過剰な何か

86070
CP+(カメラショー)と、シグマBF - 藤尾
2025/03/03 (Mon) 12:30:53
(承前)

前回、少々極端なことを言ってしまった感がある。
ここで、大急ぎで言い足しておかなければならない。

     ※

CP+というカメラ関連メーカーの祭典がパシフィコ横浜で開催されたが、これに行ってきた。毎年行っていたのだが、コロナ禍で足が遠のいていた。ましてや病気になり薬の副作用の恐怖もあって、横浜は絶望的な遠さになってしまっていた。
今回、電車の乗り継ぎのたびに休憩しトイレに行き、ゆっくり歩きと気を使いながら、やっとの思いで訪れた。
行っておかなければ、と思ったのだ。(来月から恐らく薬や治療が変わるので、今後、現在の体調がベストだと思われるからだ。行くとすれば今しかない)


「CP+」が昔「カメラショー」と称していた頃、僕はカメラメーカー側の人間で、社内での事前研修、ブースの事前準備から始まり、遠方から参加の工場のメンバーとのすり合わせ、公表可能な情報の確認、カウンターに立って来場者との対話など、面白い思い出ばかりだ。僕はカメラ小売店での販売応援、対カメラ店営業、工場の製品検査部門、対協力工場即応部隊、事務部門と幅広く体験を積んでいたので、何を聞かれても何でも答えられ、楽しくて仕方がないほどだった。(その会社を退職してブラブラしている時に会社から「例によってカメショー出展するから手伝いに来てよ」と誘いを受けたのは本当に嬉しかった)

そんな思い出のカメラショー = CP+だ。
そんな思い出抜きにしても、カメラ好きとしては出かけずにはいられないカメラのお祭りのようなものだ。カメラを祝福する、カメラを寿ぐという意味で行きたくてしかたがなかったのだ。
その場に身を置き、雰囲気を楽しむ。それだけで自然と高揚する。「カメラ好きの自分」というセルフイメージを再確認・補填・補完するという意味でも祭りに参加する意味は大きい。

今年の目玉は、何といってもシグマ社のBFというカメラだった。
カメラがデジタル化して以降、本格カメラは定向進化的に、どこのメーカーも同じ方向に向かって進歩し突き進んでいった。高画素センサー、AFの高性能化、そして動画機能の本格化等だ。当初はカメラマニアも写真好きも、高性能・高機能化を諸手を挙げて歓迎した。
でもそんな「高性能カメラ」は、一般的な「写真」を撮りたいユーザーの欲しいカメラから徐々に乖離してゆき、昨今はついに「コレジャナイ感」が充満するに至った。メーカーもそんなユーザーの鬱憤を察知して、フィルムカメラ時代の名機の外観を模したデジカメも登場するようになったが、何か決定打とは違う感がぬぐえなかった。単なる懐古趣味ではないか? 側(がわ)を変えただけの小手先の変化球でしかないのではないか? 新しさが無い。

そこに登場したのがBFだった。
とにかく機能を削ぎ落し、それを受けてデザインも極限的に単純化された。その統合を具体化した潔さ。BFはカメラ好きにとどまらず普段カメラとは遠い所にいる人にも刺さり、SNSのタイムラインはBFで埋め尽くされた感さえあった。
(BFという命名は、岡倉天心の「茶の本 The Book of Tea」に由来し、「美しい愚かさBeautiful Foolishness」の略なのだという。思わず振るえる。鳥肌が立った。

このBFを触るためにシグマブースに40分ほど並んだ。(健康に自信が無いので、ぶっ倒れないよう様々気を紛らわせて踏ん張った)良かった。単純なデザインからは想像できない意外なほどの持ちやすさ。直感的に操作できるUI。実用的なAF。
不要な物は潮が引くように退き、エッセンスが残った。
これだ、これですよ欲しかったカメラって!と単純に思わせられた。
(でも僕はシグマレンズの硬い描写が好きではないので買わない…たぶん。と必死で思うw)

     ※

ここで僕は二つの事に触れた。
躁的防衛としてのCP+行きと、カメラ熱について、だ。

どちらも僕の人生を豊かに彩る、切り離せないものだ。でも…厳しく煎じ詰めてゆけば幻想にすぎない。自分=自我を構成する重要なアイテムではある。自分という統一性・継続性を持った物語を構成する重要要素だ。でも、厳しく自問すると…。

その上で、改めて思う。
二周、三周回った上で、空疎や幻想の意味を知った上で、あえて言う。カメラショー = CP+の思い出は決して捨てられない大切なものだ。カメラ趣味・写真趣味は絶対に捨てられない。
人生において最重要ではないが、絶対にディレートできるものではない。

あ~スッキリしたwwwwww
〇ぬ前につくる、やりたい事リスト?←ププっ - 藤尾
2025/02/26 (Wed) 11:07:41
〇ぬ前に、思い残す事がないよう、やりたい事リストを作って実行してゆく…という話はよく聞く。
例えば、「富士山の見えるキャンプ場でソロキャンプをする」等だ。
これ、どれぐらい本当なのだろうか?

やりたいのに出来ずにいることをやる…っていうのは、どういう事だろう。
自身の欠落を埋める。
自己納得のための何かを実現する。
自分或いはセルフイメージを守るための、欠けたピースを補充する。
自分と言う物語を完璧にするために、必要な事項をやり遂げておく。
まあ、これらがサッと思いつくが、何か浅い気がしてならない。これらは浅薄な瑕疵や欠損の補填というだけではないだろうか?
「やりたいと思っていてできずにいる事をやる…?」そんなこと?ほんと?
これらは、心からの、腹の底からの要請として「やっておくべき事」なのだとは、あまり思えない。

     ※

自分を構成する様々な要素のなかで、自分自身としての納得が得られていない案件に光を当てて、それに向き合い育てる…という事こそが、やるべき事だろう。
忸怩たる思いを抱いている案件は無意識領域の奥で熾火のように息づいている…はずだ。

例えばこれは自分にとっては、家族との時間だろう。僕は典型的な古いタイプの企業戦士で、身も心も時間も仕事場に捧げて生きてきてしまった。家事には必要最小限の関与はしてきたつもりだったが、それは自分中心の身勝手な思い込みでしかなかった。っていうか、心の奥では気付いていた。全然足りていない。完全に家を、家庭をないがしろにしてきた事を。
もう、これだけですよ。
他の事なんか、些細な、ほぼどうでもいい事でしかない。

新しいカメラが欲しい。もっとスゲえレンズが欲しい。高性能写真画質の大型プリンターが欲しい。画集が欲しい。写真集が欲しい。アレが欲しい。あそこへ行きたい。すごい胸熱体験ができたあそこにまた行きたい…
って、でもこれらって、よくよく考えてゆくと、実は大した事じゃあない。必ずしも自身を構成する必要事項ではない。
そりゃあ、それらができたら、嬉しかったり楽しかったりそれなりの充足感は得られるだろう。
でも、それらの欲望は「底なしの沼」でしかない事に気付くだろう。どこまで行っても満足は無い。

底なし「沼」とはよく言ったもんだ。

なぜ行っても行っても底が無いのか? 追及し続けても最終的な満足や充足感が得られないのか?得たあとで、すぐに次を思ってしまうのか?
それらは、躁的防衛でしかないからだ。空虚な強迫観念、強迫的欲求でしかないからだ。
半歩高い位置から、必要な事・やっておきたい事リストを俯瞰してみれば、それらの優先順位は…かなり低い。っていうか、厳しく言えば、優先順位のリストに乗る資格さえないものだったりする。

そりゃあ、それらをやっている時は面白い。有意義な時間を過ごした気にもなる。
でも、本当の本当に必要な事なのだろうか?っていうと、実はそうでもない事に、あっさり気付く。だって、心の奥底では気付いているから。自分自身を構成する諸要因の中では、大した事ではないって。

・最低限の衣食住が充足されると、自我は余裕を持つ(それまでは衣食住に関する安定を求めて自我は忙しい)。時間的・気分的に余裕を得た自我は、自らの社会的位置づけの安定を求めて活動する。(自我は他者との関係・社会における自らの位置づけによって形づけられるから)
それらは、自分の外側の他者・社会と関係する部分といえる。
・そしてそれと同時に、内発的欲求としての興味関心の充足→趣味世界が立ち上がる。
これは各人各様だろう。自我を支えるアイテムとして重要な役割も果たすだろう。

人は生きている限り、自身の自我を生きる。自分の幻想世界を生きると換言できる。その中身は上記の二者だ。
・前者は、他者に対する自己の優越を捏造して自我の安定を図ろうと企てる。
・後者は、躁的防衛として様々な雑事に自我を駆り立て、空虚な自我からの逃走を図る。

これだけだ…身も蓋もなく言ってしまえば。
これだけなのだ、人間の自我活動って。人の日常って。
アホらし。
あとは本能に基づく欲動があるぐらい。人はこれによって駆動されるが、上記の二者が背乗りして、あたかもこの二者が重要事項であるという幻想の燃料となる。


・前者の、自分と他者の関係(自分の持つ他者像、他者観)、(自分が属すると幻想している)社会における自己の位置づけ。これによって自我はかたちづくられる…でも、他者も社会も自分の頭の中の幻想でしかない。
・後者は自ら求め飛び込んでゆく幻想にすぎない。

でも、それらが意味はないとか無価値だとかバカバカしいとは、言わない。
それらは人に渇望と苦をもたらすと同時に、人の生を彩り豊かにしてくれる。
普段はそれを生きることでOKだろう。それにうつつをぬかして生きていゆくのが通常運行だろう。
そう、通常運行。

でも非常時においては?
例えば本当に人生の終末が見えたら。

様々な人生の寄り道は良い思い出になり、自分自身の物語を豊かに彩るエピソードになるだろう。
でもそれは、ご飯の副菜、いや、ふりかけ程度の物でしかないだろう。
ユングの言う円満な人格の完成、自己実現では、それまで光を当てられず未成熟なまま放置されていた箇所に目を向け、育てることの重要性が説かれる。
最後は、これなんだろうと感じている。


(画像↓ 本文とは無関係だが、大昔「コミPo!」というソフトで作ったマンガ。本項の内容と同じようなことは、この板で10年前にも20年前にも書いている。でも、その時々見えていた世界や深度は、当時のライフステージに沿ったものだったろう。今が一番見えているとは言わない。今現在の状況なりの、というだけだ。)
傷つけあうことに慣れてしまったこの世界 そこで僕らは生まれ育った - 藤尾
2025/02/13 (Thu) 14:56:52
・「わたしは苦(にが)い明日を知ってる
いつもと同じ、ひとり芝居…!」(崩壊の前日)
カルメン・マキが、がなり立てる。

ああ、いつものことだ。人は皆、どこかが少しづつおかしいんだ。あいつは、どうかしている。そしてあたしも、どこかがおかしいんだ。いつものことではあるんだけれど。
喫茶店の、二階の窓辺から街をながめていると、ビルの隙間の空に白い入道雲が湧き上がる。雲は空を覆いつくす。
それはあたしの幻想だ。街も、あの人も、そして明日も、あたしの幻想に色付けされている。だからあたしは知っている。明日も、いつもと同じひとり芝居にすぎないかもしれないって。

     ※

・「午後はコーヒーを淹れて 数枚の手紙を書いた
昨日のことや今日のことや 彼女にこう書いてやった
こんにちは、キミは美しい…」(12階建てのバス)
小室等が苦し気に声を絞り出す。

オレが求めているのは彼女の幻想だと、彼女は言う。だからリアルなわたしは、あなたにしてあげられる事はない…と言う。わたしは、あなたの幻想に合わせて演じるのに疲れた、だから、さよなら…と。
オレは彼女に何を求め、何を見ているのかわからなくなった。彼女だけじゃあない。オレのまわりの全ての連中。日々、様々な出会いがあり、そして別れがあるけれど、そいつらは皆、オレの幻想だっていうのか?一年十二カ月、時は来て去ってゆくけれど、オレも、その幻想たちもただただ時に流されてゆく幻想にすぎないのか?

     ※

・”In this world if you read the papers You know everybody’s fighting with each other
You got no one you can count on not even your own brother
So if someone comes along he gonna give you some love and afection
I’d say get it while you can”(Get It While You Can)
ジャニス・ジョプリンがしゃがれた声で歌う。どこか投げやりで諦念が見え隠れする。

「愛は生きているうちに」だって?ばっかじゃないの?そもそも愛って何だと思ってるんだ?
そりゃあ、この世は敵意と悪意に満ちている。優しくされたり好意を持たれたりしたら、嬉しいもんだ。つい寄り添いたくなる。でも、そいつが見ているあたしは、そいつの頭の中のあたしであって、現実のあたしじゃあないはずだ。その溝はだんだん大きくなって苦しくなる、気づいた方が。
でも、それはいつもの事だ。そして明日はここにいるとは限らない。明日の心配はよそう。いま、優しく寄り添ってくれる人がいたら、それは大切にしよう。
傷つけあう事に慣れてしまったこの世界だから。

     ※

・「いつもいつも 僕がきみを見ててあげるから 安心しておやすみ
傷つけあうことに慣れてしまったこの世界 そこで僕らは 生まれ育った」(無題)
小室等が静かに、少し突き放して歌う。

それが独りよがりであるかもしれないことを、僕は知っている。
そしてきみも知っているだろう。
でも僕はきみを見ているから、安心しておやすみ。何も求めない。ただ願うだけだ。きみが安心していることができるように。
Re: 傷つけあうことに慣れてしまったこの世界 そこで僕らは生まれ育った - 藤尾
2025/02/19 (Wed) 12:45:39
「遠い 遠い昔 白々しい嘘をついたことがある
愛する人に 遠い昔」(苦行)
小室等が密やかに歌う。

さて、ここまで書くと、どうしてもクラプトンの「Layla」を思い出す。
前半の嵐のようなギター・ボーカルパート。それに続く豊かで穏やかなピアノパート。
前半の、自分をどこかへ持っていかれそうな暴風雨にさらされる自我。後半の、何かを決意した静かな高揚感に満たされた自我。

     ※

これらを敷衍して思うのは、
・PSポジションからDポジションへの移行。
・部分対象関係から全体対象関係への成長。
・恋から愛への成熟。
などです。

Paranoid-Schizoid 妄想-分裂ポジションから抑うつポジションへの移行。嵐のような高揚感・得意と、失意・悪意の上昇下降の連続。天国と地獄を行ったり来たりをジェットコースターのように繰り返す。で、良い時も悪い時もどこか恐怖や切迫感を伴う。
部分対象関係ですね。自分-他者関係で、自分→他者という一方通行の関係で、自分の気に入る、自分に都合の良い他者像しか目に入らない。

Depressive 抑うつポジション、穏やかな安定。極端な煌めきはないかもしれないが、救いようのないどん底や絶望もない。絶対的な善もなければ絶対悪もない。良い事もあれば悪い事もある。全体対象関係ですね。相手の良い面も悪い面も、相手の実像を見て関係を築く。

     ※

「激しさが色褪せても やさしさだけ抱きしめて…」
吉田拓郎「おきざりにした悲しみは」ですね。
恋から愛への変遷です。

激しさは潮が引くように後退し、穏やかな凪が訪れる。


自我は内外の刺激を受けてその都度起動する。刻々と次々と「素の自分」が立ち現れる。そのたびにPSポジション・部分対象関係的な心が起動する。
でも、歳や経験をふまえて、フと気付いてDポジション・全体対象関係へ移行することができる。亀の甲より年の功…Years bring wisdom.でしょうか。
そんなふうに、何事に関しても自然と移行できるようになればな、と。
フィルムシュミレーション - 藤尾
2025/02/03 (Mon) 12:08:22
写真のRAW現像をしていて、感動というか感激して泣いてしまった。写真撮影やプリントを長年やっているが初めてだ。

時たまフィルムカメラを出して撮影することにしている。デジタルカメラばかりで撮っていると、見失うものがある…と10年ほど前に気づいてからだ。ましてや、スマホカメラのコンピュテーショナルフォトグラフィーに目が慣れてしまうと、「写真」を観る目がどんどんおかしくなってゆく。たまにそれを矯正するために、フィルム写真を撮ることにしている。

     ※

フィルム写真とデジタルの写真の違いは様々言われているし、それは各人各様、何を求めているか、どんな幻想を抱いているか…によって答えは違ってくるだろう。色の偏り、解像感の緩さ、柔らかな描写など、ローファイ具合を求めている人が多いように感じる。

しかし僕は、諧調表現の豊かさにこそフィルム写真の良さ、特徴があるのだと感じている。実際、現在はNikon F3に各種ニッコールレンズ付けて撮影しているが、(当時のニッコールレンズ特有の味といわれる)しっかりカッチリと硬めの描写をする(当時のCanonのレンズの少し柔らかめで雰囲気のある描写とは対照的だ)。この組み合わせで撮った写真は、デジカメそこのけの高精細でしっかりとした描写をする。違うのは、中間域~明部の諧調描写の豊かさだ。デジカメのそれが平板な描写に見えるほどだ。
昨今は特徴的な描写を売り物にしたフィルムも多く出ているが、フィルムカメラの描写とは何なのかを知りたいのであれば、やはり「ちゃんとした」フィルムを使うのが王道だろう。

フィルム現像と同時にデジタルデータ化してもらうわけだが、これがけっこう曲者だ。なかなか良質なデータにしてくれるDPE店がみつからない。
ここらあたり、昔の同時プリントの質がDPE屋さんによってバラバラだったのと同じと感じる。一枚10円以下の安価な同時プリントの画質があまりにも酷かったのも、フィルム文化の寿命を縮め、急速にデジタルに移行してしまった一因であると思う。当時の同時プリントの、色味、露出、ピント、トリミングなどの出鱈目さ、無秩序さは、今思い出しても呪わしい。あれじゃあ客離れするのも当然だ。

さて、そんな具合にフィルム現像時に受け取るデジタルデータも酷い事が多いのだが、フィルム時代との最大の違いは、同時プリントと違い、デジタルデータはPCで自分で修正できるという事だ。
フォトショップで露光量、WB、色温度、色被りなどを少しいじるだけで別物のように良くなる。
さらに必要に応じて周辺減光を掛けたり、部分的にハイレゾで味付けするなどして好みの絵に仕上げる事ができる。

     ※

さて、そんなふうにフィルム写真を味わってからデジカメ写真を観返すと、その平板ぶりに顎が落ちそうになる。或いは、スマホカメラの写真を観ると、そのオーバーデコレーション具合に、スマホを壁に投げつけたくなる。

さて、デジカメ写真を何とかフィルム写真に近づけられないか?
これが最大の課題だ。
RAW現像していて最も厄介なのは、画像をいじりまわしているうちに、自分で何がしたかったのか分からなくなってきてしまう…ということだ。
で、そんな時、「こんなのはいかがですか?」「こんな表現の仕方もありませぜ!」と見本を示してくれるのが、DxOのFilm Packだ。古今東西の各種フィルムをシュミレートしてくれる。(この手のソフトに対する評価は様々あることは承知している。意味がない、自分でやれ、想像力が無いのか、などと酷評される事も多い。でも僕は大好きだ。方向性、指針を示してくれる。特に「タイムマシン」は面白い。写真フィルムの歴史を、時代ごとの名作写真や時事的な出来事と重ね合わせながら辿ってゆく。これを観ているだけでも面白い)
味わいの合いそうなフィルムシュミレーションを見つけたら、それで終わるのでなく、そこから画像の各種微調整ができるのが味噌だ。これをいじり倒さずにこの手のソフトを評価することはできないはずだ。
以前僕はエイリアンスキンのExposureという同じようなソフトを長く使っていたが、DxOのFilmPackを知ってからはこればかり使っている。Exposureは効果がキツめだが、FilmPackはなかなか繊細だ。

      ※

そんなわけで、どうにも平板に見えてしまうデジカメ画像を、もう少し何とかできないか…とFilmPackでいじっていて、たまたま出てきた絵に思わず泣いてしまった。これだあ、想像以上だああ…。これが欲しかったんだよう!

カメラはLeica D-LUX8だ。マイクロフォーサーズセンサー機という事もあり、フルサイズセンサー機と比較すると、JPEGでは明暗、色味などの深みが浅い。RAWでいろいろ触ってみたが、なかなか納得できない。いじっているうちに、自分で方向を見失ってしまった。
で、そんな時はDoX FilmPackの登場だ。
古今東西の様々なフィルムの描写を掛けてみる。さらに、効果の濃淡やグラフィック効果を掛けたりしてみる…。
で、たまたま行き着いた設定がコレだ。

・フィルム…Kodak Elite Color 200 (効果100%)
・グラフィック効果…テクスチャ・コンクリート1(効果40%)
・レンズ効果…クリエイティブビネット(強度-15)

テクスチャ・コンクリート1というのは今まで使った事がなかった。ウンウン唸って苦し紛れに掛けてみたら、現れた画像を観て、涙が噴き出して口が四角く歪んで大泣きしてしまった。
これだあ…。
今までだって、自分の写真に自分で感激してEPSON PX-5Vで何十枚も設定を変えてプリントしてしまうような事はあった。でも、こういう感激は初めてだ。

フィルムで撮ったような写真になった…わけではない。でも素のデジカメ写真の悪い意味での特徴をデトックスして、なおかつ味わいを求めたい…。それがゴールだったわけだ。

     ※

フィルム写真をたまに撮ってみる効用は、こんなところにある。デジタルカメラやスマホカメラで撮った写真に疑問符を投げかけて、自分自身の写真に対する目の軌道修正をしてくれる。
僕にとってのフルムカメラ、フィルム写真とは、そんな立ち位置にある。
Re: フィルムシュミレーション - 藤尾
2025/02/03 (Mon) 16:12:15
・今回はたまたまKodak Elite Color 200 が良い具合だったわけだが、どのフィルムシュミレーションが合うかは、写真によって違うし、もってっゆきたい方向によっても異なる。
ただ、平均的にはKodak Portra 160 NC がしっくり来る場合が多い。

・フィルム現像時の「デジタルデータの画質」が酷い件。
明るくすっ飛んでいる、黄色く色被りしている、褪せたような退色したような色味、などといった場合が多い。
これって、もしかして一般的にフィルム写真に期待されていると思われる「フィルムらしいローファイな画質」に寄せて調整されているのではないかと疑っている。
もしそうであるとすれば、業界の自〇行為だ。昔の同時プリントの無秩序な低画質は、装置や薬液のメンテ不足だったり、関係者の写真に対する愛情不足だったり、10円プリントという低価格路線による安かろう悪かろうでオッケーだろという業者・消費者双方の安直な了解が原因であった。結果、デジカメの登場とともに予想以上の速さでフィルム写真は駆逐されてしまった。半ば自業自得でもあったのだ。

今また、せっかくフィルムカメラが盛り上がりかけているのに、DPE屋がこんな出鱈目なデジタルデータで良しとしているのであれば、顧客は「なーんだ、フィルムってこの程度ね」という事で早晩離れてゆくだろう。
フォトショップ等を使えば極めて良い状態に持って行けるが、逆にその手間をかけなければガッカリな品質でしかない。(どれほどの人がPCを持ち、フォトショップ等の画像ソフトを持っているか?)

写真↓ Nikon F3 + NIKKOR 35mm f2.8 + Kodak Color Plus 200 → デジタルデータ → すっ飛んだような酷い状態で納品されたデジタルデータを、当方がフォトショップで露光量・色温度・色被り等を調整。その上でとどめにWBをグレー箇所で調整。屋根瓦、板壁、石仏、落ち葉などの諧調表現の豊かさ!デジタルエッジによる描写とは異なるレンズの力による高精細な描写。これがフィルム写真の実力です。…っていうか、但しデジタルデータ化された時点で限りなくデジカメ写真に意味内容としては近くなった…という事実もあるのだがwww)
ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 19:32:42
「撮影」することの歓喜があまりにも深い。
やはり、ストリート スナップ シューティングが一番好きだ。
目についた被写体に近づき、瞬時におおまかなフレーミングを想像する。レンズの画角を選ぶ。背景処理を計算して絞りを決める。シャッター速度に破綻が無いか頭の片隅で確認する。雲の流れと光線の動きを確認する。明暗を読んで露出補正を掛ける。目を広角にして人通りを確かめタイミングを計る。ファインダーを覗いて(或いは背面モニターを見て)最終的なフレーミングと水平を確保する。(或いは、ノーファインダーでカメラの向きを調整する)
そして、シャッターを切る!
これを瞬時に行う。
撮ったら、さっさと歩き去って次の被写体に向かう。
この繰り返し。
集中力と凝縮感がすごい。疲れを感じない。(後からドッと疲れる…)

近所の日常のスナップでも、石仏を探しての撮影でも、それは同じ事なのだが、やはり都会は刺激に満ちている。歩いても歩いても次々と撮るべきものが現れる。


街中を撮り歩いていると、ついつい二輪車を撮りたくなる。
造形的に美しく、複雑な陰影に物語がある。躍動感を秘めた乗り物が少し傾いで、しばし休憩するように佇んでいる姿は、背景の静的な建物との対比において抜群の存在感を放つ。
まあ、ともかくフォトジェニックなわけだ。

カメラはLeica D-LUX8 。ズームレンズの付いた小さなカメラは、ストリートスナップシューティングに最適だと改めて感じる。
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 19:45:00
人の動きはやはり魅力的だ。
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 19:50:02
冬は斜光線が美しい影を描く。
素敵な造形の建物が並んでいる。
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 19:55:38
またバイクだ…つい撮ってしまう
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 20:00:50
カッコいい。
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:07:29
プロの仕事だ…美しい
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:21:54
二輪は二輪でも自転車
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:30:18
青クマ。なにげないディスプレイだが、確実に目を引く
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:33:45
カッコいいゴミ箱
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:39:35
青空→ビル→映り込み、という必勝パターン
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:44:29
見上げればギョウザ
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:52:59
実際撮ったのは人物の写真が多いのだが、今どきのご時世では、あまりUPできない…
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 21:58:20
凄げえなあ…
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 22:17:30
江戸期の六地蔵
・ビル陰に小さく立てり古き神
・古き神ビル陰なれど今も立ち末裔らに告ぐ込めし想いを
Re: ストリートスナップシューティング(街なかファッション撮影じゃないよ念のため) - 藤尾
2025/01/30 (Thu) 22:23:17
ビルが神社に食い込んでいるのか、神社がビルに食い込んでいるのか…
世に棲む日々 - 藤尾
2025/01/26 (Sun) 17:45:17
恥の多い人生を過ごしてきました。
古い、恥ずかしエピソードがフッと浮かび上がって来て意識を占領し、厄介なことに、その時の感情まで再現されて、当時を追体験することになる。

しかし、幸いにも僕は心理学的な視点をもって内省する訓練を多少受け、上記のような心理状態を半歩離れて俯瞰的に観察し、それを分析的態度で理解・受容し、自身の物語の再構築をする事も(多少)できる…。エピソードの反芻咀嚼のループから逃れ、エピソードに引っ付いてきた感情に支配される事を中断する事が(多少)できる…。

ただ厄介なのは、自我は内外の刺激を受けてその都度立ち上がる。何かの拍子に過去のエピソードを思い出したり、日常を生きていて出くわす様々な出来事によって情動が喚起される。その度に自我(≒意識の焦点)は起動し自分はそこに持って行かれる。常に新しい自分が立ち上がるが、
それは自分独自の受容・反応パターンの枠内なので、良くも悪くも、いつもの自分が出現する。
祖先累代から受け継ぐ性格傾向をベースにして、成育歴において強化された或いは開発された心的複合体が、自分の正体だ。
その、むき出しの自分が、都度都度出現する!

しかしありがたいことに超自我(或いは前頭葉)の学習機能、又は成育歴の様々な場面を生き抜くために自我の周囲にまとった心的複合体の活躍によって、ヒトは自らを半歩高い箇所から俯瞰して軌道修正をかけることができる。

     ※

いっとき、大学の文系学部不要論という言説が吹き荒れたことがある。狂気の沙汰だ。
或いは、低ランク大学など行くだけ無駄という議論が今でも盛んだ。視野狭窄な暴論だ。

僕が学んだのは、自分が通っていた当時と今では大学名が変わってしまったほどの浮草のような低ランク大学の文系学部だったが、行って良かったと腹の底から思っている。
(ここには様々な視点からの議論があるだろう。就労機会の幅、知識や技術の習得…場合によっては確かに専門学校の方が良い選択であることもあるだろう。しかしあまり議論や視点の風呂敷を広げすぎると論点がちらかり散漫になるので、今回はあえてそれらには触れずにおく)

大学へ行って良かった事は、問題に立ち向かうに当たって、どんな文献に当たればよいか、という基礎を学んだという事だ。バカは馬鹿なりに得るものは大きかった。
心理系の本は巷に満ち溢れている。怪しげな自称セラピストもあちこちにいる。しかしまあ、それらの多くは、体系的に学んだ事がある者の目からすれば、砂糖菓子程度のモノでしかない。
もちろん、それらの雑多な本やセラピストが唱えるのと同じ「文化圏」に自身が所属している場合、(反りが合って)理解納得がゆき、何らかの効果はあるのだろう。でも多くは表面的に良かったと感じるだけで終わるだけであったり、下手をすると商売勧誘の入口だったりする。

     ※

最近、印象的な場面に出会う度に、短歌や俳句が頭に浮かぶ。しかし、先達たちの句や歌と見比べると、自分の作は浅薄で味わいや深みがなく、自分の納得の範囲を這っている駄作にすぎないと思わないわけにいかない。

自分は長く写真を撮っているが、SNSにあげても評価はせいぜい数十しか付かない。
石仏関連の写真は「いいね」が付いても十数個~三十前後でしかない。ロードバイク(自転車)に乗っていた頃の、自転車+風景といった写真には八十前後は付いたもんだ。愛好者の絶対数が違うのだろう。

同様に、体系的に心理学を学んだ事のある者、心理学的に自分自身をみる世界観に棲んでいる者は、思った以上に少ないと痛感する。それを忘れて他者と対峙すると、独りよがりに終わることになる。
アカデミックな心理学的な世界観は、一般には通用しないものなのだ。
僕は長く企業の総務・人事畑に勤務した関係で、従業員の様々な個人的問題に首を突っ込む事が多かったが、妙な通俗心理学を信じていたり、怪しいカウンセラーのもとに通っている人間は想像以上に多く、驚かされた。
まあ、それはそれで良いとしても、そこで驚きとともに感じ入ったのは、ヒトは様々な文化圏を生きている…という事だ。例えばカリスマ的ミュージシャンの文化圏…のように、自分の趣味嗜好の文化圏にヒトは棲んでおり、その外にいる者が、その違う文化圏のヒトに何かアプローチをするのは、実に難しい。
(僕とて、僕が棲んでいるのは古いタイプの心理学文化圏であり、新しく現代的なそれを生きている人から見れば、僕などは黒魔術の世界の住人に見えるだろう。また、自分は石仏愛好の世界を生きているが、そうでない人からすれば理解不能の世界であろう。或いは、石仏に興味のある人でも、信心からのアプローチの人、民俗学的なアプローチの人、美術的アプローチの人、歴史的関心からのアプローチの人など様々だ。ちなみに僕は「石仏」といっても、それは主に仏教心理的な興味関心からの接近と、風景写真的な興味からのアプローチだ…。よって、石仏の種類分類といった興味関心の人とは視点は変わらざるを得ない)

事程左様に、人は様々な、各人各様の世界を生きている。

     ※

恥の多い人生を生きてきました。
でもそんな記憶も、視点の持ちようでいかようにも改変可能だ。
或いは改変などしなくても、それはそれで良し。その時はそう生きるしかなかったのだ、と思えるようになった。
善悪良否の判断抜きで、自分の中にそれらの居場所・安住の地を持つ事ができるようになった、という事だろう。

このところ、「天の園」の中に登場する歌がしきりと思い出されてならない。

・夕焼けにそらのひろさを知りしわれは燃えおちしあとの暗さも知れり

しみじみと胸に沁みてシンとした気持ちになる。
「天の園」の光景 - 藤尾
2025/01/01 (Wed) 10:53:56
「雲」

なにかいいたかった
なにかをいったら
どうにかなりそうだった
なんでもいいからいおうとした

雲をみつめ
雲のゆったりとしたすがたが
あんまりうらやましかったのだ

こころよ どうしてあんなに
ならないのかと…

(打木村治「天の園」第四部 より)

     ※

じーくむんとは短い鉛筆を煙草のように指に挟んで斜に構えた姿で言う。
「雲は無意識領域に抑圧された願望の象徴として連想されたものを投影する」
ぐすたふも丸い眼鏡を光らせて少し上目遣いで言った。
「無意識領域である自己の底は閉じておらず、集団的無意識に通底していて、雲は生物としての原風景を思い起こさせる」
げんぱちは泣きそうになるのを堪えながらボソボソ言った。
「オレは死んだかあちゃんを思い出して泣きそうになった。でもその後、雲みてえにゆったりとした心になるべえ、と思った」
ふゆこが言う。
「悲しい時に雲を見るんだけんど、よけい悲しくなっちまうんです。でもその後、悲しいけんどたのしい…みたいな気がおきる」
たもつが続ける。
「雲は夢の宝庫です。それは子供だけでなくきっと大人にとってもそうだべ」

このしばらく後、たもつとふゆこは東松山の岩殿山のてっぺん、物見山で秩父山脈に掛かる雲を眺めます。ふゆこはたもつにがくんと体を倒しほっぺたをたもつの肩にのっけます。たもつは手をふゆこの肩にまわしてふゆこの頭がすべりおちないよううに支えます。二人とも小学四年生です。
「ふたりで一生あそぶべえ」
たもつよりも少し大人びたふゆこは一瞬驚いたようにためらいますが
二人は小指を出してげんまんをします。

この様子を雲に乗って空から眺めていたじーくむんととぐすたふは、乗っている雲を少し紫色に染めて、二人を祝福しました。二人は自分たちの心が紫にそまったみたいな気がして、ゆめと平和としあわせに満たされました。

このあと、二人は徐々に成長しそれぞれの境遇を歩みます。でも、出会いには必ず別れがあり、別れがあるから美しいともいえる。つらい人生が詩を生み、人を成長させます。

    ※

この物語から110年後のこんにち、東松山の岩殿山には埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館)が建ち、展望塔が屹立しています。「天の園」では、保とふゆ子が並んで山頂から関東平野を見下ろし、「汽車のけむりがけぶっているのは機関庫のある大宮町にちがいない」と景色の雄大さを楽しんでいます。
Re: 「天の園」の光景 - 藤尾
2025/01/06 (Mon) 21:00:07
(打木村治「天の園」第五部 より)

諏訪神社境内の「ほらあな大杉」には、文字通り大穴が開いているが、ある夏子供たちはそこにミミズクの子が三羽いるのを発見した。

夏祭りの素人演芸で「源頼朝石橋山の戦い」がかかると、そのほら穴を使った演出をするため、ミミズク一家は邪魔になり殺されるか捕らえられてしまうだろう…。

保とふゆ子たちは、ミミズクの子らを守るために、村祭りの芝居で、今年は「ほら穴大杉」を使わない別の芝居にしてもらうよう画策する決意をする。
しかし、子供らがそんな事を言い出せば仲間から「なまいき野郎!」と笑われたりしないか?そもそも大人たちがそんな事を聞いてくれるだろうか…?

保はミミズクを助けようなどと考えた事を後悔しはじめた。夕焼けに染まる川や山のうるわしい光景を眺めながら、保は母のかつらがつくった歌を思い出していた。夕焼けはやがて色あせて空と山脈はねずみ色にかわった。

・夕焼けにそらのひろさを知りしわれは燃えおちしあとの暗さも知れり


(写真 ↓ 桶川の古い道に佇む石仏。きょうは、これでおしまい…といっているかのようだ)
Re: 「天の園」の光景 - 藤尾
2025/01/13 (Mon) 21:00:03
打木村治「天の園・第六部」を読んで。

同じ時間と空間を伴に過ごし た人たちだが、時が来てみんな散りぢりになり、それぞれの境遇を生きてゆくことになる。
それが、ちょっと俯瞰的に見た人が生きてゆく光景なのだろう。

     ※

喜美子姉さんは横浜の女学校を中退してから家で畑や養蚕をしていたが、遠くへ嫁に行ってしまった。
久仁子姉さんは高等科(おおよそ現在の中学に相当)を卒業する。県知事賞をもらうほど成績優良で、女子師範学校へ進学する希望を持っていたが、製糸工場に全寮制の女工として働きに出る。
経済的に無理なのだ。
保が小学校卒業と同時に川越中学(現在の川越高校だが、当時は五年制でざっくり現在の中高一貫校)を受験するために、それだけで経済的に手一杯だ。それに田舎だけに、どうしても女子教育は軽視されがちだし、時代感覚としてもそれで仕方がないですまされてしまった。
保の同級生にしても、小学校卒業後に高等科まで進む者は限られている。多くは家業を手伝うことになる。

ふゆ子と保の別れは、ある意味凄絶であった。「一生ふたりであそぶべえ」とげんまんしたふゆ子と保だが、保が川越に行ってしまえば別々の世界を生きる事を意味する。
「たもちゃんは高等科なんかへ行く人じゃねえもん、…わかれたっていい!中学へ行きなよ!」
と、保の背を押したふゆ子だが、ふゆ子はカゼだといって卒業式に現れず、その後二人は会う事はなかった。
ふゆ子の家は長屋門を構えるほどの大農家で、彼女は保と同様に毎年優等賞をとるほど出来る子だ。しかし、ふゆ子が高等科へ進んだ後どうなるかは触れられていない。もしかしたら保も、あえてずっと知らないままなのかもしれない。


みな、ちりぢりになって、それぞれの境遇を生きてゆくのだ。


唐子の自然環境は常に彼らの成長と伴にあり、生涯それを思い返すことだろう。
人は結局独りで生きてゆく。いっとき集いあい伴に生きたとしても、いつかちりぢりに別れてしまう。
様々な、誰かとのふれあいを胸に秘めながら、孤寒の旅を行くのだ。
それが人を育てる。
しかし、結局はどこまで行っても人は独りなのだ。
ふゆ子は、心の底からそれを学んだだろう。
久仁子は貧乏ゆえの境遇を受け入れ、行く先に立ち向かう向日性を発揮する。それは自分の問題であり生きてゆくとは自分ひとりの問題なのだと腹をくくったであろう。
保は周囲の仲間や姉たちや大人たちの生きる姿をみて、自分の世界を生きてゆくことを自覚したであろう。
そして世界は広く、これからそれを少しづつ知る事になる。
埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館) - 藤尾
2024/04/05 (Fri) 20:29:40
徴兵されて陸軍工兵二等兵となった。貨物船に乗せられ、海を南へ向かう途上で行く先を教えられた。フィリピンだという。これは、バナナやヤシの実が食い放題だな…と思ったが、とんでもない話だった。

陣地構築や橋を掛けたりして数か月すると、米軍が上陸してきた。艦砲射撃やら敵機の爆撃、機銃掃射に追われて、とにかくジャングルの奥へ逃げる。携行した食料はあっという間に尽きた。あとは現地調達だ、と言えば聞こえは良いが略奪だ。しかし、集落を見つけても住民は逃げ散っており、穀物類が多少あるぐらいで、多くの場合何も残っていなかった。残されていた水牛を、角を木に結わえ付け、立ったままの水牛の首をノコギリで切る。ブワッと流れる血をかぶりつくようにすする。塩分がうまかった。

水牛もなかなか見つからなくなると、あとは木の根やトカゲや虫を煮て食う。しかし、煙を上げると途端に敵の攻撃を受ける。どこからか砲弾が飛んでくる。敵機モスキートが機銃掃射を執拗に繰り返す。その度に地面に伏せる。機銃弾が木や葉を跳ね飛ばしながら通りすぎてゆく。隣に伏せていた者が血を噴き出して動かなくなる。揺り起こすと、背中に当たった銃弾の跡は小さいが、貫通して胸に抜けた銃創は大きく口を開けている。
うわっと思う暇もなく敵戦車のエンジン音が迫って来る。戦車は車載機銃を連射し、木を押し倒しながら近づいてくる。銃弾が耳をかすめる。とにかくジャングルの奥へ逃げるしかない。敵の方向へ無暗に小銃を数発打つのがやっとで、あとはとにかく走るだけだ。

米兵たちは遠足のように談笑し、ガヤガヤと大声でしゃべりながら徐々に近づいてくる。こっちは草陰に身を潜めているしかない…。米軍は戦車・飛行機・機関銃だ。こっちは元亀天正の頃の火縄銃とかわらないような装備の落ち武者状態、かなうわけがない。
部隊はジャングルの中で孤立し、次々と餓死・病死で倒れる者を残して、ひたすら逃げ続ける。(比島戦線全体では日本兵の3/4が死んだが、多くは餓死・病死だ)
ある日、米軍の告知により戦争は終わったのだと知った。

     ※

なんという体験…!
これは、私の父の実体験だ。これが1世代前、ついこの間、日本人が体験した世界だとは…!
この後、父は米軍の捕虜として1年数か月間過ごすことになる。
(捕虜生活の詳細については、本項の最後に添付しておく)

埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館)というのが、東松山にある。
そこに、父の捕虜時代の写真を寄贈した。
事の発端は、旧友のK君が、海軍飛行兵に志願したご尊父の予科練時代の制服などをピースミュージアムに寄贈する…という事に始まる。その際、僕も同行させてもらい、「そういえば自分の父親の捕虜時代の写真も寄贈しようか」と発展したという次第だ。

ピースミュージアムでは、この春、「寄贈資料展」として、この一年間に寄贈された物を集めて展示している。
さっそく、K君と伴に訪れてみた。
展示室に入ると、いきなりK君が寄贈したご尊父の予科練の制服とノボリが目に飛び込んできた。海軍旗を模した赤い旭日模様の描かれたノボリが、くすんだ色の多い展示の中で燦然と輝いている。隣には、七つの金ボタンが輝く、海軍特有の着丈の短い濃紺の制服が並んでいる。まるで今回の展示の目玉、アイコンのような存在感を放っている。

僕の寄贈した父の捕虜時代の写真は、「終戦を迎えて」というコーナー冒頭に展示されていた。
米軍から支給されたユーティリティーシャツを着て、ズボンや袖に「PW」とペンキで書かれた服を着ている男たち。餓死寸前で敗戦を迎えた彼らは、米軍の配給食で健康を取り戻しているようだ。かつての中隊本部は捕虜自治会として機能していたが、米軍との窓口役をしている彼らは、復員を前にして米軍の好意で写真をプレゼントされたらしい。

展示では、父の戦時中や捕虜時代を短く的確に要約した解説が添付され、たいへんに丁重・丁寧な扱いで、大いに感激させられた。
寄贈してよかった。
手元に置いておけば、いつか散逸してしまっただろう。ピースミュージアムは県の施設であり、基本的に半永久的に保存してくれるとの事だ。
こんな事ができるのは、僕らの世代が最後かもしれない。(この一年間での寄贈者は18名だったそうだ…少ない。そういえば、この施設とも関係の深い「桶川飛行学校平和記念館」も、寄贈を求めているがその少なさに困難を抱えているという)

ピースミュージアムの常設展示の内容も、興味深い物だった。戦中、戦後の様々な歴史的事物をコンパクトながら時系列に的確にまとめられている。風船爆弾や陶器製手りゅう弾から米軍の焼夷弾と、幅広く兵器に関係するものだけでなく、当時の国民の暮らしぶりや防空壕が実体験できるのは貴重だ。
さらに国内外の新聞報道の様子も展示するなど、全方位的な目配りがされている。戦後の墨塗の教科書の実物は初めて見た。戦争体験者の体験談ビデオなど、とても一日では見きれない…。

ともあれ、そんな「平和資料館」に、父の捕虜時代の写真が収蔵された。(K君がご尊父の軍服・のぼり等を寄贈する…というのが全ての始まりだ。感謝する)大いに意義深い事が出来たと満足している。本当によかった。
そして今の暮しが、そんな戦争の経験を経て構築されたものである事を、地続きのものとして感じることができる気がした。

人間はあまりにも忘れっぽい。「実物」に触れて思い返す・歴史を知る機会がどうしても必要だ。
埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館)の存在意義は大きいと、心底から思った。




以下は、寄贈に当たってのピースミュージアムとのメールのやりとりの内容だ。


     ※ ※ ※


前略
寄贈の件でご連絡させていただきます。

当方、先日(2023年5月17日)、出征のノボリ、七つボタンは桜に錨の制服等を寄贈させていただいたK君と同席していた者です。
貴館を拝見させていただき、たいへんに意義深い展示の数々を目の当りにして、ふと私の父親の写真を思い出しました。

・父は、第二次世界大戦でフィリピンに赴きましたが、そこで終戦。米軍の捕虜になり、その「捕虜収容所」での写真があります。これを寄贈させていただければと考えています(別添、当該写真の画像データ2枚)

     ※

・私の父は、大正11年8月1日、埼玉県行田市旭町に生れました。
・行田は古くから忍城の城下町、足袋縫製の町として栄えましたが、生家は江戸期から足袋工場を営んでおりました。父は次男のため東京の機械部品製造工場に丁稚奉公に出されました。ただ、そのおかげで腕の良い旋盤工となりました。
・群馬県の中島飛行機(三菱と並ぶ、当時の日本の有力な飛行機製造会社です)の協力工場が熊谷・行田に多数でき、実家に戻って来てそういった工場で飛行機の脚柱などを工作して、普通の勤め人の数倍の給料を稼いでいたそうです。弟や妹を映画や食事にに連れて行ったり小遣いを渡したりして、大層羽振りが良かったそうです。

     ※

・昭和19年3月16日に出征。陸軍工兵二等兵として、貨物船に乗ってフィリピンに連れてゆかれました。戦争も末期のためか、日本全国からの出身者を寄せ集めて構成された混成部隊みたいなもので、分隊長が九州出身者で、九州弁が何を言っているかさっぱり分からず、まごまごしていて随分と殴られたそうです。
・戦地では当初、陣地構築や橋を何本か掛けるなどした程度で、米軍来襲後は、ひたすらジャングルの中を逃げ回っていたそうです。米軍の戦車に追われてバリバリ機関銃で撃たれ、敵機モスキートの機銃掃射を受けて、すぐ隣に身を伏せた者が機銃弾に貫かれて胸から血を吹き出させたりとかする中、とにかく逃げる毎日。
・食料の補給など無く、あとは現地調達でやりくりするしかなく、当初は水牛をつかまえて水牛が立っているまま角を木にくくり付けて、ノコギリで(工兵ですから、まさに商売道具で)水牛の首をギコギコ切り落とす。ぶわーっと出る血を兵隊みんなが食らいついてすする。それらも採りつくして食料も尽きると、根っこでも虫でも何でも煮て食べる毎日で、周囲は戦死ではなく病死、餓死ばかり。(鉄砲は、敵の声のする方へ、闇雲に数発撃っただけ。こっちは隠れながら逃げるだけですが、米軍はとにかく皆で大声でワイワイとしゃべりながらゾロゾロやって来る)

     ※

・終戦はビラで知り、近くにいた米軍に投降したそうです。
・それから捕虜生活が始まり、復員したのが昭和21年秋ごろ(10月だったか?)だそうですので、1年数か月間の捕虜生活だったわけです。
・餓死寸前で捕虜になりましたが、捕虜になってからは毎日、内地でも食べたことがない、当時の日本人としては豪華で栄養豊富な物ばかり食って太って帰国することになります。
・さらに捕虜テントの隣に米軍の食料倉庫があり、毎夜そこに忍び込んでは缶詰を(コーンビーフとか何とかビーンズだったそうです)かっぱらって来て食っていたそうです。ただ、缶切りが無く、適当な物で缶を叩いて開けており、その破片が片目に刺さり、父は片目の視力を失います。
・捕虜収容所での毎日は、土木工事や施設整備などの軽作業があるていど。あとは捕虜たち主催の演芸会、素人芝居大会、のど自慢大会などが催され、それらは米軍からも大いに推奨されていたそうです。その他、日曜大工で身の回りの便利家具を作るなどしてすごす毎日。
・あとは、米軍主催の「キリスト教講座」、「米国の歴史勉強会」、「英会話教室」、「英語の歌コーラス会」…などがしばしばあったそうです(見事な親米化教育です)

     ※

・父は中隊本部付の当番兵のような事をずっとしており、今回添付の写真のメンバー達に混ざって、記念写真を撮ってもらえたようです。(このメンバーが中隊本部=捕虜自治会本部であり、米軍の担当者とのやりとりの窓口でもあったため、米軍の好意により写真を撮ってもらえ、しかもプリントして各自にプレゼントしてもらえたようです。捕虜たちと米軍とは極めて良好で円滑な関係であったようです。日本への帰国が近い事がわかり、その記念に、という事だったのかもしれません)
・写真は、
「比島・昭和21年7月3日 於カロカン・13キャンプ (米軍の好意に依る)」
「昭和21年7月7日(日曜日の午後)於比島カロカンNo13キャンプ マンゴーの木の陰で」
と、あります。
・ズボンの膝上に「PW」とステンシルのペンキ文字。(Prisoner of war … 戦時捕虜、或いは、戦争捕虜)。よく見ると、シャツの袖にPWと記されている場合もあるようです。
・捕虜たちは、米軍主導で自治組織がつくられ、軍隊当時の中隊を基に構成されていたそうです。
写真の「I中隊長」「H労務主任」「K作業隊長」「Uインタープレーター」「I・H伝令」などの役職名が、組織の機能を想像させます。(父はのんきに煙草をくゆらせています)
・衣料は米軍支給の物。複数枚持ち、頻繁に洗濯などして清潔にしていた。シャワーもあったが、毎日夕方訪れるスコールの時、石鹸を持って外に出て全身を洗っていた。
・テント背後にフライパンや飯盒が整然と干してある。この手の整理整頓の日曜大工は、工兵たちということもあり、お手のもの。
・背後の大きな車両や土木用重機の数々。こんな機械化された物量豊富な敵に敵うわけない。というのが、人力で作業をしていた日本の工兵としての感想だったとか。

     ※

・「捕虜生活」というと、あまり想像できません。(強いて言うと、大岡昇平の「俘虜記」が父の体験に近いと思います)どこの捕虜になったかでも待遇は大違いだったと思います(シベリア抑留の話を聞くと、父は暖かい場所で、しかも米軍の捕虜で良かった…と思います)
・この写真は、そんな、よくわからない(知られていない)捕虜の生活を想像できる貴重な写真と思います。


(・父は復員後、大宮市警・埼玉県警に勤務し、定年まで勤めました。平成25年1月12日病没・91歳)

※当方、病を得て余命も短く、散逸しないうちに寄贈させていただければと思い、連絡させていただきました。収蔵の件、ご検討宜しくお願いいたします。寄贈可・収蔵いただける場合、実物を郵送させていただきます。


(追伸)
I様
・人物確認の件、そのとおりです。父は身長155cmほどと小柄でした。写真でも、なんだか小さ目に見えますね。
・文字の件、父本人が書いたものです。つけペンか万年筆を使っています。(今どきですとボールペンほぼ一択ですが、ここらへんも時代を感じさせられます)
・余談ですが、それぞれの人物の姿と役職が、いかにもそれらしく一致していて面白いですね。
中隊長は年長者でいかにも謹厳そうに見えます。通訳は絵にかいたような当時のインテリ風。パワフルで部下から信任厚そうなそうな作業隊長、生真面目な中間管理職風な労務主任もいかにもハマり役。若い伝令二名は、小生意気でも真面目にすっ飛んでいきそうな勢いのありそうなアンチャン。父は中隊長付の当番兵というか雑用係のようなものだったようで、おとなしく真面目ですが、ちょこまかとよく動きそうです。蛇足でした。
お手続き、宜しくお願いいたします。
Re: 埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館) - マリオ
2024/04/21 (Sun) 22:23:20
標記のKこと國分利和の遺品を寄贈しました。応召・志願→陸・海軍従軍→終戦→除隊→埼玉県警察官拝命→同定年→鬼籍入りと共通の命運を分かった父等を持つ愚父も「展示のアイコン」と寄稿賜り、父に代わってお礼申し上げます。こうして、たった70年前の青春が、記録として固定され資料として保存され本邦の人々の記憶に残れば望外の喜びです。なぜ、日本は戦争をしたか?敗戦したか?310万人の犠牲をどう捉えるべきか?日本政府は、遠く異国の山河や海底に未だ眠る未回収のご遺骨をどう葬るのか?100年単位で歴史の評価とわだつみの声に耳を傾けたく思います。
Re: 埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館) - マリオ
2024/12/14 (Sat) 01:21:49
このブログの面白いところは書き込みをすると順位が最新化されて、旧版の加筆部分と共に最新情報ツラで皆さんにお見せできる。ここで少し硬質な話題を蒸し返すことを許されよ。
結局、愚父から見て二世代後迄の子孫と配偶者(小生の愚母だ)方の従兄弟なども何回か見学した。16歳当時の愚父が胸を熱くして、青春の熱血を秘め志願するに関しての具体的なきっかけが見つからない?と言うか、生前訊き忘れたが、元自衛官のN氏の調査で「逓信講習所卒の電信掛を即成の飛行兵にする制度があり」、これに志願したのは間違いない処だ。ただの志願海軍兵ではない。なんたって志願海軍飛行兵だ。これは恐らく愛国・軍国少年達の心の琴線を住友金属製の超ジュラルミン製の爪で掻き乱したのは間違い無いだろう。こんな貼り札だったんじゃないかなぁと検索した結果
Re: 埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館) - マリオ
2024/12/14 (Sat) 01:46:15
一方、連合国側だって、そりゃ片手間に戦争やって勝ったわけではない。戦死者も10万柱ほどおいでだ。僕は自動車製造に携わってアメリカに住んでいたので、多少歴史に親しみを持っている。(Fordの博物館も訪問したし)、あの国が、当時既にモータリゼーションの隆興を迎えていたけど、一部の製造技術・生産力は当然軍需に徴用され、民生用は多少の割を食った時期がある。また、僕の任地オハイオ州のデイトンには空軍博物館があり、以下省略、、、、、、
ってことで、愚父が熱き血潮を激らせた戦意高揚の貼り札に相当する、アメリカ側の同様のポスターも秀逸なものが多数現存しており(地震と空爆と洪水がない国は古いものが残っている)、防諜・銃後の守り・軍需産業や食糧増産・戦時国債等と共に、海軍兵士と同看護婦(令和では看護師と言ってるもの)の募集のポスターがかなり秀逸なデザインのものが多く、意を強く注目したものだ。孫に会いに齢70歳過ぎて初めて旅客機でアメリカに単身来た愚父も観、無論B-29実機も素手で触れ彼の戦後が終わった話はいつか寄稿した通り
この海軍のポスターの麗しくも勇ましい描画と、シンプルな言葉遣いに80年前の乙女達は心揺さぶられたのだろう。
曰く、海軍、、誇りと愛国心で奉仕せむ
Re: 埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館) - 藤尾
2024/12/14 (Sat) 23:19:23
所用で桶川に行くことがあり、当日は体調も良かったので「桶川飛行学校平和祈念館」に足を延ばした。(是非マリオ氏と行きたかったが、体調に波があり申し訳ない、先に行かせてもらった)

広くて、シンと静かな所だった。兵舎棟が復元されており、昭和三十年代の木造の小学校といった風情だ。
簡素ながら的を得た展示・解説で、この飛行学校ができた時代的背景や、実際に運用されていた当時の様子などが想像できる内容だった。特に、訓練生の寝室にベッドがズラリと並んだ様は、息苦しくなるような感じだ。当時の訓練生たちは時代の最新兵器である飛行機に乗る事で高揚していたであろうが、時代の推移を知る後世の我々から見ると、ちょっと辛いものがある。
特に興味深かったのは飛行原理や操縦や航法などの手書きの教科書の展示だ。実に高度で専門的な内容だ。平均をかなり上回る能力の者でなければついてゆけまいと想像できる。優秀な少年たちが選抜されて飛行機に乗る!と集っていたのだと思うと息が詰まる思いがする。


兵舎棟入口に「知覧特攻平和会館」関連のパンフが置いてある。はて、どんな関係かとおもいしや…
飛行学校は、戦争末期には特攻隊訓練所に改変され、ここで訓練の後、知覧に赴き、そこから特攻に飛び立ったのだという。うわあ…。(特攻については、この板でも今まで散々述べてきたので、もう書きたくない。どんなに美化されようとも、百死零生の作戦の外道であるとだけ言っておく)

前庭が広く、ここで朝礼や諸儀式、体操訓練などしていたかと思うと胸が詰まる想いがする。(なんてったって、僕のヨメの父親がここで少年飛行兵として訓練中に終戦を迎えている。終戦前日、熊谷が空襲で燃える炎の明かりが遠望されたらしい…。もう少し入学が早いか、終戦が長引けば、知覧から特攻に飛び立っていた…という事だ)

学校の横を流れる荒川をはさんで、太郎右衛門橋を渡るとホンダエアポートがある。当時はそこが学校の飛行場で、そこで練習機を飛ばしていた。九五式一型練習機(石川島キ-9)が主だったらしい。前述の教本の中に、同機の諸元や運用注意の詳細な記述の教科書(手書きガリ版刷り!)があった。(これを見て、海軍ではあるが、坂井三郎の「大空のサムライ」での詳細で臨場感あふれる飛行訓練の様子の記述が思い起こされた)

さて、いずれにしても、桶川飛行学校(熊谷陸軍飛行学校桶川分教場)跡の「桶川飛行学校平和祈念館」は雰囲気のある、背筋の伸びる場所であった。
本項で触れている埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館)とも関係の深い施設であり、展示物等の貸し借りなどもあるのだという。しかし、実際の飛行学校の跡にある本施設は、実物の迫力という意味で、圧倒的に胸に迫るものがある…と感じた。
関越道 凍えし者は 我と星のみ - 藤尾
2024/12/10 (Tue) 10:51:12
片岡義男にインスパイアされて

・焦げた蝶 冷却フィンに はさまりし
・夏きたる 冷却フィンに 焦げし蝶

・ジェットヘル 鋭く光り 夏来る
・ジェットヘル 風になびきし黒髪を 追いて走りし 陽の香りせん
・ジェットヘル 陰に隠れし表情は 風になびきし髪が語らん
◎ジェットヘル 鋭く光り 男男しくも なびきし髪の たおやかなりき
〇ジェットヘル 鋭く光り 男男しきも 白きTシャツ ツンと立つ胸
Re: 関越道 凍えし者は 我と星のみ - 藤尾
2024/12/10 (Tue) 14:14:35
オートバイの記憶は、季節の移ろいとリンクしている。

・満タンの 冷えしタンクに 涼求む
・暖求め 熱しエンジン 手をかざし
・我行かん 孤高の寒風 二輪旅
・二輪旅 打ち寄せし波 しぶき受け
〇二輪旅 夕立冷やす 焼けし腕
・二輪旅 歌い続けて 夕日追う
・息白く 雨打ちかかる 二輪旅
・極寒の バイクこそ良し すまし顔 腹に新聞 背にはカイロ

〇パーシャルで 長き山道分け入れば 全て溶け行きライダースハイ

◎我行かん バイクのごとし 娑婆の旅 寒風よ吹け 陽よ背を焦がせ

◎エンジンの 冷えゆく音の密やかに 冴えわたる星 霧の這う丘
Re: 関越道 凍えし者は 我と星のみ - 藤尾
2024/12/12 (Thu) 09:16:11
・バイク旅 撮りのがしたる石仏の 目に焼き付きて瞼にうかび
・パーシャルで 走りすぎしき 石仏は 今も野道で佇みしかや

・インターカム 並び走りてライダーら ともに笑いてなにを語らん
〇インカムに 伝わりしかや 恋衣 バイク並べて 盗み見し目を
Re: 関越道 凍えし者は 我と星のみ - マリオ
2024/12/13 (Fri) 00:56:26
現代のバイクにない部品
チョークレバー、ファストアイドル、黄色い方向指示器モニター、空冷の冷却フィン、キャブレター、補水型バッテリー、磁石の吸い付く燃タン、チューブ入りタイヤ、スポーク、電球入りの前照灯、キックペダルなど
僕の単車は幸い平成一桁の仕様で作られた平成14年製で、空冷の醍醐味が味わえる。気温2-3度の真冬の南関東では降雨さえなくば、冬でも単車に乗れない日はない程、1-2時間走って帰宅しスコンとエンジン切ると「キン、キンキン」と収縮音がするがコレは水冷では味わえない「機関の休む音」だ。
天の園・大地の園 - 藤尾
2024/12/08 (Sun) 10:29:15
日本二大児童文学とは、「二郎物語」と「路傍の石」を指す。
三大児童文学とした場合、諸説あるが埼玉県人としては「天の園」を挙げたい。東松山の唐子(からこ)を舞台に、主人公河北保の小学校時代が描かれる。時代は大正初期だ。まだまだ人々は総じて貧しく、御代官様の孫娘である保の母たち一家でさえも例外ではない。唐子の美しい自然環境と周囲の人々との交流に抱かれて日々は過ぎてゆく。「美しい風景でお腹いっぱいになる子」になるよう育てるという母(かつら)の決意に励まされ、保は成長してゆく…。

「天の園」の続編「大地の園」では、保の旧制川越中学時代の5年間が語られる。舞台は川越を中心に展開し、当時の学校生活や、貧しい庶民と富裕層の暮らしぶり、製糸業の隆盛などが興味深い。
物語は圧巻の大団円だった。舐めていた。終盤の急な盛り上がりに完全にやられた。いまだに、ぼうっとしている。美しく純粋な愛と、人生への決意が透明感のある文体で綴られる。自分たちもどうしていいかわからぬほどの最絶頂の高揚にある保と満里だが、将来には激しい衝突や懐疑が待ち受けているはずだ。でも、この二人は大丈夫だ、と確信できる。賢く正しい生き方を続けるだろう…。保の母かつらの信念や教育を背景とし、そしてそれが結局周囲に善意の人を呼び寄せ、恵まれた人生を渡ってゆくだろう。

しかしそれでも、人は誰しも孤寒の旅を行く。
その時、光り輝く海があり、それに惹かれて沖に向かって飛ぶ蝶であれたなら。蝶には死も生もない。飛ぶことだけが蝶のいのちだ。
お花畑をヒラヒラと飛ぶだけのチョウではなく、海に向かって飛ぶチョウである道は、決して安楽では無いかもしれない。しかし自分自身を生きるという事に気付き、それを知ってしまった者は、その道を見ぬ振りをして過ぎるわけにはいかない。
祝福を。幸多かれ。



「もし汝が賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び気を落ち着かせて、その人と伴に歩め。自分よりも優れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。しかし人は常に或いは最後には独りであることを忘れるな。そして、犀の角のようにただ独り歩め」(スッタニパータ)

Re: 天の園・大地の園 - マリオ
2024/12/08 (Sun) 18:19:52
天の園は地元、東松山〜川越のあたりのお話だ。河北保は最終的に現在の川越高校に進学するとあらば、昭和〜平成でランクが入れ替わった我らが市高と最早朋輩ではないか?これがいつか映像作品化されんことを期す。
Re: 天の園・大地の園 - 藤尾
2024/12/08 (Sun) 23:23:45
「大地の園」は本当に面白かった。

「天の園」はNHKの朝ドラ化を…という話もあるけれど、1年生~6年、さらに中一から高3までぐらいなので子役を3人ぐらい入れ替えないと無理かもwww

我らが母校、浦和市立高の制服が半世紀以上も不変でカワイイわけだが、川越高の制服も可愛い。
さて冗談はともかく、物語の旧制中学は今でいう中高一貫校の年代にほぼ合致するので、まあざっくりと現在の浦和市立を思えばよいだろうか。そんなふうに年齢を想像しながら読むと、気分が分かりやすかった。

健康で自転車に乗っていた頃、「天の園」の舞台である東松山・唐子地区を巡ってみたことがあるが、川あり、橋あり、低山あり、田園あり、寺院ありと、豊かな場所だった。

さて、今回は何といっても「大地の園」だ。中学・高校時代と思えばよいだろう。
前半から中盤にかけてはスポーツあり、勉強あり、アルバイト的な社会体験あり、良いヤツとの出会いもあれば嫌なヤツも登場するといった、学園青春ものだ。(しかし、総じて友人・知人・先輩・親類、そして母親と二人の姉…などに恵まれ、物語は進む)

満里は比較的早くから登場する。初登場は彼女が小学校五年生、保が中一の時だ。
双方の好意は徐々に高まってゆく。天覧山でのデイトは、それはもう美しくて春の夢のようだ。
物語は徐々に二人の愛の深まりを中心に進められてゆく。これがもう、実に美しくて読んでいるこっちも胸いっぱいになる。
そして材木座海岸での海水浴、ここで海へ向かって飛ぶ蝶を二人で見て語り合うところなどは、読んでいておいおいと泣かずにいられない。二人とも、自分たちの関係や人生の将来を蝶に重ね合わせて、静かに深い気づきと覚悟を得る。
で、小説の最後だ。保も満里も、自分たちでどうしていいかわからぬほどの相愛の最絶頂の高揚にある。ここに至ると、読む方も満里と同じように涙も鼻水もよだれも滂沱と流して泣かないわけにはいかない。なんでこんなに泣けるんだろう。
・愛の深さに当惑し、感激してか?
・自分の自我構造に、愛する相手を組み入れ、新しい自分に生まれ変わることの喜びに高揚してか?
・互いに、今後、病める時も健やかなる時も離れる事なく共に行くという事に気付いてしまった。それは深い腹の底からの喜びである。でもそれと同時に、その新しい将来に立ち向かってゆくという事でもある。厳しい試練の道かもしれない。本当にそう信じていいんだよね、やってゆけるかな?二人で行くんだよね!?やって行こうね!…でも同時に、人間は結局一人であると、どこかで知ってもいる。この歓喜と不安と覚悟、そして少しの諦念。
これらが入り交じった感情が湧き溢れて、今は身を投げ出すようにして泣かないわけにはいかない。(取りあえず泣きやむのは、腹の底から覚悟が固まり、決まった時だろう)

(そして物語を読む者も、満里と保たちの心の動きをミラーニューロンが追体験して、まるで自分事として感じて、泣けてしまうんだろう)

凄い。美しい。周囲の大人たちは、二人のそんな微妙な心を壊さぬよう、そっと見守ってくれている。(それまで、物語の背骨は保と母のかつら二人の心の動きを中心に展開していたが、気付くと母は後方へ退き、満里と保の話になっている。思春期を迎えて保の世界が変化したということだ)

さて、この話、中学生や高校一年ぐらいが読んだら、心を揺さぶり過ぎて危険なのではないだろうか?いやいや、まさにそんな心理の真っ只中の年代にある者にすれば、この手の話は「ふん、なんだこりゃ」なのかもしれない。
自分は、そんな純粋で美しい時代をとっくに過ぎてしまったからこそ、保や満里の心の動きがやたら美しく眩しく見えるのかもしれない。
今、コレを書いていても満里と保の涙を思うと、馬鹿みたいに泣けて仕方がない。
Re: 天の園・大地の園 - 藤尾
2024/12/11 (Wed) 16:37:05
おお!なんというタイミング。
さいたま文学館で「大地の園」の朗読劇がある。

川越の喜多院近く、初日の出を拝みに来た小高い御岳神社で、満里と保が初めて出会う場面のようだ。(小四と中一だ…)

この場面は、保の姉である久仁子と、将来結婚することになる白泉良輔との偶然の出会いでもあるのだが、この時、良輔の従妹である満里と保の出会いは電撃的だった。
川越中学の霜で真っ白なグラウンドがシンと清冽な静けさで、四人それぞれの出会いを厳粛に寿いでいるかのような場面だ…。