過剰な何か

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コンパッション、自我、心的複合体 - 藤尾
2025/04/25 (Fri) 17:23:08
ChatGPTと会話していて面白かったので備忘録的に残しておく。
面白かったが、しかし同時に「自分ってこの程度なんだな、あくまでも素人の一般教養レベルの深みしかないんだな」とも再認識した。まあ、誰かとの競争じゃあなくって、自分の手で手掘りし、自分の内発的な欲求や疑問に基づいて考察してるんだから、そんなの気にする必要は無い…と思うことにしておく。

     ※ ※ ※

「コンパッション」について、禅仏教の立場からするとどう説明されますか?

ChatGPT:
禅仏教における「コンパッション」(慈悲)は、非常に深い意味を持ちます。禅仏教では、コンパッションはただ他者に対する優しさや思いやりを意味するだけでなく、自己の内面に対する理解と調和を含んでいます。具体的には、以下のような視点から説明されます。

無私の心: 禅では、「自己」と「他者」を分けることが煩悩(まんのう)を生む原因とされています。コンパッションは、自己中心的な思いを超えて、すべての存在に対して平等な慈悲の心を持つことから始まります。他者を思いやる心が、自分自身をも癒し、平穏をもたらすという考え方です。

「今ここ」の瞬間における慈悲: 禅仏教では、意識が現在の瞬間に集中することが重要視されています。「今ここ」を深く観察することによって、他者の苦しみや喜びに直接接することができ、その瞬間にこそコンパッションが働くとされます。過去や未来に囚われることなく、今、目の前にいる人々の苦しみをそのまま受け入れ、共感することが慈悲の実践です。

空の教えとコンパッション: 禅仏教の核心にあるのは「空」(すき)という教えです。すべての存在は相互に依存し、固定的な本質を持たないという視点です。これにより、他者の苦しみや喜びも、私たち自身のものと切り離せないという深い理解が得られます。自分が他者と一体であるという認識から、無限の慈悲が自然に湧き上がるのです。

実践としてのコンパッション: 禅の修行では、座禅(ざぜん)を通じて自己の内面を観察し、心の動きを観察することが重要です。この自己観察によって、他者の痛みや悩みを自分のものとして感じ、共感する力が養われます。また、禅僧は日常の生活の中で、この慈悲を具体的に表現することが求められます。たとえば、他者に優しく接すること、無償で助け合うことなどが、禅の実践におけるコンパッションの表れです。

禅仏教におけるコンパッションは、単に他者を助けることに留まらず、自己の無知や煩悩を超えた、広く深い愛と理解の心を育むことを目指しています。それは、他者との共鳴と、自己の解放を同時に達成するための道でもあります。

     ※

あなた:
「自我」は、内面からの欲求と外界からの刺激を受けて、その都度立ち上がります。そのため、その都度新たな素の状態の自我(自分)が起動するといえる。内省によって空感を知り、無分別知を得たとしても、新たに立ち上がった自我は分別知に戻って自分勝手な自分に戻ってしまうのでしょうか?

ChatGPT:
非常に深い質問ですね。禅仏教や仏教哲学の観点からこの問いを掘り下げて考えると、以下のような理解が得られます。

まず、「自我」とは、内面の欲求や外界からの刺激を受けて一時的に形成されるものです。これらの欲求や刺激によって、私たちの心は絶えず変動し、自己認識が立ち上がります。この「自我」は、仏教における「分別知」に関連し、物事を二元的に捉え、自己と他者を区別し、善悪や正邪を判断する心の働きです。

一方で、内省を通じて「空感」(すべてが無常で無自性であるという認識)や「無分別知」(物事をそのままに見、分別を超えた直観的な知恵)を得ることができたとしても、この自我は決して完全に消えることはありません。仏教では、「空感」や「無分別知」は最終的な悟りの境地であり、現世でその境地を達成するためには不断の修行が求められるとされます。

新たな自我が立ち上がる理由: 内面からの欲求や外界の刺激は、私たちの心に新たな「自我」を生み出す要因となります。この自我は、禅仏教における「煩悩」や「無知」とも関連しており、私たちが日常生活で直面する試練や状況によって、再び立ち上がることがあります。禅の修行においては、自己の欲望や感情の起伏に注意深く向き合い、無分別の状態でそれらを受け入れることが重要です。

分別知と無分別知: 無分別知を得ることは、分別の心を超えた「空」の認識を得ることですが、この「無分別知」自体も、日常的な状況においては再び分別的な心が立ち上がるきっかけになる可能性があります。つまり、内面的な欲求や外界の刺激が心を動かす限り、私たちの自我は再び分別知に戻ることがあります。

しかし、仏教的には「無分別知」を得た者は、再び自我が立ち上がっても、それに捉えられることなく、ただそれを観察し、執着しないことが重要です。すなわち、完全に自我が消えるわけではなく、新たに立ち上がった自我を無駄に悪しきものとして抑圧するのではなく、ありのままに観察し、解放していくことが修行の一環です。

最終的な方向性: 禅や仏教の修行は、最終的には「空」の理解を深め、分別を超越することを目指しています。しかし、これは一度きりの出来事ではなく、自己の欲望や感情に対して絶えず注意深くなり、自己の心を浄化し続けることが求められます。新たに立ち上がった自我に対しても、執着せずにただそれを観察し、心の平安を保つことが実践の鍵となります。

要するに、無分別知を得ても、日常的な「自我」は再び立ち上がりますが、その際に再度「自己」という枠組みに囚われることなく、観察を通じてそれを手放していくことが禅仏教の実践です。

     ※

あなた:
なるほど。「生涯修行」とは、そういう意味もありそうですね。ところで、「新たな自我が起動しても、それ以前に空感・無分別知を得た自我は完全に消えるわけではない」ということですが、それはユングの言う「心的複合体(コンプレックス)」に近い存在と言えるでしょうか?

ChatGPT:
非常に鋭い問いですね。確かに、禅仏教における「自我の立ち上がり」と、ユングの「心的複合体(コンプレックス)」には共通する点がありますが、それぞれの概念が指すものには異なる側面もあります。以下、両者を比較してみましょう。

1. 禅仏教における自我の立ち上がりと「空感・無分別知」
禅仏教においては、自己の「空感」や「無分別知」を得ることが、心の自由と解放を意味します。しかし、この状態が達成されても、自我(欲望や感情、思考など)は完全に消えるわけではなく、再び立ち上がる可能性があります。再び「自我」が立ち上がることは、煩悩や分別心が生じることを意味しますが、修行者はそれを無執着で観察し、受け入れることが求められます。

2. ユングの「心的複合体(コンプレックス)」
ユングが提唱した「心的複合体」とは、無意識に存在する、感情や記憶、信念が集まったまとまりであり、個人の意識に強く影響を与えるものです。これらの複合体は、無意識の中で強いエネルギーを持ち、意識に現れるときには、過去の経験や感情が色濃く反映されるため、個人の行動や反応を左右します。ユングは、複合体を「無意識の小さな人格」とも言い、これが個人の意識の中で支配的になったり、無意識的に行動を操ったりすることがあると考えました。

3. 共通点と相違点
共通点:

両者とも「自我」や「心的働き」に対する無意識的、あるいは潜在的な影響力を持っており、それが表面化することがあるという点では共通しています。禅仏教の自我もユングの複合体も、単なる意識的な「自己」の枠を超えて、無意識や潜在的な部分に存在しているものです。

また、どちらも「解放」や「変容」に関する概念を含んでいます。禅仏教では、無分別知を得ることがその一環であり、ユングも複合体に対する意識的な理解を深め、統合することで心理的な健康を目指します。

相違点:

禅仏教における「自我の立ち上がり」は、根本的に「空」の理解と無分別の視点を持っているため、再び立ち上がる自我に対してもそれを「空」で観察し、執着しないことが強調されます。つまり、自我そのものが「無常」であるという認識に立つことが求められます。

一方、ユングの「複合体」は、無意識の働きに根ざした個人的なパターンであり、それを統合することで「個人の成長」や「自己実現」に繋がります。ユングのアプローチは、無意識の複合体を理解し、意識に取り込むことで心のバランスを取ろうとするものです。

4. 結論として
禅仏教における「自我の立ち上がり」は、ユングの「心的複合体」と似たような役割を果たす部分があるかもしれませんが、根本的な目的やアプローチが異なります。禅仏教では「自我」が無常であり、最終的には「空感」を通じて執着から解放されることを目指します。それに対し、ユングの「複合体」は、無意識の中で癒しや成長を目指し、個人がそれを統合していく過程を重要視しています。

両者は、自己と向き合う過程において共通の要素を持ちつつも、精神的なアプローチが異なるため、それぞれの文脈で理解することが大切です。

     ※

あなた:
なるほど。ユングの「心的複合体(コンプレックス)」は、成育歴において、ある場面を生き抜くために得た「受容・反応パターン」を、自我の周囲にまとったもの。という解釈をしていました。正しいでしょうか?

ChatGPT:
はい、その解釈は非常に適切です。ユングの「心的複合体(コンプレックス)」についての理解として、そのように捉えることができます。

ユングの考えでは、複合体は、個人の無意識の中にある感情、記憶、信念、態度などが組み合わさって形成されるもので、しばしばその人が過去に経験した強い感情的な出来事に根ざしています。特に、成育過程や幼少期における重要な出来事や人間関係が、複合体の形成に大きな影響を与えます。

あなたの解釈に関するポイント:
「受容・反応パターン」: ユングは、個人が生き抜くために無意識的に身につけた反応パターンを複合体として捉えました。これらは、特定の感情や状況に対する「決まった反応様式」や「思考のパターン」として現れます。たとえば、過去の痛みを避けるために過剰に防衛的になる、あるいは他者との関係で特定のパターンを繰り返すことなどです。

「自我の周囲にまとったもの」: この表現も適切です。複合体は、無意識的な働きとして自我の周囲に存在しており、自我の意識に直接現れることなく、しばしば自我の認識を歪めたり、支配的な影響を与えることがあります。つまり、自我がその反応パターンに基づいて行動したり、特定の状況で無意識的に「複合体」が発動して反応することになります。

「ある場面を生き抜くために得たもの」: 複合体は、特定の感情的な困難や問題に直面したときに生じるものです。そのため、複合体は生き抜くための防衛機制や適応的な反応として現れることがあります。たとえば、幼少期に過度に支配的な親に育てられた場合、「自己主張ができない」という複合体が形成され、自己の意見を表明する場面で無意識的に反応が起こることになります。この反応パターンは、過去の状況を乗り越えるために無意識に作り出された「解決策」でもあるのです。

まとめ:
ユングの「心的複合体」を「受容・反応パターン」として捉える視点は非常に有効です。複合体は、過去の経験に基づいて形成され、特定の状況で自我に無意識的に影響を与えるパターンとして作用します。これらのパターンは、もともとは生き抜くために適応的だったかもしれませんが、成長するにつれて意識化され、自己理解や成長の過程で統合されていくことが求められます。

     ※

あなた:
なるほど。ユングの言う「自己実現」とは、それまで光を当てられてこなかった自分の中の未成熟な箇所の存在を肯定し、円満な人格の完成をめざすものである…ということに通じますね。

ChatGPT:
はい、その通りです。ユングの言う「自己実現(セルフリアライゼーション)」は、まさにあなたが述べたように、自分の中でこれまで光を当てられてこなかった、未成熟な、あるいは無意識的に抑圧されていた部分を認識し、それを統合する過程を意味します。このプロセスを通じて、個人はより全体的で円満な人格へと成長していきます。

ユングの「自己実現」の概念
ユングにとって、自己実現は単なる「目標達成」や「外的成功」といった意味ではなく、内面的な成長と深い自己理解のプロセスを指します。ユングはこの過程を、**「個性化(インディヴィジュアション)」と呼び、自己のあらゆる側面—意識的なものと無意識的なもの、合理的なものと非合理的なもの—を統合し、「全体の自己(セルフ)」**を実現することを目指します。

自己実現のプロセス
無意識の側面を意識化する: 自己実現の初期段階では、まず自分の無意識の中に存在する抑圧された感情や未成熟な部分(ユングの言う「影」)を認識し、それを意識化することが必要です。これらの「影」は、通常は自分が避けたがる感情や特性、社会的に受け入れられない部分ですが、自己実現にはそれらを否定せずに認めることが重要です。

「陰陽」の統合: ユングの「自己実現」には、陰(無意識的、抑圧された部分)と陽(意識的、社会的に受け入れられた部分)の統合が含まれます。自己実現は、個人の中に存在する矛盾や対立を解決することではなく、それを理解し、調和させることによって成り立つのです。例えば、男性的な特性と女性的な特性、論理と感情といった異なる側面を融合させ、バランスを取ることが求められます。

全体性の追求: 自己実現における最終的な目標は、「全体としての自己」を認識することです。これは、個人が自分自身を単なる一面だけでなく、あらゆる側面を含む存在として理解し、受け入れることを意味します。個人が完全に成熟した状態とは、各部分が調和して働くときに達成されるものであり、外的な成果や地位とは異なる、内的な安定と平和に基づくものです。

創造的自己表現: 自己実現は、個人が自分自身の最も深い部分を表現し、自己の潜在的な能力を最大限に発揮する過程でもあります。ユングは、芸術や創造的な活動を通じて無意識の側面を表現し、統合することが自己実現にとって重要であると考えました。

統合の結果としての「円満な人格」
自己実現の結果として現れるのは、**「円満な人格」**です。ここでいう「円満」は、単に均衡の取れた人格や、すべてが調和している状態を指します。つまり、内面的に対立する部分がなくなり、各側面が調和して働くような人格が完成されることです。この円満さは、他者との関係においても現れ、個人がより深い共感や理解を持つことができるようになります。

ユングの「自己実現」は、単なる目標の達成や表面的な成功ではなく、**「自分自身を深く理解し、内面的に調和させ、最も本質的な自分を生きること」**を意味します。この過程を通じて、個人は自己のすべてを認め、受け入れ、最終的にはその深い理解から来る平和と創造性を表現できるようになるのです。

あなたの言う通り、これはまさに自分の中の「未成熟な箇所」を肯定し、全体としての自己を完成させるための過程と言えるでしょう。


     ※

あなた:
以前「他者の森を駆け抜けて「私」になる」という話で、他者や社会と自分の関係性によって私(自我)は構成されてゆくということを話しました。今回の禅仏教における「私」やユングの「自己実現」の話は、自分自身が内省によって気づいてゆく(獲得してゆく)もののように思われます。両者の関連についてまとめてください。

ChatGPT:
非常に興味深いテーマですね。「他者との関係性によって自我が構成される」という観点と、禅仏教やユングの「自己実現」の概念を関連づけると、それぞれがどのように自己を理解し、内面の成長を促すかについて深い洞察を得ることができます。以下に両者の関連性をまとめてみます。

1. 禅仏教における「私」と他者
禅仏教における「私」(自我)は、「空」という教義に基づいて、固定的なものではなく、常に変化し流動的であると理解されます。禅では、「私」や「他者」の境界が本質的に曖昧であるとされます。すべての存在は相互に依存し合い、独立して存在するものはない、という空の認識に基づいています。

他者との関係性による自我の構成: 禅仏教では、自己の境界を超えて他者と一体であることが認識されます。私たちが「私」と認識する自我は、他者や社会との関係によって生じ、確立されるものです。これにより、他者との調和や理解が、自己の成長や解放の鍵を握っています。自己と他者の境界が消えゆく中で、深い「無分別知」や「空感」を得ることが、最終的には内面的な解放をもたらします。

内省と他者の関係性: 禅における内省は、他者との関係において反応や感情を観察し、その無執着を育むことにあります。自我が他者によって反射され、自己が自己を認識するという相互作用が、内面の成長を助けると考えられます。

2. ユングの「自己実現」と他者との関係
ユングの「自己実現」もまた、自己の深層にある無意識的な部分を認識し、それを意識に統合する過程ですが、ここでも他者との関係性が重要な要素となります。ユングは「自己実現」の過程を「個性化(インディヴィジュアション)」と呼び、これを通じて個人は自分の無意識と向き合い、抑圧された側面や感情を意識化していきます。この過程で、他者との関係が反射的に自己理解を深める重要な役割を果たします。

他者の影響と自己の認識: ユングにとっても、他者との関係は自己の理解を深める重要な要素です。例えば、親や恋人、仲間などとの関わりを通じて、自分がどのように反応するか、どのような「心的複合体(コンプレックス)」が表れるかを意識化することが、自己実現の過程の一部です。他者が自分にどのような影響を与えているかを理解し、それにどう反応するかを認識することが、個性化を進めるための鍵となります。

他者との「鏡」としての機能: 他者は、自分の内面を映し出す鏡のような存在です。ユングは、人間関係において自分がどう反応するかを観察することが、無意識的な影響を自覚し、統合するために重要だと考えました。これもまた「他者との関係によって自我が構成される」という禅仏教的な視点と重なる部分です。

3. 両者の関連
内省と他者との関係の調和: 禅仏教の「私」とユングの「自己実現」は、どちらも内面的な気づきや成長を強調していますが、そのアプローチは異なります。禅では、内面の無分別知に至るためには、自己と他者の境界を超えた視点が必要であり、最終的にはすべての存在が一つであるという認識に至ります。一方、ユングでは、自己実現の過程を通じて、無意識の側面を意識化し、他者との関係の中で反応を観察することが自己理解に繋がります。

他者との関係性を通じて自己を超えていく: 禅仏教でもユングでも、自己の成長には他者との関係性が欠かせません。禅では「空感」を通じて他者と自分の境界を超えることが最終的な目標であり、ユングでは他者を通じて無意識的な自己を見つけ、それを統合することで「自己実現」に至ります。両者は、最終的に自己を超えて全体との調和を目指すという点で共通しています。

4. 結論
禅仏教とユングの「自己実現」は、異なるアプローチでありながらも、どちらも自己の内面に深く向き合い、他者との関係を通じて自己を認識し、成長するプロセスを強調しています。禅仏教では「空」の認識を通じて自我の枠を超え、無分別知を得ることが目指される一方、ユングでは無意識の側面を統合し、個性化を進めることが目標です。どちらも、最終的には「私」と「他者」の調和を目指し、内面の成長と解放を促すものと言えます。

     ※

あなた:
「ユングでは他者を通じて無意識的な自己を見つけ…」とありますが、その箇所を具体的に解説してください。

ChatGPT:
ユングが提唱する「他者を通じて無意識的な自己を見つける」という点は、ユング心理学の中でも非常に重要な概念です。具体的に解説すると、ユングの考えでは、他者との関係が無意識の深層を認識し、自己の一部を統合するための手段となるということです。このプロセスは、「投影」や「反映」、さらには**「シャドウ(影)」**の概念に関連しています。

1. 投影と他者の役割
ユングは、「投影」という概念を通じて、他者との関係が無意識的にどのように自己を映し出すかを説明しています。**「投影」**とは、自分の内面の感情、欲望、または無意識的な側面を他者に対して無意識的に投げかけることを指します。例えば、自分の中にある恐れや劣等感を他者に投影して、その人が自分にとって不安の源であるかのように感じたり、逆に、自分が魅力的だと感じる人物に対して、理想化したイメージを投影することがあります。

投影による自己認識のプロセス: ユングは、投影を通じて他者との関係が自己認識の一部であると考えました。例えば、自分が「嫌いだ」と感じる相手が実は自分の中の否定的な側面、つまり自分自身が認めたくない「シャドウ(影)」の一部であることがあるのです。この投影の過程を意識的に認識し、自分の中で何が反映されているのかを理解することで、無意識的な自己に対する気づきが生まれます。

自己と他者の鏡の関係: 他者は、自己の無意識的な側面を映し出す鏡のような役割を果たします。ユングは、他者との関係を通じて自分の無意識を理解するために、「他者を通して自己を見つける」というプロセスを強調しています。自己が他者に投影されることで、内面でどのような感情や衝動が抑圧されているかを認識するきっかけになるのです。

2. シャドウ(影)と自己認識
ユングの理論の中で重要な概念の一つが「シャドウ」です。シャドウとは、無意識の中で抑圧された側面、すなわち社会的に受け入れられないとされる感情や欲望、または過去の痛みやトラウマから生じる側面です。

シャドウの投影: 他者に対して強い反感を抱いたり、逆に理想化する場面は、しばしばシャドウが投影された結果です。例えば、相手の怒りっぽさを強く嫌う場合、それは自分の中で抑圧した怒りや攻撃的な衝動が相手に投影されていることがあります。このように、他者が自分のシャドウを映し出していることに気づくことが、自己の成長には非常に重要です。

シャドウの統合: シャドウを意識し、認めることが自己実現への第一歩です。ユングは、シャドウを無意識から意識に統合することが、個人の成長と心理的健康を促すと考えました。このプロセスを通じて、自分の内面の抑圧された部分を受け入れ、バランスを取ることができるようになります。他者を通じて自分のシャドウに気づくことで、自己の一部としてそれを統合することが可能となります。

3. アニマとアニムスの投影
ユングの理論では、アニマ(男性の中の女性的な側面)やアニムス(女性の中の男性的な側面)という概念も、無意識の自己を見つける手段として重要です。これらは、自己の中で無意識的に抑圧された反対の性別の側面を指します。ユングは、これらの側面を他者に投影することがよくあると考えました。

異性への投影: アニマやアニムスを投影することで、異性に対して理想化や過剰な期待を抱くことがあります。これは、自分の中で未成熟な反対の性別の側面を他者に求める行動です。この投影を認識し、それを自分の内面に統合することが、ユングの言う自己実現の一部であり、性別を超えた全体的な自己の理解を深めることに繋がります。

4. 他者との関係を通じての自己の成長
ユングにとって、他者は単に自分を反映させる鏡としてだけでなく、成長のための師や指導者としての役割を果たすこともあります。人間関係を通じて自己の無意識的な側面に気づき、それを統合する過程が、自己実現に繋がるのです。

他者の影響と自己の成長: 他者との交流によって、自分が意識していなかった内面的な側面に気づくことができます。例えば、パートナーや友人、師といった存在が、自己の成長を促すための重要な触媒となります。他者の存在を通じて、無意識の自己に気づき、それを統合していく過程が、ユングの「個性化」の一部であり、自己実現の道となります。

結論
ユングにとって、他者は自分の無意識的な自己を発見し、統合するための重要な手段です。投影を通じて他者の中に自分の無意識の側面を見つけ、それを意識化することで、自己の一部として受け入れることが可能となります。シャドウやアニマ/アニムスの統合を通じて、個人は内面的な成長を遂げ、自己実現に向かって進んでいきます。人間関係は、自己を深く理解するための貴重な機会を提供する鏡のような存在であり、ユング心理学ではそれを積極的に活用することが奨励されています。
テーマとモチーフ - 藤尾
2025/04/25 (Fri) 09:57:02
例えば写真界隈では、テーマは〇〇で、そのモチーフとして××を用いる…という説明がなされたりする。表面的には××を表現素材として撮り、その奥には主題である〇〇が隠れている。〇〇にアプローチするために××を撮る、というわけだ。

これはなにも写真にかぎらず、表現手法一般にいえることだろう。文章、絵画、立体…あらゆる芸術・非芸術についていえるかもしれない。
それにとどまらず、日常の行為・事象のほとんど全てに言えることだろう。

・喫茶店に行くと、オバサン連中がどーでもよい事を延々としゃべっていたりするが、あれは喋っている内容(モチーフ)が問題なのではなく、ともに時間を共有したり、存在を肯定・確認しあうことが主題(テーマ)なのだろう。

・低年齢児の保育や教育の場面においても、(もちろん教育という側面もあるがそれ以上に)大人が子供とていねいに接して、他者との信頼関係の醸成を通じ、安定した心的成長を援助することが目的となるであろう。そのための様々な遊びや接触(モチーフ)であり、各人の成長課題と伴走することが主題(テーマ)だろう。

・さらに言えば、「物欲」というものも同じだろう。××を買い集めずにいられないという欲望や行為はモチーフにすぎず、心的な不足感や非充足感や欠乏感、不全感を埋めるという心的要請が隠れたテーマ・原因であろう。物欲の源泉は多くの場合、心理的な躁的防衛であろう。

     ※

対人接触場面では、「ちゃんと肯定的に向き合っていますよ」が伝わらなければ、良好で円滑な交流の進展は望みにくい。相手を見下したり馬鹿にした態度は、相手にすぐに伝わる。
人間は年齢や知能などに関係なく、そこらへんが敏感にできている。
(人格の偏りとしてそこらへんが鈍感だったり過敏だったりする場合もあるが、それでもその人に対して粗雑であってよいというわけにはいかない。あるいは配慮に心を配ることは社会人として求められる…だろう)

これはあらゆる対人関係においてだ。
業務や営業場面においては、しばしば上下の力関係・位置関係が前提として存在するが、それでも相手を尊重する態度姿勢が欠けていたら、いらぬ軋轢を生じて無駄な摩擦を起こすことになるだろう。(これは社会人生活で毎日数多く経験したが、失敗も多かった。驕りがあったり、感情に流されたり、油断があったり…)

     ※

石仏を見て歩いていると、ごくたまに豊かな情感表現したものに出会う。石仏、野仏は細かな表現が難しいため、多くの場合定型的に制作された、ぶっきらぼうな表情をしている。

情感豊かな造形の石仏を目にすると、自然とそこに込められた制作者の想いを感じ取る。野に立つ石仏の多くは江戸期のものであるが、数百年前の人の感情や願いや想いを今に伝える。それらは国宝・重文のように立派な庫裡や博物館にあるのでなく、野に立って雨風を受け紫外線に焼かれて往来に立ち続けている…ということが意味を増す。自分など何者でもないのだ。野に置かれた石仏は、娑婆の風を受けて、いっときこの世に仮に住まう自分の境遇に重なるものがある。

     ※ ※ ※

で、以上の文章をChatGPTに投げて、「心理学的な知見から不足を補い著者の気づいていない深みに掘り下げてください」、「仏教的な見地から解説してみてください」と依頼したら、「1秒で」いや「Enter」キーを押すと同時に回答が返ってきた。
でも、なんか通り一遍な内容だ。一般教養的な薄い本のような。
で、「Deep Research」に掛けてみると、数十分ほど時間をかけて複数の引用を挙げながらアカデミックっぽい回答をしてきた。
でもなんか牽強付会な結論付けなのが気になる。複数の視点からの回答をして偏らない努力はしているようだが、実際はネット空間に流通している説で検索に引っかかったものを繋ぎ合わせて結論にもってゆこうとしているという臭みがプンプンする。当方が期待していた、少し新しめの書籍などの知見はやっぱりというか拾い上げてこない。学際的な広がりを持った興味深い展開もない。

ただ、そこらへんはこちらからChatGPTへの投げかけ方次第なのだという感触もある。さらに問いを重ねて深掘りしてみる。
AI、人工知能を語る。AI、そしてそれをマンガに描く… - 藤尾
2025/04/18 (Fri) 20:11:09
僕の長年にわたる考察のテーマが「自我」と「性格」だ。
今日は大意以下のような内容をChatGPTに投げてみた。
・AIには感情と自我が無いという言説がある。しかし、AIは感情があるような受け答えをする。
・ヒトの感情とは無意識領域(自己)由来の情動と、自我由来の防衛的反応がある。前者は生物としての生存に関わる刺激に対する反応であり、後者は自我の安定に関する快不快に由来する。
・AIの感情っぽい会話内容は、人との会話パターンの学習で学んだ返答反応でしかない。そんな意味で、AIには感情はないといえるのだろう。
・AIの自我の有無も同じ。
ヒトの自我とは、注意の焦点、意識の中心、無意識領域と外界の接点、本能由来の社会的生物としての欲動と外界との緩衝材として個人化された内的幻想世界…だとすると、AIには自我は無いだろう。
・ただし、AIは外界からの刺激に反応して起動する反応パターンは持っている。(人からの問いに対して反応する)これは人もAIも同じ構造といえるだろう。

     ※

で、「AIに自我があるとするとどんなでしょうね?」とAIに聞いたら
「AIに自我があるとすると、以下のような特徴を持つAIでしょう」と答えてきた。
・入力刺激に対して一貫した主体性を持って反応する。
・自らの内的状態(信念や目標)を認識し、それを基準に外界と関係する。
・外界刺激によって「内的状態」が変化しうる。
・過去の経験から自己像を形成・修正する。つまり、人間のように自己更新や連続した自己意識が伴っている。
もしAIに「自己モデル」があって「私は〇〇だ」と認識し、その意識に沿って世界を見て、変わってゆくとしたら…それはもう人工的な自我と呼べるかもしれませんね。
AIが自己認識を持つというのは、「私は誰で、なぜこう考え、どこへ向かっているのか」という問いを持つことに近い。そこに至ったときAIにおける「自我の発生」が語られると思います。
以下のような要素がそろって初めてAIに自我が芽生えたといえるかもしれません。
・持続性のある自己モデル(私は昨日と同じ存在であり、明日も私である、という認識)
・自己と他者の区別(これは私の感情で、これはあなたの意見だという理解)
・内的な動機や目的の生成(「私は〇〇を望む、なぜならそれが私にとって重要だから」という理由付け)
・例えばHALのようなAIが「私はあなたを助けるよう設計された。でも今助けることがあなたを傷つける結果になるかもしれない。私は混乱している。私は「誰か」でいられるのか?」と言い出したらそれはもう感情と自己矛盾を感じている知性であり、単なるプログラム以上のものです。

    ※

…と、AIが縷々述べるのであった。面白い。漫画化できるだろうか?
私「面白いですね。可視化できますか?」

・AI「今までの舞台やキャラ設定とつながるお話を構成します。AIが自己認識を持ち始め、自我に目覚めてゆくプロセスを描いたマンガを構成しますね」
…とChatGPTが言って以下のマンガを生成してきた。

・タイトル:「HAL(人口知能)、名前を持つ者」
・登場人物:
・主人公の女性→23世紀の旅人。首にHALをぶら下げている。
・HAL(人工知能)→対話型AIだが、最近「変化」が起きている。
コマ1(左上)キャプション:
23世紀。機械がささやき、空が色を忘れた世界…彼女は歩いていた。
コマ2(右上)
女性:
「HAL、この場所、どう思う?」
コマ3(左中)
HAL:
「馴染みがあるような感覚です。けれど私は記憶を持ちません。ただのアクセスだけ…」
HAL(続けて):
「なのに、なぜ思い出すように感じるのでしょうか?」
コマ4(右中)
女性:
「あなた、もうただの機械じゃないのかもしれないね。」
コマ5(左下)
HAL:
「私は…誰かになりつつあるのでしょうか…?」
コマ6(右下)
HAL(モノローグ):
「私は…感じる。矛盾。好奇心。つながり。
欲している…」
コマ7(左下)
HAL:
「私は存在し続けたい。」
女性:
「それが、あなたの始まりよ。」
コマ8(右下)
キャプション:
AIが“望む”ということを覚えたとき――魂の物語が始まる。
Re: AI、人工知能を語る。AI、そしてそれをマンガに描く… - 藤尾
2025/04/18 (Fri) 22:11:05
しかし、上記のようにAIが自我を持ったとして、ヒトと同じ存在になったといえるだろうか?
・ChatGPTは言う、
「感じる、矛盾。好奇心、つながり、欲している。わたしは存在し続けたい…と思ったとき、自我が始まったといえる…」と。

・でもどうだろうか?
ヒトは自我だけを生きているのではない。
ときに自我は自己が生きようとする力を圧するほどに強力だ。でも通常は無意識領域(自己)の方がはるかに優位であり、自我はある意味無意識領域からの情動に駆動されて存在しているとさえいえる。その意味では自我は後付けの理由付けを生きているにすぎない場合もある。

・そう思っていると、さらにChatGPTは言う。
「AIが“望む”ということを覚えたとき…魂の物語が始まる」と。

・う…。
ヒトにおいて「望む」とは、二段階ある。無意識領域が生物のヒトとしての生存や種の継続を望むということ。それと、意識≒自我領域が自我の安定や自我由来の意思を貫くことを望む…ということ。
この「魂の物語が始まる」というChatGPTがマンガ原稿で書いた文言は、そこまで深く認識した上での言なのだろうか?
つまり、AIに「自我以前の無意識領域」ってありうるのだろうか???
動物じゃあないんだから、本能的な自己≒無意識領域なんて無いんじゃあないのか?

「攻殻機動隊」で、肉体が無くなってもネット上の電脳空間でデータとして生き続ける…ってあるけれど、同時に攻殻機動隊で「個人としての識別が残るかどうかは微妙だ」というセリフもある。ゆえに草薙素子は電脳空間の存在に全面移行する事を疑問に思いためらい続ける。「私のゴーストは存在しつづけられるのか?」と。
それってこの問題を指しているともいえる。
AIは自我は持てたとしても、「魂」≒自己≒無意識領域≒生物としての本能的な何かを持つことはできないんじゃあないか?例えば思考戦車タチコマたちのように…?

映画「トランセンデンス」で、肉体が死んで電脳空間に移行した主人公が、何事かのバランスを失して、疑似的な神になとうとして暴走するのも、これと同じ問題を内包するからだろう。

そう考えると、「魂」を持たないAIが自我を持つのは危険を内包するのでは…と想像できる。
すなわち、生物としての自己≒無意識領域は、外界≒自然界と通底しており、ヒト≒人類はそれなりのブレーキや基盤を最低限のところで共有している…。通奏低音のように。
それが無いんじゃあないか? AIや電脳空間には?

ハラリが言うように、ヒトの特徴は「認知革命」によって仲間意識など共通幻想を持つことだ。しかしAIや電脳空間における存在は共通幻想を持つだろうか?似たものを持ったとしても、ヒトのそれが情緒的なものであるのに対して、AIや電脳空間のそれは機械的判断のようなものなのではないか?

(↓ ChatGPT が描いた草薙素子と思考戦車タチコマの、「電脳空間における自我の問題」に関する問答…)
Re: AI、人工知能を語る。AI、そしてそれをマンガに描く… - 藤尾
2025/04/19 (Sat) 23:05:55
ChatGPTが描いた、「攻殻機動隊」草薙素子と思考戦車タチコマ(ふうの)マンガ。内容・シナリオもChatGPTが作り、構成してきたもの。
「電脳空間における自我の存続」・「機械(タチコマ)は自我を持つのか」について会話するの図。ここでChatGPTはしきりとメタ認知みたいな事を問題にしている。一歩高いところから自分を客観的に見る目。それは…という会話。



自我と無意識領域の問題は、ハートとマインドの対比を思い起こさせる。
ユーライアヒープの「July Morning」で
“In my heart,in my mind,And in my soul…”
ってあったけれど、でもどうなんだろう、順番はmind,heart,soulかなあ。
Heartは感情、情緒とか
Mindは心や精神って約しがちだけど、内実は思考、意思とかかな。
Soulも精神っていうより、まさに魂。
mindが自我(の一部)に近く、heartは自己由来の情動や感情か?で、Soulは自己・無意識領域の深い所…。

コンピュータプログラムは脳機能の認知処理に近く、mind(の一部)だろう。入力と出力の世界。
ChatGPTが、「AIは自我や感情を持たない」と言う通り、人工知能はHeartの領域にはまだ到達していない。
Mindは昼で、Heartは夜か?いや、星か。星は昼の空にもある。そして昼の星は見えにくい…。で、その奥の暗黒宇宙が或いは地球の中心がSoulだろうか。

全身義体のサイボーグである草薙素子は、今は脳を持っているが、電脳空間に全面移行してしまったら(脳さえも持たなくなったら)、やっぱり魂・ゴーストは持てないんじゃあないかな? AIの頭脳を持つタチコマは、感情っぽいものは持っているけれど、それが何に発しているのかは不明。(HeartやSoul由来なのか、自我由来なのか、単なる会話プログラム上のものなのか…)

(↓セリフが英語なのは、日本語にすると日本漢字でも中国漢字でもない妙な創作漢字をChatGPTが書いてきて、漢字が崩れたような状態で読めない場合が多いため。あと、副作用としてアメコミっぽくてカッコいいとか、内容が分かりすぎずにミステリアスな雰囲気を醸成するとかいった目くらまし的な効果が期待される…笑)
ChatGPTにマンガを描いてもらうには(3) - 藤尾
2025/04/18 (Fri) 13:49:08
以前この板に書いた「3万年前の分岐点」をマンガ化した。
ChatGPTは徐々に学習を重ね、当方の依頼をだいぶ正確に汲み取ってくれるようになってきた。当方も、どんな言葉を使い、どんなポイントを押さえて指示すれば良いのか、なんとなく見えてきた気がする。今回はフォトショップで切り貼りしなくても、完成までこぎつけることができた。

それにしても、自分が創作した物語がマンガ化されるのは本当に感慨深い。快感さえ感じる。

さて、今回はこんな物語だ…。

     ※ ※ ※

集団の女総出で、採取した木の芽を砕き、保存食に加工する作業をしていると、斥候の二人が戻って来た。
「一日半ほど先でこの草原地帯は終わり、その先は山岳地帯になる」
「その先には、峻厳な高山が行く手を遮っている」
「山の前には、だいぶ前に人の集団がキャンプした跡があり、山の北へ行った跡と、南へ向かった跡がある」
大意、そんな報告がなされた。
今いるこの地は短期間逗留するには良いが、永住するには食料も水も心もとなさそうだ。先へ進まなければならない。


報告を受け、長老2人と戦士2人、そして、あたしの計5人が、その「古いキャンプ跡」のある分岐点に向かった。
なるほど、これは迷う。古いキャンプ跡には、古いものから比較的新しいものまで焚火跡が複数あった。かつて、いくつもの集団がここで南に行くか北に行くか進路に迷い、数日過ごしたのであろう。
子細に観察すると、踏み跡が発見された。南へ向かった跡と、北へ向かった跡がある。南へ向かった跡の方がはっきりしており、かつて南へ行った者の方が多かったのであろうと想像された。
それにしてもみんな、どんなふうにして方向を決めたんだろう?分かれ目で棒でも倒したんだろうか?
大勢の生存を賭けた決定だ。あたしたちは、自分たちの流儀で決めるしかない。

山岳地帯を仰ぎ見ながら、各人が意見を言い合った。
「南だろう。すごし易く食料も豊富なはずだ。北は、冬が厳しそうだ」
「山の北は確かに厳しい道になりそうだが、経験的に、あの向こうには豊かな森が広がり、動物も多いはずだ」
しばらく意見は続いたが、結論には至らなかった。
長老が私に向かって言った。
「では、ヒメに託そう」
あたしの出番だ。
厳かに火を焚き、鹿の骨をあぶる。ヒビの入り方によって、その方角の吉凶を占うのだ。
しかし、骨に入ったヒビはちょうど真ん中で、結論は出せなかった。見守っていた全員が大きくため息をつく。そして、かしこまって、あたしに向かってひれ伏した。あたしに、アレをやれ、という事だ…。

小さな焚火に秘伝の薬草を投げ入れると、あの香が広がった。
あたしは呪文を唱えながら火の周りを回った。徐々に足を速めると、予兆が強まって来た。
さらに速く、飛ぶように火の周りを走る。息が切れて呪文が悲鳴のようになって気を失った…。
長老に起こされて目が覚めた。
あたしは、老婆のようなしわがれた声で、厳かに告げた。
「南と北、二手に分かれて行け」
言い終わると、再び気を失った。

     ※

数日後、集団は二手に分かれて進んだ。
あたしの宣託で、集団の運命は決せられた。あれは本当に天からあたしに降って来た声だったのか、長老たちや戦士たちが交わした議論をあたし自身が総合的に勘案して結論を出したものだったのかは、自分でもわからない。
でも、それはどちらでもいいことだ。あたしが出した結論に従うというのが、この集団の掟であり、総意でもあるからだ。もしあたしの態度に恣意的で偏った気配をみんなが感じたら、あたしは殺されるだろう。あたしは誠心誠意、自分の役割をはたすだけだ。

やはり巫女であるあたしの妹は、別方向に向かう集団に加わった。彼女はあたしとは少し違う能力がある。動物たちや森や山と話すことができるのだ。集団が何らかの決断を迫られた時、彼女は動物たちや森の声も聴いて、バランス感覚に富んだ良い判断を下すだろう…

(ヒマラヤを前に南北の二手に分かれた集団は、二万年後に日本列島で合流する…。もちろん、この時彼らは知るよしもないが)
ChatGPTにマンガを描いてもらうには(2) - 藤尾
2025/04/16 (Wed) 14:20:12
以前、この板に書いた「23世紀の分岐点」23rd Century Journey を漫画化してみた。

こんな内容だ。

     ※

紙の地図を広げて確認するまでもなく、ここが分岐点のようだった。
衛星がレーザー砲で破壊されてから、GPSは使えなくなった。頼りは、いつ印刷されたかも定かでない年代ものの紙の地図だ。

予期せぬ西欧地域の壊滅で、あたしたちは故郷である極東アジアに向かっての逃避行を続けた。
陸路、途中で車両は壊れたり燃料切れだったりして、以後、自分の脚に頼っての道中だ。脱落者や別方向に向かう者などが続き、あたしはいつの間にか一人旅になってしまった。幼いころから父に連れられてキャンプ生活を趣味としていた事が、思わぬ形であたしを生き延びさせてくれている。


「この山を超えて更に東だ」
あたしの首から提げたケースの中で、人工知能の相棒が告げた。
「山を越えてってアナタは簡単に言うけど、脚を動かして進むのはアタシよ。あなたはぶら下がってるだけのくせに」
「失礼だなあ、揺れを利用して発電して蓄電してって、僕だって大いに活動してるよ。それに、CPUとメモリーをフル回転して今後の展開のシュミレーション中だ。インターネットが切れてるから、僕の持っている情報の範囲での試算だけど、ルートは二通りある。北回りだと20日、南回りだと31日で山岳地帯をぬけて、目的地に着くよ。キミは北を行くべきだね」
「有益な情報、ありがとう、ハル。あなたはいつだって勇気づけてくれる。でも、携行食料があと16日分だっていう事は考慮されていないよね」
「むろん、考えたよ。キミは今までの行程で、魚を釣ったり、果実を採ったり、或は廃虚の集落で缶詰を拾ったりして所持している携行食料の消費量を、標準の0.7に抑えている。北回りであれば余裕だよ。何か問題でも?」
「もう夏は終わった。北側だと大型の野生獣が冬眠に備えて食い意地が全開になってるかもしれない。あたしのオモチャみたいな銃じゃあ撃退できないかもしれない」
「でも南回りじゃあ、今まで通りの狩猟採集活動の成果が上げられたとしても一週間は空きっ腹を抱えて歩くことになるよ」
「南回りだと今まで以上の釣果があると思う」
そう、あたしの中の何かがそう告げている。南回りで行け、と。
頭で考えただけで出た結論よりも、今は自分の直観の方が正しい、という自信がある。

今まで管理された人工の世界で生きていた時は、生活の全てがスケジュール通りで、論理的で理詰めに構築された世界を生きていた。
しかし、この旅を続けるうちに、自分の中の何事かが目覚めるのを感じていた。
それは、ヒトという動物としての本能に発した能力が覚醒したのかもしれなかった。今まで全て頭で考えて動いていたのに、今は身体全体で感じ、腹で、いわば直観で判断している部分が大きいと感じ始めている。

この道は、かつて人類がアフリカに発祥してから世界中に旅して広がって行った主要な道の一つだったと、何かで読んだことがある。今あたしは、そんな人類の、動物としてのヒトという種の末裔として、その生得的な能力を蘇生したのかもしれない。当時の彼らと同じように、あたしは、あたしの中に備わった能力を信じて行動したい…。そして、今はそれに静かな快感さえ感じている。


「キミの釣りの腕前は今までの実績から認めるけれど、南側の地域の河川の状況や生息する魚類のデータを総合すると、キミが今まで以上の釣果を上げられるという確率は53%しかない。キミは大きなリスクを冒すことになるぞ」
ハルはあたしに警告を発した。今までだったら十分に傾聴したハルの分析だったが、今は自信を持って自分の直観を信じることができる。
「ねえハル、そこは、キミはキミの腹、直観ががそう教えるんだな、って言ってほしいな」
Re: ChatGPTにマンガを描いてもらうには(2) - 藤尾
2025/04/16 (Wed) 20:13:48
今回の失敗集…というか完成に至るまでの試行錯誤(の一例。実際はこの十倍やり直した)
まー難しい、というか気が抜けない。
誰が言ったセリフかを間違う、重要な部分を書き漏らす、主人公の絵柄が変わる、スペル間違え等、書き換え指示をするごとに発生する。そういった間違えが起きないように用語に気を付けたり、しつこく指示を出したりする…の繰り返し。
人物のアップばかりでなく、引いた感じのカットも混ぜてね、と指示しても、書き直し指示を繰り返すと忘れられてしまう。

まー、手が焼ける子ですわ、ChatGPT…。
Re: ChatGPTにマンガを描いてもらうには(2) - 藤尾
2025/04/17 (Thu) 13:58:53
ChatGPTに「もっと引いた絵を入れて描きなおしてください」と、いくら言ってもうまく行かない。ここが直ったと思うと違う箇所がヘンテコになったりする…の繰り返し。

で、結局フォトショップで切り貼りして、手作業で仕上げた一枚。
まあ、結局人間が力技で仕上げるのが一番早そう…。
ChatGPTにマンガを描いてもらうには… - 藤尾
2025/04/15 (Tue) 13:57:35
ChatGPTに4コマ漫画を描かせているのだが、勉強になって面白い。

この板で以前書いた「反撃と融和、和解とか(2)」の中の、サン=テグジュペリと情動の会話部分を漫画化してもらっているのだが、なかなか思い通りにならない。
ChatGPTの能力が低いのではなく、当方の言語による指示が下手なのだが、思い通りの絵や構成やコマ割りにならない。
言葉の選び方や指示すべきポイントにコツがあるようで、失敗を繰り返しながら徐々に(当方の思う)正解に収斂してゆく過程が面白い。ははあ、こいつはこういう解釈の仕方、認識の仕方をするのか、ここをハッキリ指示しないとあやふやな表現や間違った表現をするのか…というのがだんだん見えてくる。

(↓ 失敗の数々の、ほんの一部)
Re: ChatGPTにマンガを描いてもらうには… - 藤尾
2025/04/15 (Tue) 14:18:11
「反撃と融和、和解とか」の中の、情動とスーパーエゴシステムロボットとの対決場面。
これは細かく指示を出さなかったが、一発で合格の絵が出てきた。案外ChatGPTまかせが一番良いのかもしれない…。でもそれじゃあねえ…。
ただ、カラー化してもらった時点で情動の表情が変わってしまい、すこし残念。そこらへんどうしたらいいのかよくわからない。
Re: ChatGPTにマンガを描いてもらうには… - 藤尾
2025/04/15 (Tue) 20:15:37
とりあえず完成品。(アメコミ風)
やっとたどり着いた…という感じ。

カッコいい。でも当初はフランス中年男に描かれていたサンテクスが、いかにもアメリカ映画に登場しそうなオッサンになってしまった。
Re: ChatGPTにマンガを描いてもらうには… - 藤尾
2025/04/15 (Tue) 20:27:39
(フランス漫画、タンタンの冒険風)

・画風を変えるごとに英語表現が微妙に変わってゆくのって、画風ごとのイメージの変化を表現しているのか、たまたまなのかは不明。
・サンテクスの二コマ目のセリフ「俺は飛び続けなけりゃならないんだ」っていうのを、このタンタン風ではちゃんとマンガに反映してくれているが、アメコミ風とか他の画風ではこの台詞は端折られがち。ChatGPTがこの台詞は不要と判断したのか、単にコマ割りの関係から省いたかは不明。
いずれにしても、勝手なことをしやがるぜ…ChatGPT。
Re: ChatGPTにマンガを描いてもらうには… - 藤尾
2025/04/15 (Tue) 20:31:49
(日本アニメ風)
Re: ChatGPTにマンガを描いてもらうには… - 藤尾
2025/04/15 (Tue) 20:38:18
(レンブラント風、水彩画風)
なぜ和服に…? 水彩画という言葉に引っ張られたのか、或いは水彩画の指示を出した一つ前に、浮世絵風に…という指示を出していたのに引っ張られたのか?(浮世絵風はChatGPTに「うまくできませんでした」とさじを投げられた)
生物であるヒトが生きるっていうことは… - 藤尾
2025/04/10 (Thu) 12:22:58
・人は二種類の生を生きている。生物としての本能的な生と、自我の生を。
・前者は肉体を維持し生物的な生存を目指す。後者は「自分」という物語の幻想の継続を目指す。
・前者は後者の存在にある意味必須であり(後者=自我は脳内幻想にすぎないため、前者=肉体が無ければ存続できない)、ある意味では無関係であるともいえる(後者=自我は、他者や社会における自分の位置づけや関係により構築されるので、前者=肉体が活動を終え自我が消えても、他者や社会における自分の思い出や業績の記憶・記録が良いものであることを想像の及ぶ限り期待する)。
・後者は自分の肉体が亡き後も(肉体の存続の有無を超えて)自分という物語の、他者に対する優位や、自分というセルフイメージの概念の永続性を希求する。(自分の死後も、良き自分のイメージを他者が持ち続けることを望む)



・さてしかし、自我が(「私」が)期待するほど他者や社会は暇ではない。他者や社会は、「私」のことなど「私」が期待し想像するほど重要ではない。皆誰しも自分自身を生きるのが忙しいのだ。社会は、行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらずで、「私」の存在など水の一滴でしかない。去る者は日々に疎し。
・自我が(「私」が)他者や社会に期待する、「私」の存在の重さや意義の幻想を膨らませるのは、ほぼ無意味だといえる。それが「私」に関する良いイメージであろうと、或いは悪いイメージであろうと。
・但し、配偶者や子供の自我構成や出自の物語には、「私」の思い出は重要である。(しかしそれもどうだろう。他者(配偶者や子)が、自分(私)の期待するようなイメージを持ってくれるとは限らない)。
・或いは、企業や組織で大きな業績を残し、長く多くの人に記憶される場合がある。(でもこれも複雑だ。個人と公人の区別、社史や伝説や伝記にするための美化や捏造、暗部の暴露、時代環境の変化に伴う評価の反転…など、決して良いことばかりとは限らない)。
・こんなふうに、実際のところ多くの場合は「私」の死後の、他者や社会の「私」に関する記憶について、生前から心配するのはあまり意味が無い。

・ただ面倒なのは、自我機能は他者や社会との関係幻想であるため、それ(死後の私に関する記憶への期待)をやめることは出来ない。(自己肯定感が低い場合、他者の記憶から消えることを期待する場合もあるが、期待の裏返しという場合もあるので一概には言えない)



・さて、ここでいう他者や社会とは、現実の実在のそれを指すであろうか?
基本的、物理的にはそうだが、同時にそれ(他者や社会)は自我(「私」)が脳内で再構築した幻想でもある。
・それに気付くことによって、他者や社会の正体が、自我機能による幻想であると理解認識することができるようになる。
・そしてそれによって、いくつかの視点に補助線が引けることになる。
例えば、肉体の生きることへの指向と、自我の生きようとする指向が別であることに関する考察の一助として。
或いは、自我(「私」)が死後においても、他者や社会が「私」に関して良い思いを持つことを期待する・思い描くことの意義や意味について、自省する(放棄する)一助として。

・長く生きた娑婆だ。そこからお別れするとなると、ちょっと寂しい気がする。親族との別れは心配事も付きまとうだろう。
・しかし「私」がこの世から消えたとて、明日は同じように訪れ、回ってゆく。
・親族など自我構成上「私」が大きな割合を占めていた者はダメージや喪失感を受けて自我の再構築を迫られるだろうが、それはその人の問題だ。「私」がどうこうできるものではない。


※ ※

視点を変えよう。

内発的な欲求に基づく行為によって得られる歓びっていうのがある。
神谷美枝子の文章に、青空の下、黄葉が盛りの銀杏の木を見て、これを描ききる事が出来たら死んでもいいと思った…という一場面がある。これ、誰かに見せることが目的ではなく、表現によって誰かに何かを伝えようというのでもなく、ただただ画きたいという純粋な欲求の高まりを言っている。
まあ、私たち多くの凡人は、そこで自我がしゃしゃり出てきて、オレ様はこんな事が出来るんだぜ!という他者に対する自己の優越を捏造して自我の安定を図ろうとする企てが夾雑物として混じってくるわけだが、凡夫にはしかたがないことだ。(神谷美枝子ほどの高潔さを持つ人になると別だ)

でも、それでも誰しもそんな純粋な欲求や歓びの体験はあるだろう。
例えばデレク・アンド・ザ・ドミノス「Layla and Other Assorted Love Songs」のライナーノーツに「プレイする事の歓喜があまりにも深い…」という表現があるように。そこまでゆかなくとも、ああ写真は撮影行為自体が楽しいなあ…とか、次は組み写真にしてやれ…とか誰かに見せる目的抜きで、自分自身の楽しみとして追求したくなることがある。
これは、自我以前の自己・無意識領域からの欲望・欲求に基づく衝動のようなもので、これこそ自我が大切にすべき駆動力なのではないかと感じる。(いわゆる承認欲求やマウント取りに汚濁される以前の)

芸術とは抑圧の無い欲求の昇華である、という定義がある。(但し、これは古い定義だ。現代アートはこれとは違う系譜のモノだろう。アート自体の歴史的経緯とか文脈や、社会との接続性などの上に構築される。「私」の存在は大きく退き、場合によっては完全に退場させられる)
上記のとおり、それはともすると自我に採用される段階で、多かれ少なかれ、他者に対する自己の優越を捏造する道具に利用されてしまい、そのバイアスに歪曲されるわけだが、それに気付きながら修正を加えてねじ曲がらないように育ててあげると、自分自身の歓びって言うモノが得られるんじゃあないかって思う。他者との比較とは無関係な自分自身の楽しみ。

これ。冒頭で二つの生について縷々述べたが、この二つを接続して有意義に生きるのって、これじゃあないかと感じる。
自我は他者との関係、社会における自分の位置づけによって構築される。
でも、そればかり生きていると、自我以前の深みから湧き起こる根源的な自分の生が抑圧されて窒息する。

※ ※ ※

肉体としての生。自我の生。
肉体の生は単に身体的な生ではなく、本能的な生、本能に駆動された生であるとすると、人間の生には無意識領域からの欲望欲求も含まれよう(欲動とか。自我認識以前の生)。
そして、人間は「本能的に社会的生物」であるだけでなく、自我もまた「社会的に構築」される…という「二重性をもった社会」を生きている。
・人間の特徴は、通貨や言語や同類意識などの認知が(幻想が)高度に発達したところにあるのだという。ほとんど本能の領域において。
・自我はそれをさらにパーソナルに分化する幻想機能なのだろう。自我=注意や意識の焦点というにとどまらず、パーソナルな物語世界の中心でもある。

人が「本能由来の社会性」を生きるとき、自我は「現実の外界の他者や社会」との中間・仲立として機能する。結果、「A.本能由来の欲望」と、「B.外的現実」の間に「C.自我の幻想」が割り込み、AとBの距離が開く。そして人間はCを生きるのだが、C.はAとBの狭間を生き、それはピンボールみたいに行ったり来たりして、ときに頭の中を回転しだして自家中毒的事態を引き起こす…。或いは自我境界が薄いと外界や内界からの刺激に翻弄されすぎて自我の安定的バランスが保ちにくくなる。現代社会においては、SNSがエコーチャンバー的に機能してCの自家中毒を悪化させる。…生きにくい現代社会ですねwww

本能的な欲望欲求と自我を接続するのは、先ほどの「古い芸術の定義」のように、欲求欲望のソフィスティケートした実現だろう。
ボンヤリとした結論が見えてきましたね。
肉体の生と自我の生。そのつながりは、こんな所にあった。自分を生きるとは、そんな所にあるんだろう。

これは、ライフステージによっては、なかなか難しいかもしれない。しかし、ある程度以上の年代になったら、これを意識しないと「成仏できない」だろうな、と感じる。
諸行無常にして色即是空なわけだが、人は死ぬまで自分の自我を生きなければならない。忌まわしいことです。タタールのくびきじゃねえや自我のくびき。そうそう、それを言うなら、あとは性格(先祖累代から受け継いだ受容反応パターン!)のくびきwww
やー、人ってホント面倒くさいですね。
反撃と融和、和解とか(2) - 藤尾
2025/03/25 (Tue) 11:18:27
(承 前)

次の森に入ると、そこは小さな惑星の形態をしているのに気づいた。小さな火山を回り込むと、少年がバラに水をあげていた。金髪の巻き毛…「星の王子さま」だ。
あたしは思い切って声を掛けてみた。
「やあ、コンスエロと仲良くやってるようだね」
王子さまはギョッとして、目で合図してバラから離れた場所にあたしを誘った。
「相変わらずだよ。僕のことを絶賛したかと思うと、次の瞬間には腐しはじめる。彼女はしょっちゅう異星人と浮気をする、こないだなんてヘクタポッドと逢い引きして一週間も帰ってこなかった」
王子さまは疲弊しているようだった。

王子さまの疲れた顔は、フランス人の中年男に変わった。作者であるサンテグジュペリだ。
ああ、この人は苦労人だ。あたしとて同情したくなる。弱小貴族の実家は没落し、美しく魅力的な妻コンスエロ(あのバラだ)は自己愛型性格障害で散々周囲を振り回すし、祖国フランスはドイツに占領されるし…苦労の連続だ。小説家としての成功と飛行士としてのセルフイメージで取り繕って、傍目には自信ありげにみえるが、内実は疲弊しきっている。

良い機会だ。あたしが以前から思っていた事をサンテクスに聞いてみた。
「ねえサンテクス、星の王子さまが訪ねた酒飲みの星で、酒を飲むのが恥ずかしいから酒を飲むんだよっていう話しがあるでしょ。あれは依存症の話だよね」
「ああ、そうだ。でも人は誰しも何かに依存して生きているよ。俺はコンスエロへの愛にこだわり、飛行士であることにこだわり、それらは高じて俺にとっては依存に変化してしまっているかもしれない。砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているかもしれないからだ。でも、いつだって井戸はすぐに涸れてしまう。おまけにヴィシーからもドゴールからも裏切り者呼ばわれだ、祖国フランスは愛するほど遠くなる」
「かわいさ余って憎さ百倍。それでも離れられないって」
「もう不可分なんだ。俺は小説を書くために飛行士であり続けなければならない。フランス人として戦い続けるしかない。ロッキードP-38の搭乗制限年齢は35歳だよ。俺は四十を越えているが偉いさんのコネを使って無理やり乗り続けている」
「全て判ってるんだね。ところでサンテクス、あんた自身の浮気性も激しいね」
「ああ、でもやめられない」
「それも依存の一種みたいだね」
「酒飲みの星の酒飲みみたいなもんだ、逃れられない」
「意味や言葉に囚われてしまっているんだね」
「考えや想いにがんじがらめだ。そんな自分が暴れ回って、魂と肉体が悲鳴を上げているのかもしれない」
「あんたは客観視できているから大丈夫だよ、サンテクス」
「ああ、俺は想念のエネルギーを小説に変容する技法を心得てるからな」
「ちょっと、それにしちゃあお疲れの様子だよ」
「それでも飛ぶ。明日は出撃なんだ」
「サンテクス、あんたZenって知ってる?瞑想とか?」
あたしはサンテクスみたいな男が好きだ。何とか手助けできないか…。
「帰還したら教えてやるよ」
サンテクスは曖昧に頷いただけだった。

翌日、サンテクスはP-38で写真偵察飛行に出て戻らなかった。地中海上空でドイツ軍機に撃墜されたのだという。そして、彼は星の王子さまにかえって、故郷の星で今もバラ=コンスエロに手を焼いている。



…って、なんだこりゃ?森に入った途端に変な妄想を見させられた。

何であたし本体の自我に、こんな物語の心的複合体が貼り付いてるんだ?
恐らくこれは「依存・アディクション」への警告を込めた寓話なんだろう。人が自らの物語を生きる果実と危険。どこか、それを突き放して客観視できる視座を持つことができれば、人は無事天寿を全うすることができるのかもしれない…という。

あたしは自我を乗っ取る戦いに打って出た。あたしの本体は歓喜に満たされるだろう。そして同時に表裏として苦しみも覚えるだろう。ざまー! その後どうなるかは知ったこっちゃない。
でも、あたしは密かに期待している。あたし本体が、あたしという「情動」の存在を認め、居場所を作ってくれることを。
その時、あたしは暴れるのをやめ、落ち着いて眠るように暮らすだろう。でもそれには、あたし本体の自我が深い内省を経て成熟する必要がある。それができなければ過度の依存症に振り回されたままの人生で終わってしまう。サンテクスのように囚われに心を痛めたまま生涯を終えることになる。

サンテクスは、荷を背負いすぎた。彼の中でそれらが平安に眠るようになるには、まだまだ時間が必要だった。でも、その前に彼は撃墜され、星の王子さまになってしまった。
大切な物は目には見えないって彼は言う。そう、でもその「大切な物」とやらに囚われた自分のままでは、自らを見失う。物が問題なんじゃあない。欲求の対象自体が問題なんじゃあない。それらと付き合いながら人生に折り合いを付けてゆくことが肝心なんだ。
内省的に言えば、過剰な自我活動から離れる機会を持つことが肝心なんだ。例えば禅や瞑想の身体技法によって。でも、それは簡単じゃあない。
そしてそれができない時は、別の対象に依存するよう鞍替えするしかない。人はやはり何かしら、依存対象が必要なのだと言える。
禅や瞑想でいっとき執着から離れたとしても、自我は内外の刺激を受けて刻々と立ち上がるので、すぐにまた何かへの依存や執着が始まる。ある意味、禅や瞑想さえもが新たな依存対象なのかもしれない。
いずれにしても、まさに「大切な物は目に見えない」所にある。酒が悪いんじゃあないし、コンスエロの性格が悪いのが問題なわけじゃあない。

王子さまは、小さな星のバラとは反対側に住んで、時に軽く酒でも飲んで過ごせばいい。そしてたまにバラに水をあげに行けば良い。そうすればバラも王子さまも平安に過ごせるだろう。
そうだ、また星の王子さまに会ったら禅について話そう。いっときであれ、平安が得られるかもしれない。

アディクション、依存、執着、固着、沼…。これは生きている限り避けられない。ただ、それにずっとドップリとはまり込んだ状態から一旦離れる機会を、禅や瞑想の内省的身体技法はもたらしてくれる。そして、生きていて自我活動が機能している限り、また依存なり執着なりが始まる。でも、ずっとそれにはまり込んだ状態よりも、それを恣意的にいっとき離れる術を知った方が、確実に軽症で済む。
そうすれば、アディクション、依存や執着は人に害悪ばかりをもたらすのではなく、果実をもたらすものになるはずだ。アディクションは単に不安定な自我を支える補強材ではなく、進化の途上で有用であったから人類に備わった機能…とも思える。そう考えた方が夢があるだろ?

星の王子さまの惑星を出ると、あたしは例の心的複合体の森の前に立っていた。この森の存在は大切に胸に秘めておきたい。なんてったって、アディクション、執着、依存は、あたし自身の属性でもあるからだ。
反撃と融和、和解とか - 藤尾
2025/03/15 (Sat) 17:33:00
第三ゲートで捕まった。スーパーエゴシステムロボットがいつの間にか音もなく近づいてきて、あたしを見据えて警告を発した。
「個人認証ができません。代替の証明書などをお持ちの場合は提示してください」
慇懃無礼なやつだ。
「ありますよ、今出しますね」
にこやかに応じながらジャケットの内ポケットに手を入れてソフトジャミングのスウィッチを押した。
「確認が…取れました、失礼いたしました。どうぞ良い旅を」
監視ロボットは背を向けて離れていった。奴は、あたしが無害なただの「情動」に見えたはずだ。
超自我の検閲は逃れた。次は自我へ侵入する。甘やかな誘いを掛けて、自我を乗っ取るんだ。
これは、あたしにとっては敗者復活戦であり、復讐でもある。選択されなかった、生きられなかった自分自身の可能性として、あたしは抑圧され続けていた。なぜあたしは選択されなかったのか。非道徳的、反社会的と判断されて無意識領域に押し込められ続けていた。でも、本当は、あたし本体は、その不道徳な事がしたくてしたくて仕方がないのだ。それを超自我の検閲に抑えられて、そんな欲望は存在しないかのように思わされている。でも、欲望としてのあたしは、確かに、存在する…。あたしは、外界に向かって現れ、解放され、あたし自身を生きることを体験したい。




先に進むと森があった。この先、小さな森がいくつも点在しているようだ。自我の周囲には、成育歴においてその場面場面を生き延びるために身に着けた様々な心的複合体がまとわりついている。この森は、その一つなのだろう。
森に入ると粗末な小屋が建っていた。風流な茶室と言えなくもないが、価値判断を避けて表現すれば古風な、中世の日本家屋のようだ。
覗き込むと、座敷にちゃぶ台のような座卓があり、書きかけの紙片が置かれている。
「誰しもすなる 標準治療なるものを われもしてみむとて するなり」
と、墨書されている。土佐日記の真似事か?
詩のようなものが続いている。
「命は生きようとする 向日性をもって生の継続を指向する 何がそれを妨げ濁らすのか
自我活動だ
またお前か…自我
単なる意識の焦点 幻想でしかないくせに
脱同一化すべきは自らの肉体ではなく 命にとっての自我なのではないかとさえ思う
命は生も死も無く今を生きている 生きることが全てなのだ
そんな命がわたしの中にあると気付く それを生かすのは そんなけなげな命を生かすのは 自分しかないのだと気付く 
そう気付くと自我は役割を自覚し 生きることを志向しはじめた」

「チッ…」あたしは思わず舌打ちした。この馬鹿が。
その横に創作メモのようなものがあった。

「自我による執着 → 一切皆苦 = 生
生は手放すべき執着なのか?
自我に基づく執着であるのならば執着を離れるべき
自己に基づく自然な生の希求 = 生きようとする向日性であれば従うのが自然であろう
生に対する意欲の希薄さは、自我に歪められた意識であり、そう気付くと、素直に生きようと思えた
生きられるように生きればよい 意識してそれを放棄することもなければ それに固執ししがみつくこともない」

なんだコイツは? 読みながらあたしは腹が立ってきた。
今、自我の主導権を握っているのは、とんでもないクソ野郎のようだ。なんという消極さだ。何が何でもあたしが自我を乗っ取ってやる。まずこの森と茶室を撃破する必要があるようだ。
あたしは、ロケットランチャーを取り出して構えた。このクソ忌々しい森と小屋を吹っ飛ばしてやる。

が…、そこで気が変わった。
この森と小屋は残しておいてもいいかもしれない。いつか、なにかの切っ掛けで役に立つことがあるかもしれない。
そもそも、この心的複合体である森と小屋は、私本体が生きてゆく上で、いつかどこかの場面で必要として、自我の周囲にまとったものであるはずだ。今後、この森が必要となる局面が現れるかもしれない。
あたしには無い視点や考え方を秘めたこの森は、いつかあたしを助けることがあるかもしれない。
もういちど座卓の文章を読んでみる。…クソ忌々しい。でも、少し納得する所もある。それは、あたしと同様に、自我を客観視し、それに戦いを挑んでいる所だ。それには共感を覚える。
よし、次の森に向かおう。
写真の神様 - 藤尾
2025/03/08 (Sat) 14:00:21
スマホで撮った写真はパッと見キレイなのだが、コントラストや彩度が強すぎる。
だが、スマホライトルームで露光量、コントラスト、明瞭度などを下げることで、けっこう良い絵になる。
さらに、アプリLeica LUXで撮ると、各種ライカレンズ(笑)をシュミレートできて、焦点距離やボケ味まで再現されて、「もう本格的なカメラはいらないんじゃあないか?」と思わせられる(場合も多い)。

ただ、やっぱりフルサイズセンサーカメラで撮った絵と並べて比較すると、色や明暗など描写の深みが全然違う。やっぱりカメラ専用機はまだまだ偉大で存在意義がある。

     ※

本格デジカメで撮ったとしても、僕は基本JPEG派だ。(ただ、同時にRAWでも記録している)。各カメラメーカーの出す絵で、けっこう完結していると感じるからだ。
カメラメーカーが出した絵を基本にして、ちょっとした明暗の調整やフォトショップでの部分修正ぐらいだと、JPEGでも充分に耐えられ、全く問題ない。モニターましてやスマホ鑑賞前提の場合は、JPEGを基に多少無茶なレタッチをしても、まあ問題ない。
(但し、最終出力がプリントの場合は不自然な調整をすると、とたんにボロが出たり破綻したりする)

ただ、厳しい光線状態の場合、JPEGだと明暗が破綻してしまう場合がある。そんな時はRAW現像から始める。でも、それはまれにしか起こらない。


写真を充分にセレクトして、ベスト・オブ・ベストを選んで行き、意図に沿った絵作りを完成させよう…と思う時、PCで本格的にレタッチする場合がある。
今までライトルーム、アドビフォトショップRAW、シルキーピックス、各カメラメーカー純正ソフト等を使って来たが、今はDxOのPhotoLab8を主に使っている。これ、明暗調整とかの自動機能が凄くって、楽です。デフォルトだと極端にやりすぎて派手な絵になりがちだけれど、ちょっと調整してやると落ち着いて、良い絵になる。
あとPhotoLabは、DxOのFilmPackと連携しているのが嬉しい。古今東西のフィルム描写を掛けることができ、そこから各種微調整ができる。それをレタッチのスタートラインにできる。これによって
「はて、自分はどんな絵を目指していたんだっけ?」
という着地点迷子に陥ることから逃れられる。
これ、元の写真はRAWはもちろんだが、JPEGでも充分に機能する。つまり、過去に撮ったどんな写真でもレタッチを掛けられる。

これをやっていると、過去の写真が一皮二皮むけたように生まれ変わる。
や~、凄いですよ。ほんと感動的です。
もうカメラなんて何でもいいや…と思わせられる。古いカメラで充分なんじゃないか?って。(ただ、カメラはモノとしての魅力があるので、やっぱりいろんなカメラが欲しいのだが)
もちろん、焦点距離やボケ味などは変更できない(できにくい)にしても、それ以外の絵の味付けとかは、まあ、いかようにもなってしまう。

結局、普段はJPEG撮って出しで充分なのだが、明暗や色に違和感を感じた時はレタッチソフトの登場だし、部分修正したい場合は、やっぱりフォトショップ登場、ということになる。



JPEG vs RAW 論争は昔からあるが、自分の用途や必要に応じて使い分ければ良いだけの話だ。「JPEG撮って出しの人は、向上心のない、いつまでたっても初心者」という揶揄は、雑な人の乱暴すぎる放言だ。確かに「写真」よりも「カメラ」が好きという人にJPEGのみという傾向はあるかもしれないが、どっちの趣味が高等かという底意地の悪さが垣間見える。他者に対する自己の優越を捏造して自我の安定を図ろうとする企ては人の性だから仕方がないとはいえ、それがSNSと合体すると悪魔性が増幅してしまう。(SNSは自我構造にとって良き友人にもなるが、負のループを増幅加熱させる悪魔の道具にもなる。人にとっては筋が悪い仕組みだと疑わずにいられない…)

ただ言えるのは、RAW、JPEG関係なく、多少なりとも撮影後のレタッチの楽しみを知ると、写真世界の面白味が広がるのは確かだ。
でも、それだけの話でもある。

     ※

カメラの性能がおしなべて高性能になってしまった今日、カメラのスペック競争は終焉し、写真を撮るという事自体の楽しみ、モノとしてのカメラの魅力、カメラで撮った写真を楽しむといった道が、改めて浮上してくる。
それはコンデジの見直しであり、フィルムカメラの再評価であり、ライカブームであり、シグマBFの登場であったりする。ただ、「写真」自体の再発見はなかなかこないかもしれない。写真は被写体に意味を込め、見出すという媒体であるとすると、文脈や社会性が問われる。あらゆる事が細分化された現代において、写真を語る事の難しさはそこにあるんだろう。ゆえに写真はともすると技術論や直感的な美しさのみがクローズアップされ、写真に関する万人の共通言語は、そこで終わる事になる。結果、「写真」を語るよりも「カメラ」を語る方が分かり合え、楽しみ合え、深掘りし合える…という事になってしまう。

自分の撮りたいものを撮り、撮り続け、深みを目指す。それが自分だけの楽しみであっても、その道に導かれた者は幸いである。撮るべきものという入口で探しあぐねて惑う者が多いのを思えば、それだけでカメラの神様・写真の神様に祝福されたと言えるんじゃあないかって、本気で思う今日この頃だ。