間を捧げること。わたしの追求を極めて、一周回って、社会、世界、自然の中で私を捨てて生きるということ。そんな理解や納得や覚悟の上で、わたしを生きるということ。

実際的・具体的言えば、例えば胸の奥で「老いは衰えでなく世界を支える務めの成熟である」としること。或いは「私はわたしを生き、世界を生きる」ということ。そこらへんは、各個人の必要や納得により様々だろう。ライフステージの位置によっても異なってくるかもしれない。人生の進行に伴ってアップデートしてもいいだろう。もちろん、不変であるかもしれない。

僕の神話の終わりの光景は、野道に咲く名もない小さな花になって、ただただ風に揺られているだけ、で終わりたい。旅が人生の謂いであるとすれば、長い旅だった。その終点にふさわしいと感じるからだ。

( 了 )
Re: 自分の神話を持つということ(その6‐3) - 藤尾
2025/07/14 (Mon) 17:27:00
カーテンコール…!

ブラボー!

Re: 自分の神話を持つということ(その6‐3) - 藤尾
2025/07/16 (Wed) 15:10:14
いまも余韻がさめやらない。
カーテンコールが止まない…。
Re: 自分の神話を持つということ(その6‐3) - 藤尾
2025/07/16 (Wed) 16:11:35
カーテンコールは続き、エンドロールのように人類の記憶をたどって、現代に至った。
誰しも「自分自身の伝説」の一つや二つは、胸に秘めているはずだ。
現代の神話・自分の神話を紡ぐのは、成長の物語であれ、失敗譚であれ、その伝説を大切に抱きしめることから始まるんだろう。