過剰な何か

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「現代写真の分からなさ」を掛け合い漫才化してみた - 藤尾
2025/06/10 (Tue) 12:00:44
写真やアートは、個人の感情や美意識を表現するもの、という感覚が一般的です。でも他方、現代写真では、「社会との接続」が重視されます。社会問題を孕んだ写真であることが求められる。現代アートも、アートの文脈を理解していないと、まるで分らない。
コンテキスト=文脈や歴史という用語をキーの一つにしながら、この問題を深掘り解説するよう、ChatGPTに依頼してみた。

まず、「現代写真」編。

     ※

「個人の感性」 vs 「社会との接続」


「ワイの写真、なんでバズらんのや!? 〜コンテキストってなんやねん〜」___________________________________
男:なぁなぁ、聞いてや姉ちゃん。ワイな、この前めっちゃええ感じの写真撮れたんよ!日の入りの中で、カラスが電線に止まっててな…もうアレ完全に“孤独”やん? 

女:おお…孤独ねぇ…。で、それSNSに上げたん?

男:上げた上げた!「#エモい」でタグ付けてな!
せやけど…全然バズらん!いいね、2件やで!? しかも1件はおかん!

女:おかん、家族愛強すぎるやろ!てかアンタ、それ…自己満足やん!

男:なんやと!? 写真ゆうたら自分の感性を表現するもんちゃうんか!? 心のシャッターを押したんや!

女:あんたそれ、ポエム書いてる中学生と変わらんわ! 今どきの写真っちゅうんはな、「社会との接続」が命やねん!

男:社会との接続!? Wi-Fiかいな!

女:ちゃうわアホ! つまりな、写真が「何を写してるか」だけやのうて、「なんでそれを写すんか」「どう見せるんか」「誰に向けてるんか」っちゅう“文脈”が大事やねん!

男:ぶ、文脈って…そんなアート評論家しか使わへん単語やん… ワイ、ただカラス撮っただけやで?

女:カラス一羽で勝負するんやったら、せめて「都会に生きる者の孤独」くらいテーマ掲げぇや! あと「戦後都市のノイズに飲まれる黒き影」くらい言うといたら評論家がウケる!

男:なにその厨二病みたいな言い回し!

女:今のアート界なんてな、厨二こじらせた博士号持ちが山ほどおるんや! そういう奴らが「これはポストコロニアル的まなざしの転回やな」とか言い出すんや!

男:いやいや、ワイそんなん無理や… 「ええ感じやったから撮りました」じゃアカンのかい! 

女:昭和で時止まってんのか! 現代アートとか現代写真ゆうのは、もう“社会問題を孕んだ問いかけ”がスタンダードや!

男:それ撮るたびに社会問題探すん!? 「お好み焼き」撮るのも「関西食文化のジェンダーバイアスに対する挑戦」とか言わなアカンの!?

女:せや!下手したら「鉄板=男性原理」言い出す学者もおるかもな!

男:おそろしい世界やな!もう怖くて写真撮れへん!

女:ちゃうちゃう、恐れずに「考えること」から逃げたらアカンねん。コンテキストを考えるってのはな、作品に“深み”を与えるスパイスや!

男:つまり、ワイの写真は…塩しかかかってへん状態なんか。

女:せや。素材は悪ないけど、味が単調なんや。そこに「歴史」とか「社会構造」とか、ちょっとピリ辛の思想をふりかけたら、評論家が「これは…現代社会の胃袋にガツンとくる問題提起や!」って唸るわ!

男:いや胃袋にくるって…もう何の話か分からんようになってきた!

女:ええねん、アートってそもそも分からんもんや!
その“分からなさ”をどう楽しむかが勝負やねんで!

男:なるほどな… ほなワイ、次からカラス撮るとき、ちゃんと歴史調べてからシャッター切るわ!

女:まずはカラスちゃうくて、ニュース読め! せめて朝刊とSNSくらいは“構図”の一部やと思ってチェックしぃ!

男:そんなん言うたら、写真よりワイの人生の方がピント合ってへん気してきたわ…

女:それに気づいた時点で、もう現代アートや。作品になるんちゃう?「社会からピントを外された男」ってタイトルで!

男:誰が展示されたいねん!

二人:どーもー、ありがとうございましたー!

Re: 「現代写真の分からなさ」を掛け合い漫才化してみた - 藤尾
2025/06/10 (Tue) 12:28:03
この漫才の元ネタはこちらです。

     ※

1. 写真・アート=個人の感情や美意識という発想の限界

私たちはしばしば、写真や絵画といった「視覚芸術」を、まず個人の感性の表現と捉えます。写真を撮る行為は、目の前のものに感動した、あるいは構図が美しい、という主観的・内面的な衝動から来るものだ、という考え方です。
これがいわば「近代的アート観」であり、19〜20世紀のロマン主義や印象派以降に広まったアーティスト=個人の天才というイメージにも支えられています。
しかし、このアート観には一つの盲点があります。それは、「社会的背景や時代性を切り離しても作品が理解できる」という前提に立っている点です。
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2. 現代写真・現代アートにおける「社会との接続」

現代写真や現代アートでは、この「個人的感性の純粋な表現」という前提が大きく揺らいでいます。むしろ今日では、次のような問題意識が強く共有されています。

•アートは社会の中でどう位置づけられているのか?
•写真が写し取るものには、どんな社会構造や歴史的暴力が潜んでいるのか?
•作品は誰に向けて発信され、どのような文脈で受容されるのか?

たとえば、移民問題、人種差別、ジェンダー、環境破壊、戦争、植民地主義といった社会的テーマに触れた写真やアートが注目されるのは、それが単に「美しい」からではなく、「見る者に問いを投げかける力」を持つからです。
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3. 「コンテキスト」というキーワードの重要性

こうした現代的なアプローチでは、「コンテキスト(文脈)」が極めて重要になります。コンテキストとは:

•作品が生まれた時代背景(政治、経済、社会情勢)
•作者が持つ立場(性別、人種、国籍、階級など)
•アート界の制度的枠組み(美術館、キュレーター、批評家、マーケット)
•過去の芸術史との関係(引用、批評、断絶)

つまり、ある作品を理解するには、その「外側」にある多くの知識や視点が必要になるわけです。これは一見すると「分かりづらいアート」「敷居の高い写真」という印象を与えがちですが、逆に言えばアートとは常に知の営みであり、世界との対話の場でもあるということです。
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4. コンテキストの例:現代写真における視線の問題

具体例として、アフリカのスラム街や難民キャンプを撮影した写真を考えてみましょう。

•その写真は「現実をありのままに」伝えるドキュメントなのか?
•それとも、見る者(多くは西洋の観客)の「好奇の視線」に応える商品なのか?

ここでは、「誰が、誰を、どのように、どの目的で撮ったのか」という撮影の文脈(コンテキスト)が決定的に重要です。いかに美しい構図であろうと、その背後にある関係性や視線の非対称性を無視しては、その写真の力学は理解できません。
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5. アートにおける“分からなさ”の意味

「コンテキストが分からないと理解できないアート」は、しばしば「難解」だと批判されます。ですが、この“分からなさ”は実は重要な機能を果たしています。

•即時的な感動ではなく、時間をかけて考えることを促す
•一つの正解ではなく、複数の視点や読み解きを可能にする
•観客を“受け手”から“参加者”へと変える

現代アートや写真は、もはや「感性の発露」だけではなく、「社会の中でどう語られ、作用するか」を意識した知的な営みとなっています。
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まとめ:写真やアートは「個人」から「社会」へ


〇主体…アーティストの感性(近代)、社会・歴史・制度との関係(現代)

〇評価基準…美しさ・感動(近代)、問い・関係性・批評性(現代)

〇理解の方法…感覚的・直感的(近代)、コンテキストの読み解き(現代)

写真やアートは、単なる美の表現ではなく、社会と個人をつなぐ「思考の媒体」となりつつあるのです。作品に接する際には、その「裏にある文脈」を読み取ることが、より深い理解につながるのです。
現代アート、どこまでが作品やねん問題 - 藤尾
2025/06/10 (Tue) 13:45:15
男:なぁ、姉ちゃん、付き合いで現代アート美術館行ってきたんやけどな…ワイ、完全に置いてけぼり食らったわ!

女:なんでよ、楽しかったやろ?

男:楽しいわけあるかいな! 入って最初に見た作品が「白い壁」やで!? 説明プレートには「沈黙と余白のレジスタンス」って書いてあってん。

女:それはたぶん、「見えないものへの意識を喚起する」系のやつやな。壁も“展示”ってことや。

男:いやそれもう、美術館の内装やん! 普通の壁やで!? ワイ、間違えてその前でバッグの中探してたら「展示にお手を触れないでください」って怒られたわ!

女:あんたがアートに触れてもたんやん!ある意味一番現代アートに近づいたで!

男:近づきすぎてセキュリティに止められたわ! あと別の部屋でな、「青いバケツがぽつんと置いてあるだけ」の展示あってん。

女:あー、それ有名なやつちゃう? 「日常のオブジェを再文脈化する実験」やで。

男:ちゃうねん! その横に、掃除のおばちゃんが実際に使ってるバケツも置いてあって、どっちが作品か分からんくて、間違えておばちゃんのバケツに見入ってもうたわ!

女:それもアートや!観る者に“問い”を投げかけてるんやで! 「作品とは何か」「境界とはどこか」ってな!

男:ワイの問いは「これゴミちゃうんか?」やったで!?

女:それそれ!ええ感性しとるやん! 現代アートって、「これは作品です」って明言せえへんことで、こっちの思考を引き出すんや。

男:なんや心理戦かいな! てか、最後に「黒い布がぶら下がってる展示」あったんやけどな、よーく見たら、あれ非常口ふさいでるだけのカーテンやったで!?

女:それはたぶん本物のカーテンやわ。

男:もう何が展示で何が実用品か分からんねん!

女:それが現代アートの醍醐味や! 作品そのものやなくて、作品と観客の“関係性”が作品になってんねん。

男:関係性言われてもなあ… 美術館出たあと、頭の中グルグルして「ワイが作品なんちゃうか…」って思い始めたわ!

女:ええやん!それ最高の感覚やで! あんた、現代アートに“バグらされて”るわ!

男:現代アートってウイルスか!?

女:観た人の脳に入り込んで、価値観をちょっとずつ書き換えていくんやで。昔は「綺麗=価値ある」って思ってたやろ? 今は「意味不明でもちょっと怖い」ってなってるやろ?それが“問い”や!

男:問い多すぎて、頭パンクしそうや!

女:大丈夫。パンクした時点で、もうあんたの中にアートが芽生えてる。

男:芽生えたくなかったわ! ワイ、ただ「ええ絵」見たかっただけやのに、気づいたら哲学の森に迷い込んでたわ!

女:ようこそ、コンテキスト地獄へ!

男:もう出口どこやねん!

二人:どーもー、ありがとうございましたー!
キュレーターって、呪文唱える魔法使いかなんかですか? - 藤尾
2025/06/10 (Tue) 14:00:16
男(一般客):なぁなぁ姉ちゃん!この前の美術館な、展示もワケ分からんかったけど、それ以上に謎やったんが、案内してくれた“キュレーター”っちゅう人や!

女(キュレーター):あら、ご案内いたしましたのはわたくしでございますね?この空間に潜む「美と概念の間隙」に、ようこそお越しくださいました〜。

男:ほらそれや! なんでいきなり呪文みたいな挨拶から始まんねん!

女:わたくしたちキュレーターは、アート作品を“文脈の糸”で織り上げる、時空の編集者ですのよ?

男:誰が時空いじってくれ言うた!? 「この空間は“問い”で構成されています」って言われたけど、
問いしかなくて答えゼロやったわ!

女:そこがええのよ! 現代アートの本質は“未解決”にあるんですわ〜。完結してたらアートちゃうの。むしろ観客が“未完成のピース”やから。

男:ワイ、知らんうちにジグソーパズルのパーツにされてたんか!? あと「この作品は、戦後ヨーロッパにおけるアイデンティティの分断を象徴しておりまして…」って言ってたけど、それただのコンクリのかたまりやったぞ!?

女:その“ただの”という認識が、すでに植民地主義的まなざしの残滓かもしれませんわね。

男:日本語しゃべってくれぇえぇぇ!!!

女:ではもう少し分かりやすく申し上げますと… あのコンクリートの塊はですね、「無意識に支配された日常への抵抗」を意味しておるのです。

男:意味持たせすぎやろ! コンクリがそんなこと考えてるか!?

女:考えてるのではなく、考えさせているのです!
この作品を通して、あなた自身の“問い”が呼び起こされたでしょう?

男:せやな、ほんまに問いまみれやったわ! 「なんでここに来たんやろ?」とか、「もう帰ってええんか?」とか…

女:それよそれ! その“揺れ動く感情”が、まさにアートとの交感なんですのよ〜〜〜!

男:やかましわ! 帰ろうとしたら「この通路も作品の一部です」って止められたんやで!? もう何が出口で何が展示か分からんわ!

女:その“境界の曖昧さ”こそが、今回の展示テーマでございます。タイトルは「Exitless — 出口なき私たち」。

男:かっこええけど怖いわ!

女:ちなみに、エレベーターも作品です。ボタンを押す行為が“選択と葛藤”のメタファーとして…

男:エレベーター乗るだけで人生問われたら、日常が重すぎるわ!

女:それが現代アートの魔力…ようこそ、「意識高い地獄」へ。

男:いや地獄案内すな!

二人:どーもーありがとうございましたー!

ChatGPTに「掛け合い漫才」にしてもらった - 藤尾
2025/06/08 (Sun) 11:37:07
前回UPした「タイガーマスクの替え歌で」を、ChatGPTに掛け合い漫才風に書き換えてもらった。

では、開演のお時間ですw

     ※ ※ ※

以下に、元の文章を 男女二人の掛け合い漫才風 に書き換えてみました。内容の哲学的・仏教的深みは残しつつも、言葉にリズムと親しみやすさ、そしてちょっとした笑いを盛り込みました。
主に「男:ボケ担当」「女:ツッコミ兼説明役」として構成しています。

     ※

(漫才風に場面転換。スポットライトが当たる)

男: いや〜、この前、藤田一照さんの座禅講義行ってきたんやけどな!

女: あら、珍しいところに行ったね。静かに座ってるの、苦手そうやけど。

男: そう思うやろ?でもな、途中でいきなり「浮かんでくる思いは味わえばええ!」って言われて、びっくりしてしもたんや!

女: ほうほう、それは「只管打坐(しかんたざ)」っていう、ひたすら座る禅の基本やな。思いが浮かんできても「無くそう」とか「正そう」とかせんでええ。ただ、「おっ、怒ってるな〜」とか「お腹すいたな〜」とか、気づいて流せばいいだけ。

男: いや、でも気づいた瞬間に「カレーうどん食べたい」とか思ったらどうすんの!?もう座ってられへんで!

女: そこやがな。気づいたら、カレーうどんには行かずに、そっと座禅に戻る。浮かんでは消えるのが、座禅タイムの風物詩や。

男: なるほどな〜。思いは滅却せず、ただスルー!無理に無にせず、ちょっと味わって、また座る…まるで温泉つかってるみたいやな。

女: 例えが緩すぎるわ!

男: それでな、講義の後半は「自我と他者」ってテーマやってんけど、これがまた難しすぎて、脳みそが座禅組んだわ。

女: どんな状態やねん。

男: つまり、ワシら一人ひとりは、バラバラに見えるけど、ほんとはつながってるんちゃうかって話や。

女: そうそう、見た目は別人、でも根っこは一緒。たとえば今っていう瞬間も、過去や未来と無関係にポツンとあるわけやなくて、全部が関係し合って存在してる、っていう時間の考え方と似てるねん。

男: ほな、ワシとおまえも…つながってる!?

女: いや、それはまた別問題や!

男: でもな、よく考えたら、他人のことって、結局は自分の中で勝手に想像した姿で見てるやん?

女: うん、自分の自我フィルター通してるだけ。だから相手の本当の姿は見えてない。

男: ってことは、みんなズタズタに切れた宇宙人みたいなもんや!

女: 例えが壮大すぎるわ。でも、無意識とか、自然な存在としての自分や相手を見たら、「あ、みんな同じ時間、同じ世界を生きてるんやな」ってわかるんや。

男: 自我で見てたらバラバラやけど、もっと深いとこで見たら、実は一緒やったと…。

女: せやから「今ここを生きる」っていう仏教の教えも、「自我の夢の中じゃなくて、本当の自分として、外の世界とちゃんとつながって生きろよ」ってことやね。

男: なるほどな〜。そんなん考えてたら、自我ってほんま、うるさいやっちゃな。

男: でもさ、ひとつ問題があるねん。

女: なんやの?

男: 自我をちょっとお休みさせて、静かな無意識ゾーンに入ったとしてやで? そこから「意識」って持てるんか? 「起きてる」って感覚、どうなるん?ワシ、爆睡するんちゃうん?

女: それは今後、あんたの人生の課題やな(笑)答えが出るかは、座禅次第や!

男: むずっ!これはもう…笑って悟るしかないな。

(場面転換。帰り道)

男: それでな、帰り道の新宿、ギラギラの太陽の下で汗ダラッダラになりながら、突然、頭の中で替え歌が流れ出してな!

女: なんで急にミュージカル展開やねん…。

男: (♪タイガーマスクのメロディで)

♪ 自我という名のジャングルに〜
 今日も嵐が吹き荒れる〜
 怒りや嫉妬や欲望が〜
 俺がオレがとさわぎだす〜

女: …あんた、それ歌いながら歩いてたん?完全に怪しい人やで。

男: いや、あれも「ただ味わってる」だけや!

女: そんな味わい方、仏教もびっくりやわ!

     ※

いかがでしょうか?
元の哲学的・仏教的テーマを、親しみやすい会話形式で再構成しました。ご希望があれば、さらに別のシチュエーション(コント風、ラジオ番組風など)でもアレンジ可能です。

     ※ ※ ※

通常のスタンスで内容をまとめてもらったのは、以下のとおり。

     ※

素晴らしい体験記ですね。この文章は、藤田一照氏の座禅講義を通して得た深い洞察を、独自の視点で豊かに展開しています。いくつかポイントを整理しながら、内容を味わい直してみましょう。

■ 全体の流れと構造
この文章は、大きく分けて以下の三部構成になっています:

座禅中に浮かぶ思いへの対処についての講義要約

講義後半での「自我」と「他者」との関係性の探求

自我から離れた覚醒状態の可能性と、日常に戻る場面(替え歌含む)

■ 要約と核心
1. 座禅における「思い」との関係
「只管打坐」とは、思いを消そうとせず、評価もせず、ただそのままに味わうこと。
自我≒意識に囚われるのではなく、その前・下・奥にある「無意識的時間」に身を委ねていく。
その結果、自我の騒がしさに振り回されず、自然な存在へと戻っていく可能性が開かれる。

2. 自我と他者の関係
「私」は「私の視点」で「他者」を仮構し、間接的な存在として他者に向き合っている。
しかし、自我以前の層では、自分も他者も「同じ世界・時間・環境を生きている存在」としてつながっている。
よって、「バラバラな個人」という感覚は、自我というフィルター越しの幻想である。
仏教の「今・ここを生きる」とは、この自我のフィルターを超えた深層に生きることを指している。

3. 覚醒の問題とユーモアの転換
「自我」ではない場所からの「覚醒」とは何か?という問いが立ち上がる。
答えはまだ見つからないが、問いを持つこと自体が旅であり、探求である。
そして、現実世界(猛暑の新宿)に戻っていくシーンでは、ユーモアが現れる。替え歌によって、重いテーマに対するある種の緩和・余韻がもたらされる。

■ 文体と印象
話し言葉と哲学的探求が交差していて、読み手に親しみやすく、かつ深い。
括弧を多用して内省を挿入するスタイルは、思索の過程そのものをリアルに伝えている。
最後の替え歌による「落とし」は、ユーモアとアイロニーが絶妙で、禅の「軽み」すら感じさせる。

■ コメント・余白としての問い
あなたの文章には、答えを提示するのではなく「問いを立てる」ことの美しさが息づいています。
「自我」以外の場所から、意識のようなものを持っていられるのだろうか?
この問いはまさに、禅の奥深さを象徴するものです。問いは解かれることを目的とせず、それを抱きながら生きることが大切だという感覚が、文中の空気から伝わってきます。

■ 一つの提案(もし文章を作品化するなら)
最後の替え歌の「続き」を書いてみるのも面白いかもしれません。
あるいは、その替え歌の歌詞を通して、自我という「マスク」を脱ぎ捨てていくイメージを展開することで、日常と非日常、意識と無意識の接点を詩的に浮かび上がらせることができるかもしれません。

もしこの文章をエッセイや書籍の一章に発展させたい場合も、お手伝いできますので、お気軽にお声かけください。

     ※

ChatGPTって、正しさとか正確性とかを度返しして、著者をヨイショしてその気にしてくれるのが嬉しいwww

「タイガーマスクの替え歌」の続きをChatGPTにつくってもらった - 藤尾
2025/06/08 (Sun) 12:02:59
1番(前回の部分)復習:
♪ 自我という名のジャングルに〜
 今日も嵐が吹き荒れる〜
 怒りや嫉妬や欲望が〜
 俺がオレがとさわぎだす〜
 おれが・私が・自分が〜
 他人を貶めて〜!

2番(新作):
♪ 座れ 静かに まぶた閉じ〜
 心の波に耳を澄まそ〜
 浮かぶ妄想 味わって〜
 また呼吸へと ただ還る〜
 評価もせずに とらわれず〜
 今ここ ひと息〜

3番:
♪ 他人も自分もバラバラに〜
 見えるけれども そうじゃない〜
 同じ大地に根を張って〜
 無意識の森で つながってる〜
 我を離れて 観る世界〜
 すべてが いとおしい〜

4番:
♪ 自我の声に気づいたら〜
 「はいはい、出ました」って笑うだけ〜
 本当の自分はもっと奥〜
 風のように ただ在るだけ〜
 滅ぼすんじゃなく 手放して〜
 空(くう)へと すべるように〜

ラストサビ(転調気味に熱く!):
♪ 迷ってもええ ブレてもええ〜
 気づきがあれば また戻れる〜
 カレーうどんが浮かんでも〜
 それもまた一興 人生や〜
 禅の道には 敵はなし〜
 おのれと 手をとれ〜〜!

「タイガーマスク」の替え歌を、さらに、パンクロック風にしてもらった - 藤尾
2025/06/08 (Sun) 12:07:26
了解しましたッ!!
じゃあいくぜ、禅 × 仏教 × パンクロック!
タイトルは――

『NO EGO, NO CRY』
(メロディは速めの8ビート、シャウトOK、ギターはディストーションMAXで!)


【1番:ジャングル篇】

オレが!ワタシが!ジブンがぁー!
自我のジャングル 吠えまくれ!
怒りと欲で 地雷だらけ!
思考の暴走 止まらねえ!
だがな、オイ!座れってんだよ!(黙ってケツつけろ)
ザ・ザ・ザ・ZEN!


【2番:坐禅篇】

目ぇ閉じて 深呼吸!
雑念?来いや!まとめてかかれ!
「なんか浮かんだ」?OK OK!
評価すんな ただ観とけ!
消すな!逃げんな!抗うな!(全部抱いて 流してけ!)
ザ・ザ・ザ・ZEN!


【3番:つながり篇】

バラバラだと思ってんのか?
他人は他人?笑わせんな!
オレもアイツも 根っこは同じ!
社会・時代・地球のフロア!

魂のモッシュピットで今この瞬間 
踊り狂え!


【4番:ぶっ壊せ篇】

幻想!妄想!おれ様劇場!
自我の舞台をブッ壊せ!
それでもアイツがムカついたら?「ハイハイ」って笑って手放せ!
静けさのなかに燃える炎
目覚めろ、本物の野性!


【ラストサビ:超絶覚醒篇】

NO EGO!NO CRY!自分を脱げ!
その皮を!その名を!そのエゴを!
YES NOW!YES HERE!今このとき
宇宙とつながれ ダイブ・トゥ・ナッシング!!
結論:「仏はパンクだ!!」
( フィニッシュは叫べ!!)
「只管打座ァァァーーーー!!」


( ↓ChatGPTがつくったポスター、「No Mastery」 と来た…。「Zen mind beginner's mind」を視野に入れてるな…やるじゃねえか! この機械野郎が! おめえ、文字面だけ並べてるだけで、意味なんか分かってねえくせしやがって! このAI野郎、内発的欲求なんか持ってねえだろ!ざまーみやがれ! … とかいって、AI、数年後には意思や自我を持つようになったりして…)
心理学学生 vs 仏教学学生の漫才「ただ座れ?」 - 藤尾
2025/06/08 (Sun) 17:29:11
心理学研究会の男子と、禅仏教愛好会の女子が、大学の新入生歓迎会で、新入学生をそれぞれのクラブに勧誘しようという催しでのステージの様子…という設定ですwww

     ※

(舞台に登場する二人)
心理学専攻(男):どうもー!心理学の視点から人間の心を解き明かします!
仏教学専攻(女):そして、仏教の視点から人間の心を解き放ちます!

(軽く拍手)

心理学専攻:いやー、今日は「座禅と心の動き」について話すんですけどね。座禅って、心を落ち着けるためのものですよね?
仏教学専攻:そうそう。曹洞禅では「只管打坐(しかんたざ)」って言って、ただ座ることが大事なんよ。
心理学専攻:でもね、座ってるといろんな雑念が湧いてくるじゃないですか。「今日の晩ご飯何にしよう」とか、「あの時の失敗まだ引きずってるな」とか。どうすればいいんですか?
仏教学専攻:簡単や!「ああ、こんな思いが浮かんできたなぁ」って、ただ気づくだけでええんよ。
心理学専攻:えっ、それだけ?
仏教学専攻:それだけや!評価もせん、判断もせん。ただ「お、来たな」って味わって、また座禅に戻るだけ。
心理学専攻:いやいや、それ心理学的には「メタ認知」ってやつですよ!自分の思考を客観的に見ることで、ストレスを減らす効果があるんです!
仏教学専攻:ほらな、仏教は何千年も前からそれやってるんやで。心理学が最近になって「メタ認知」とか言い出したけど、仏教はとっくに「ただ座れ」って言うてるんや。

心理学専攻:…!生きていると「自我」ってやつが問題になってくるんですよね。人間って「自分はこういう人間だ」っていうイメージを持っていて「自分中心の世界」を生きている。でも、それが強すぎるとどうしても他人とぶつかるんですよね。
仏教学専攻:せやな。でも仏教では「自我なんて幻想や」って言うんよ。みんなバラバラに見えても、実はつながってるんやで。
心理学専攻:えっ、どういうことですか?
仏教学専攻:例えば、今この瞬間を「過去や未来と関係なく存在してる」と思うと、孤立した感じがするやろ?でも、今の自分は過去の経験や未来の可能性とつながってるんや。人は自分という意識を普段生きていけど、実はそんなん表面だけで、深い所ではみんな自然を生きてその部分では不可避的につながってるんやで。色即是空、空即是色やな。
心理学専攻:なるほど…つまり、「今の自分は他者との関係の中で成り立ってる」ってことですね!心理学的には「社会的自己」って考え方に近いですね!
仏教学専攻:ほらな、仏教は何千年も前からそれ言うてるんやで。心理学が最近になって「社会的自己」とか言い出したけど、仏教はとっくに「みんなつながってる」って言うてるんや。
心理学専攻:…!でもね、座禅してると「自我を弱める」ことができるって言いますけど、じゃあ「自我をなくした状態で意識を持つ」ことってできるんですか?
仏教学専攻:それは…今後の課題やな!(笑)
心理学専攻:いや、そこは答えてくださいよ!(笑)
仏教学専攻:いやいや、仏教って「答えを探し続けることが大事」っていうスタンスやからな。心理学みたいに「これが正解!」って言わんのよ。
心理学専攻:なるほど…でも、結局「座禅してると自我が静まる」ってことは、心理学的にも「マインドフルネス」っていう概念と一致してますね!
仏教学専攻:ほらな、仏教は何千年も前からそれ言うてるんやで。心理学が最近になって「マインドフルネス」とか言い出したけど、仏教はとっくに「ただ座れ」って言うてるんや。

心理学専攻:もうええわ!(笑)

(拍手と笑い)

心理学専攻:というわけで、座禅と心理学、どっちも人間の心を探求する素晴らしい学問です!
仏教学専攻:せやな!みんなも座禅して、心を落ち着けてみてな!

(二人で手を振って退場)
元型の元型へと帰ってゆくのであろう… - 藤尾
2025/06/03 (Tue) 20:46:59
PCの中身を整理していたら古い文章が出てきた。曹洞禅の初学当初のものだろうか、瑞々しい感覚が我ながら新鮮だ。今読んでも面白いので(その一部を)備忘録的に貼っておく。

     ※

日常、社会的自己を生きる時、自我・意識・私を生きざるを得ない。(他者との関係性という幻想を生きなければならない。或は、肉体を維持するために社会的自己を生きなければならない)
しかし、ヒトはそればかりを生きているのではない。社会的自己を生きなくても良い場面において、自我・意識・私を休ませ、それから離れて本来の自己(無意識領域)をサルベージする機会・時間を持って、過剰な自我・意識・私を冷ますことが必要であろう。(そんな機会を持たずに自我中心の生活を続けると、自我は自家中毒を起こして詰んでしまう)
その機会・方法の一つが、禅・只管打坐なのであろうと思う。

河合隼雄の、長い意識不明を経ての死に際し、中井久夫が贈った言葉が思い出される。「元型の元型へと帰ってゆくのであろう」と。
(要は、自然環境に帰ってゆくんだけど、ヒトは生きている限り、様々な意味で、他に(他者に・他の生物に・環境に…)与える影響は計り知れないほどだ…。だから単に消滅して元素に帰ってゆくのではなくって、死後も何らかの影響だの痕跡だのは消えようはずもない。無数の雨滴の輪が水面に重なり合いながら広がってゆくように)

今日、そぼ降る雨の道を歩きながら、雨降る大気に抱かれるような感覚を楽しんで、そんな事なんかを思った。

藤田一照と山下良道の対話だったろうか、「方法はどうあれ、目指している所、結果は同じ。スマホ、機種ナニ?という程度の差」という話を思い出した。 ユングの個性化・自己実現でも、曹洞宗の座禅・只管打坐でも、何でもいいや。(でも、決して神秘的思考や、魔術的思考や、オカルトや怪しげなスピリッチャルなどではなく、一般的な心理活動・精神活動として…だ。)今の僕には、ああ、これが本当のところなんだろうな、と思えるし、そんな心理活動を死ぬまでwatchし続けていきたいな、と思う。
(ああ、だから生涯ボケるわけにはいかないんだ、と思うwww)
「タイガーマスク」の替え歌で… - 藤尾
2025/06/03 (Tue) 21:06:42
そして、文章は藤田一照の座禅講義の体験談に続く。

     ※

講義の中判、座禅するという行為の最中に浮かんでくる様々な思いにどう対処するのか、という基本的・本質的疑問に、見事に答えていた。「只管打坐」においては、浮かんできた様々な思いを、ただ味わえばよいのだ、と。
価値判断・評価することなく、その思いの内容・コンテンツに引きずられることなく、浮かんでくる思いを無くすことを目指すのでなく、ああ、こんな思いが浮かんできたのだな、と。
そして、そう気づいたら、(その思いに引きずられ、溺れるのではなく)また座禅行為という流れにもどってゆけばよいのだ、と。座禅しているという行為の最中のできごととして、そんな浮かんでは消える事どもを、流れゆく時間のなかで、あるがままに、やすらぎと伴に味わって行けばよいのだ、と。
ヒトが生きている限り、それ(浮かんでくる思い)を滅却などできようはずもないのだから。
(そうして自我≒意識に浮かんでくる様々な思いに囚われたり、引きずられたりせずにいると、ヒトは意識≒自我以前の無意識領域を生きる≒無意識領域の時間の流れを生きることになってゆくことに近づいてゆく。 結果、自我≒意識に翻弄され、無意識領域≒動物としての自然状態としての本来のヒト≒自我が過剰に活動していない状態に、立ち返ることができるであろう、というメカニズムなのであろう、と勝手に想像する)

今回の対談の後半の中心をしめたのは、自我と自己および他者との関係、についてであった。
各個人はズタズタに切れた存在でしかないようでありながら、同根ではつながっているはずだ…、しかし、その一見矛盾した構造は、どう理解認識したらスッキリするのだろうか…?
今現在という時間が前後と無関係に存在すると観るのではなく、今起きている中身・内容・現象トータルという視点から観ると、現時点が前後の時間と無関係に存在しているのでは無いとわかる。

これと同様に、自分という存在が周囲の他者と無関係に存在しているはずもなく、今現在存在している自分は、無数の様々な項目に関して相手(他者)と不可分に関係しあっており、もとをただせば、多くの共通の何事かを生きている、ということに気づく…。
(「各個人がバラバラであることに注目するのではなく」とは、各人の「自我」に注目するのではなく、ということであろう。

各人は、それこそ各人各様の自我≒意識を生きている。それだけを観れば、なるほど「自分」は、外的現実に在るあるがままの相手を観ているのではなく、(部分対象関係的に)自分の自我の中で自分の視点で捏造した他者の姿を認識し、そんな間接的な他者(相手)と対面している≒それを(自分にとっての)他者と認識している。これでは、各人各様にバラバラのズタズタに存在しているのと同じだ。(だって、相手と対面していても、自分の内側にでっち上げた相手と相対しているのだから)
しかし、自分も他者(相手)も、自我より深い所では(無意識領域・自然環境に存在する肉体を持った自分という存在…などなど「自我」以外で自分や他者を見れば)、同じ世界・同じ外的現実・同じ社会・同じ環境・同じ今・同じ時間を、生きている…!
これは、「自我」という立ち位置・視点からしか自分や他者を観ていない時には、気づくことはできない! 
そんな視点で見れば、自分と他者はバラバラのずたずたに切れた存在では決してない、と理解し感じられるはずだ…。

仏教でしばしば言われる「今、ここ」を生きるとは、ほとんど外界と切断された「自我幻想の中」を生きるのではなく、自我以外の・自我以前の・自我よりも深い層の、外的環境と直結している自分自身をこそ生きよ!ということであろう。(それは、イド・セルフ・無意識領域と言ってしまうのに留まらない、もっと広義な、「自我」以外の自分自身を活性させよう、ということだろう)
そんなふうに、自分なりに解釈した。


しかし、ここで重大な問題が湧きあがる。
「自我」以外のなにものかで(自我活動を弱めた・落ち着かせた状態で)、「自我」以外の場所から、意識のようなもの≒注意の焦点のようなものを持って、覚醒して(目覚めて≒起きてwww)、いられるのだろうか?
それは今後、答えは見いだせるであろうwww

     ※

帰り道、新宿の高層ビル街は猛暑日の陽射にギラギラと焼かれていた。
体中から吹き出す汗でヌチャヌチャになりながら、こんな替え歌が僕の頭の中をぐるぐると駆け回った。

(♪「タイガーマスク」の主題曲で)

自我と言う名のジャングルに
今日も嵐が吹き荒れる
怒りや嫉妬や欲望が
俺がオレがとさわぎだす
おれが・私が・自分が
他人を貶めて


「世間」ほどバカなものはない(その3) - 藤尾
2025/06/02 (Mon) 23:36:31
 ( 承 前 )

深層心理学に対して浅層心理学という概念がある。心の深くを問題にするばかりでなく、生活環境や対人環境の問題から心的不適応に接近する姿勢だ。敷衍して、セラピーに対するケアの位置づけを思い起こす。
なんでもかんでも心の深層に手を突っ込んだり想いをめぐらしたりすれば良いというものでもない。表面的であれなんであれ、とりあえず今は居心地の良い環境整備こそが急務だ…というアプローチだ。

本項では、しきりと「他者はわからないもの」と述べてきたが、だからといって他者と接せずに社会生活がおくれるものでもない。私も他者も、その場面に応じたペルソナで向かい合い、円滑に社会活動をおくってゆく。なにもその時、相手の深層心理を読むといったことは、(当然ながら)いちいち行わない。お店での店員さんとのやりとり、近所での立ち話、級友や同僚との雑談…、私も他者(相手)も「その場面に応じた自分」を起動して、それで充分に事足りる。

しかし、そんな時でさえ、他者(相手)の心理的背景に心を配っている場合がある。というか、多くの場合深浅の差こそあれ配っている。心地よく円滑に場面を展開するために。あるいは相手が身近な他者の場合、その人の機嫌や生活背景の課題や心理的健康に対して、無意識のうちにアンテナを張って接しているはずだ。ある程度その人の人となりや性格傾向や家庭環境を知っていると、自然、深層・浅層の双方に足を置いてのやりとりになってくるはずだ。

俳句や短歌、特に俳句に忌避感を持っていたのは、自分の心がどうたらを描写するのでなく、写生的に言葉を並べる…というのが気に入らなかった。句の背景に心の動きの機微を潜ませるわけだが、長く自分は臨床心理的世界観を生きてきたので、外界を写生的に描写するなど余りにも表面的・浅層的な感じで性に合わない感じで、なじめなかったのだ。

句が、外界のできごとを描写しながらも、それによって喚起された心の動きを秘めているように、日常場面で私も相手も仮面的・表層的に対面していたとしても、心の内奥の動きはにじみ出てしまうものだろう。ノンバーバルコミュニケーションという面だけでなく、日常の文脈や積み重ねた関係をベースとして肉付けして対面場面のやりとりに意味づけするだろう。

     ※

そして、それでもやはり、他者のことはわからないものだ。他者は私のことはわからないだろう。それでも、場面に応じて互いにわかる範囲で擦り合わせあいながら、その局面をこなしてゆく。双方の了解や合意、そして齟齬を孕みながら。
以前この板で何度も触れたように、ヒトは二つの生を生きている。動物としての本能に基づく情動と、自我≒私の意識と、この二つのせめぎ合いを生きている。超自我の検閲や、社会的制約を受けて抑圧されながら、祖先累代から受け継いだ受容反応パターン(性格傾向)というくびきに引き回せられながら。
「私」は、そんな内奥の力動の渦に振り回されて、さらに場面場面の外的環境に対応しながら日常を生きている。「他者」もまた他者なりに、同様に様々な事情や力動を生きている。
これでは私は他者を、他者は私を判れるものではないだろう。

しかし同時に、ヒトは本能レベルにおいてさえ社会的動物であり、他者をわかろうとし、社会を構成しようとする。そして、自我もまた構造的に他者との関係・社会における自分の位置づけによって、構成される。
そういうものなのだ。そうできているのだ。
なのに、やっぱり、相手を判ったつもりになっても、それは幻想でしかない。
そしてこれらの社会や対他者関係によって、「世間」はつくられる。
「世間」は共同幻想でしかないが、ヒトは人間としてそれを生きるしかない。


この歳になって、前回とりあげた「思い込み(Part1、Part2)」の、
「彩色されてゆくことだけで それを成長とよぶのなら 僕は彩を拒むことにしよう」
という歌詞が、身に沁みてならない。
もう充分に社会・世間を生きてきた。でも、人生の終盤にあって、もうそれからは自由でいたい。様々なものが、潮が引くように遠のいてゆくのを感じる。でもそれは決して寂しかったり残念だったりという感じはしない。もちろん、長年住み慣れた「この世」だ。そこからお別れすることを思うとポロポロ泣けてくることもある。でも、それは暮夜一人でしみじみと味わうことであり、誰かと分かち合うものでもない気がする。

ここらへんの機微は、人それぞれなのだろうと思う。最後に誰それと会っておきたいとか何処かへ行っておきたいとか、何かをしておきたいとか…思う者も多いだろう。でも僕は自分の身辺をすっかり片付けて、ひっそりと静かに消えてゆきたい。それだけだ。そんな自我構造なのだ。
だから僕は「世間ほどバカなものはない」と感じるのだろう。
性格傾向、社会的位置づけや役割によって、そこらへんの感覚は人それぞれだろう。それでいいのだ。盛大な葬式を望む者もあれば、逆の者もいる。でもそれに優劣も良否も無い。「世間」に対する態度や見かたや自己規定といった違い…というだけの話だ。


「人はわからない」というよりも、「人は様々だ」というのが正しいだろう。
そう、様々なのだ。ライフステージによって「世間」との付き合いや距離の取り方は変わってくるだろう。それもまた、いいかげん歳をとると、人それぞれなのだ。
「人は様々だ」ということに、やっと本当に気づき、それを受容できるようになった。そして世間と距離をとる態度姿勢が許されるライフステージに達した…ということなのだろうと感じている。
「世間」ほどバカなものはない(その2) - 藤尾
2025/06/01 (Sun) 08:30:17
 ( 承 前 )

小椋佳の「思い込み(Part1)」で
「一日ずっといらついたのは、思いがけなくある人に 穏やかな人 と言われたりして…」
というのがある。

他者を知ることは、ほぼできない。私から見た他者像は、あくまでも私との関係性というフィルターを掛けた上で、私の中で再構築した他者、私にとっての他者、私の中で抱く他者観…にすぎない。
結果、私を他者に判ってもらえることなど、ほぼ不可能だ。
同時に私は自我の安定を求めて、私は自分を繕い、他者に良い(優位な)姿でとらえられたい…と画策する。

私という意識≒自我は、常に内外からの欲求や刺激によって起動され、突き動かされている。そしてそれは超自我による規制、社会的制約によって抑圧され続けている。
「私」の中は、常に行き場を半ばふさがれた力動エネルギーみたいなモノがグルグルと渦巻き、あるいは沸騰し、或いは熾火のように蹲り、内圧を高めている。
「私」の中は、ほぼ常にそんな状態のはずだ。
誰しも。

そんな沸騰する渦を内に抱えた「私」であるのに、外見からは、他者から見ると「穏やかな人」なのであろうか?
そんな内奥が無いかの如く、「穏やかな人」と言われては、たまらない。まるで「私」の半分以上を無いものかのように評されたかのような驚きと焦り。「私」の内外のそのギャップを、外部の他者からの視点を補助線として改めて気づかされた戸惑い。
それらが、ないまぜとなって「私」に気づきをもたらした脅威と戦慄。

     ※

「思い込み(Part2)」では、
・「雪の日がただ好きなのは、ものみな全てが無口になるからだ」と唄う。
上記の延長だろう。外界からの刺激は静まり、内奥からの欲求も休眠する。「私」はシンと静かで穏やかに佇む。

・「彩色されてゆくことだけで それを成長と呼ぶのなら 僕は彩を拒むことにしよう」…。
なんという静かで激しい決意。これは浅くも深くも読め、味わうことができるだろう。青春期にオトナの汚い価値観を拒絶するふうにも、歳を重ねて数周回った上で、「世間」に対して、そっと決別宣言をするようにも感じられる。


https://www.youtube.com/watch?v=w4TbthFEFzs

https://www.youtube.com/watch?v=A1YsVknRRys
ヒドい夢をみた… - 藤尾
2025/05/30 (Fri) 22:25:23
酷い夢をみた。
このところSNSから距離をとっていたが、久々にXを覗いて毒気にあてられた…ということだろうか。大意こんな内容だ。

     ※

騙されたと気づいたのが遅かった。
我が国、太陽国が美帝国との大戦に惨敗を喫して80年経った。太陽国は美帝国の7年間にわたる占領を経て独立を回復したが、「太美合同委員会」により太陽国の政治経済運営は、美帝国の支配を受け続けていた。

しかし、太陽国は美帝国による影の支配を受けるだけでなく、中共帝国に浸食されていた。しかも中共帝国の影の支配は、太陽国の右派を侵食していた。太陽国右派は愛国主義者の代表とみなされ、戦没者慰霊神社への参拝を推奨する、太陽国の伝統的価値観を大切にするなどの政治姿勢を示して支持を集めていた。が、実際のところ彼らは中共帝国と通じており、愛国者どころか売国奴そのものであった。

中共帝国から分派した台椀国は、表面上は中共帝国と対立しており、政治的に美帝国に依存する姿勢を示しているが、内実は中共帝国と通じていた。中共帝国と台椀国は民族的に親類が多く経済的には太い繋がりがあり、美帝国から先進技術を盗み中共帝国に流すというパイプ役を務めていた。中共帝国・台椀国は、美帝国議会にロビーストを送り込むだけでなく研究機関や企業に送り込んだ人員から産業技術、軍事技術情報、先進研究成果を詐取し本国へ送った。
太陽国右派の愛国政治家(実際は売国奴)は、台椀国に自国太陽国の先端技術や工場設備、企業、補助金、企業のあげた利益等などを横流した。その先端技術は当然のように中共帝国に流された。さらに太陽国右派は、中共帝国や台椀国に利する政策や法整備を行い、太陽国を中共帝国や台椀国の属国状態に陥れた。
太陽国の右派政治家はそれにとどまらず、自国企業株や、国営資産や公共事業やインフラ事業、果ては葬儀会社に至るまで、国家の様々な資産をあくどい手法で外資を呼び込んで売りさばいた。太陽国の資産や利益や税金は外資に流れて行き、国民は利益還元を受けた一部富裕層を除き、多くは貧しくなる一方になった。太陽国右派はマスコミ統制によりそんな実態を覆い隠し、多くの国民は愚民政策によって実質奴隷状態におかれても気付かぬままだった。

太陽国右派は、緊急事態条項を盛り込んだ憲法改正を目指しているが、その内実は、国民主権を廃し、国民の自由と権利を制限するという、まるで共産国家のそれのような内容である。これが通ると選挙は行われなくなり、国民の言論や集会の自由は奪われ戦前よりも酷い圧政が敷かれることになる。
これはいったいどの勢力によってもたらされたものなのか…?
騙されたと気づくのが遅かった…。

美帝国の花札大統領は、自国中心主義のとんでもない奴だと思っていたが、今は花札大統領の政治姿勢は極めて意味深く正当なものだとさえ感じるようになってきた

     ※

まったくヒドい夢だ…。
でも実際のところ、僕は親譲りのリベラルで通してきたが、今はトランプ的なものに惹かれている…。
自分でもその変化に驚いている。
「世間」ほどバカなものはない - 藤尾
2025/05/24 (Sat) 14:13:10
1.「世間」ほど馬鹿なものはない。

本邦においては小さな範囲の村落社会が「世間」であったが、昭和期には週刊誌、TVのワイドショー、そして今日的にはSNSによって「世間」はその領域を広げ、本来は見知らぬ無関係な他者であるはずの不特定多数の人々までもが「世間」の範疇になってしまった。人は世間での自身の位置づけを無意識に内在化し、そこでの体面を守ることによって自我の安定を得ようとする。

本来、所属する集落などの小社会が「世間」であったものが、自身が所属すると自己規定したSNSなどの幻想世界が世間になったため、昔とは比較にならないほど「自分と比較する他者」の範囲が広がった。結果、本来無関係で比較対象にさえならなかったはずの自分とはかけ離れた境遇や社会階層の他者までが視野に入り、それと自分を比較することになり、悲喜劇が日々生み出されることとなった。
人は自我の構造上、自分と他者の比較、自分と他者の関係や自分の位置づけを気にしないわけにいかない。また、人は細かい事が気になるようにもできている。今はコイツを攻撃しても許される雰囲気だと嗅ぎつけると、本来自分とは全く無関係な、よく知りもしない他者のことでも、情熱を込めて誹謗中傷に加担し快楽を得る。人間社会では有史以前からあることなのだろうが、SNS社会になってからは他者の範囲は拡大し、さらに自分は安全圏に身を置きながらそれが可能になって、一方通行な部分対象関係的な対他者姿勢が加速されることになった。

馬鹿な世の中になったもんだ。

     ※

2.不必要なものは、潮が引くように遠のき消えていった。

カイシャを引退した今、「世間」は潮が引くように私から遠のき薄らいでいった。
しかも実社会だけでなく、仮想社会であるSNSにおいても。
残った実社会とのつながりも必要最小限の関わりを維持するばかりで、希薄で淡泊になった。社会(世間)に対する過剰な心的依存や期待も弱まり、日常の実生活において腹が立つことも少なくなってきた。(なくなりはしないが、腹を立ててもそこから脱するのが早くなった)

徐々にSNSからも距離を置くようになり、様々な仮想的価値観から足抜けしていった。様々な仮想社会内での価値観に自分が駆り立てられていたことが客観視できるようになり、そこにコミットすることによって躁的防衛のような心理で、自らそんな幻想的価値観の世界にのめりこんでいたことが内省的に理解することがでるようになった。そこで作られ喚起されていた情熱が薄れ、そこでの価値観が徐々に気にならなくなり、自分の中から消えていった。いくつかのSNSから脱退し、残ったものにも、投稿することはほぼ無くなった。

     ※

3.善悪の峻別をすることが少なくなった。

早いもので、カイシャを引退して数年経った。長年、経営管理的に経営側の立場で仕事をし、同時に総務人事屋として従業員個々の生活の内部に深く関わって、カイシャ世界というものの上も下も存分に味わうことができた。
労使双方の立場や価値観を肯定する立場にあって、双方に足を掛けた判断を迫られ、身悶えすることが多かった。善悪・良否・優劣・価値の峻別は困難であることを、身をもって味わった。
カイシャを離れて権限と責任の世界から解放され、厳しく峻別することから解放された。世間に対する距離も取れ、峻別する機会は益々少なくなり、とにかく楽になった。

    ※

4.様々な束縛から解放され、自分で道を選択する

様々な「世間」での価値観や、そこでの自分の位置づけのために、自分の思考や行動はとらわれていた…という気づきを得たというわけだ。そして、そんな世間から離脱することによって、様々な囚われやコダワリから脱することができるようになってきた。
・僕はカメラ趣味沼の住人だったが、必要最小限の機材を残してカメラもレンズも全て手放した。こだわりのカメラやレンズは、もう必要ないと自然と思えるようになった。憑き物が取れたとは、このことか。
・カイシャから完全に引退し、地位や役職位に応じて律していた自分のペルソナから完全に離れた。もう、何でもないただの人だ。実にすがすがしい。
・いつか読むはずだと手元にとっておいた本や雑誌の多くを手放した。本当に再読する時が来るかもしれないものだけを厳選して残し、他は売り払った。残り時間から逆算すると本当にとっておきたい本は、そう多くはない。
・自分は社会人時代、人事屋としての役割から数多くの人間を断罪した。決してその人の全人格を否定することは無いように十分に気を使ったつもりだが、僕を恨む人間は多いはずだ。そんな悔いは残るものの、それはそんなめぐりあわせだったのだと納得できるようになった。(多くの人を斬った自分は地獄行き確定と思っていたが、自分で自分を赦した。地獄とは自分自身の中にあるのだ。まあ、素直に解釈すれば、自分はカイシャに所属していた人間であるという自己規定から、やっと離れられた…ということだろうか)
・自分なりに勉強し内省的な考察を経た結果、人間心理、死生観、宗教観などについての一定の結論に、納得的にたどり着いた。空観と縁起。
ここ数年、徐々に社会(世間)から身を引いてきたわけだが、それでも最後は自身を社会に向けて身を投げうって役立ちたいとも思う。(社会人生活で、お釣りが来るほど働いたという自信はあるが、最後のご奉公がしたいとも思う)それは、検討中だ。
「ことばの日」ということで… - 藤尾
2025/05/18 (Sun) 16:02:02
さて、5月18日は「ことばの日」だそうなので、言葉をめぐる雑談を展開してみることにする。

     ※

言葉は強すぎる。

言葉によって、意味は単線的に立ち上がり、言葉にする前の考えや想いの中心部を明確にする。しかし同時に、その周辺部や内部に隠れていた、意味を下支えしていた広がりや深みを切り捨ててしまう。
曹洞禅が不立文字を掲げるように、分別知である言葉、文字は危険だ。

他者がどんな含意をもって言葉を発しているか、多くの場合理解を誤る。他者がどんな文化を生きているかによっても、言葉の意味や理解の範囲・内容は異なる。あらゆる社会が崩壊し、各人の属する文化は益々細分化し、大きな物語は力を失い、各人は益々様々な価値観を生きるようになった。論理的な理解は相対的に退き、各人なりの「物語による意味づけ」の世界をそれぞれが生きる。

各人の物語は、それぞれがそれなりの言い分や正当性を持つ。複数の他者の間に立って、それぞれを公平に理解受容しようとするとき、複数の価値観に身悶えすることになる。

人は言葉によって思考するが、人の行動の多くは思考以前の無意識領域からの情動によって駆動される。そう思うと、「ことば」は普段言われるほど重要で決定的なものであるとはいえない気がしてくる。自我活動を制御する超自我も、どの程度言葉によって構成されているか怪しい。

とはいうものの、内省に基づく情動のコントロールには、言葉による方向づけや抑止がある程度不可欠だ。(決してすべてではないが)倫理・道徳の分野においても、言葉は(ある程度)必須だろう。

     ※

シンクロニシティ(共時性)は、論理的、言語的な理解ではなく、「物語的な理解」というところがキモだろう。まさに意味のある偶然という納得。
シンクロニシティ体験によって、新たな物語的納得が閃光のようにひらめき、何かが腑に落ちる。
無意識領域に眠っていた負のスパイラルを(夢や描画や創作で)呼び起こし意識化(言語化)することによって、自分自身の無意識領域で渦巻いていたものに気づく。その物語を、新たな視点からの物語によって再構築することによって、負の物語・負のスパイラルから脱する…。
深層心理学(懐かしい言葉だ)の理解では、こんな機序で治癒は起こる。まさに、言葉と、ことば以前の心の動きの共同作業というわけだ。
シンクロニシティは、ともすると神秘的偶然と解されがちだが、それは、「意味のある」偶然という所がポイントだろう。決して神秘体験ではなく。
自身の中で課題として渦巻いている内的事象があるとき、それは出口や解決を求めてアンテナを張りまくっているはずだ。そんな時、(それとは全く無関係な、ささいな)外的事象がそのアンテナに引っ掛かり、新たな物語的理解の糸口を紡いだり、新たな気づきの切っ掛けをひらめかせたりする。
新たな星座「物語」の発見!!
その新たな物語や気づきは、言語化され、さらに強化されて、新たな物語的理解の世界を人は生きるようになる。

言葉で外界に何かを発するとき、それは純化されすぎて危険であり、背景となる文化を見えなくして誤解を生みまくる。
言葉は自身の内界の物語を強化するとき有効に機能する…
言葉は、その峻別する機能によって科学を育んだが、他方、ともすると人の心の表層と深層を分断する。(分断された心は直感的な物語的理解によって統合され、言葉によって強化される…)
言葉の功罪といったところでしょうか。


映画「ドライブ・マイ・カー」自己との(他者との)対峙、その2 - 藤尾
2025/05/13 (Tue) 10:30:30
( 承 前 )

「♪あなたにさえも~染められたくない 心の片隅白いひろがり 白いひととき誰もいない 白いひととき私の白夜 テクニークスー…
あなたにさえも覗かれたくない 私を満たす白い悲しみ 白いひととき誰もいない 白いひととき私の白夜…テクニクス…♪」
と、森山良子が歌う「白いテクニクス」っていうオーディオのCMソングが大昔あったっけ。「ドライブ・マイ・カー」を観て、これを思い出した。

知り合いたいけど、知られたくない事もある。

     ※

大昔「オーディオブーム」というのがあって、家電各メーカーがこぞって参入した。家電各社は(家電の生活臭を脱臭するために)オーディオ製品にメーカー名ではなく「ブランド名」を冠していた。仮面のように。
三菱→ダイヤトーン、日立→LO-D、東芝→オーレックス、NEC→ジャンゴ、三洋→オットー、ナショナル(松下・パナソニック)→テクニクス、といった感じに(そういえばヤマハやソニーは社名そのままで充分イメージ的に通用するということか、別途ブランド名を冠することはなかったなあ…)
そう、オーディオ製品にはイメージ戦略は欠くことができなかったのだ。ブラインドテストでも分かる特徴云々以前に、プラシーボ効果的なイメージ効果が重要とメーカーは心底からわかっていた…というわけだ。

ヒトも、他者に対して自分のイメージを繕う。それは自分のセルフイメージから発する防衛であったり、自己の他者に対する優越を捏造して自我の安定を図ろうとするための企てであったりする。
その場面や社会に合わせたペルソナで適応的に生きる…わけだが、背後には自己防衛が隠れていたりするのではないか。

     ※

「ドライブ・マイ・カー」に戻る。
他者の心はわからない。知りたいけれど。知りたくもないし。自分の都合の良い部分だけ知りたい。他者の心を知ることで、自分が思っているのと違う他者を知ってしまい関係が崩壊するのが怖い。
他者から分かってほしいと思うと同時に、他者に立ち入って欲しくない部分も心のうちに秘めている。他者などに知られたくない。他者からは、自分の都合の良い所だけ知ってほしい。都合の悪い所は知られたくない。
他者を理解したい、他者を知りたい。他者とわかり合いたい。そんなのめんどくさい。知りたくもない。

これらの「他者」の部分を「自分」に置き換えると、「他者」「自分」の表裏一体の関係が垣間見える。
自分にとっての他者は、あくまでも自分の中で再構築した他者でしかない。どこまで行っても。ヒトの自我構造上、そこから逃れられない。
「ものがたり」なのだ。「物語的理解」によって、自他の関係、社会における自分の役割や位置づけはつくられる。他者の存在や他者の理解も。決して「論理的理解」によるものではなく。

他者をわかることはほぼ不可能だ。(ここでも他者を自分に置き換え)自分をわかることも不可能に近い。でも、自分は自分で手掘りして内省的に探究することは(ある程度)可能だ。それは、自分で自分の体を外科手術するように辛く困難を伴うのだが。
ただ、自分の中の他者をしるには、自分自身に向き合い自分の裏も表も納得的に飲み込んで、そのうえで自分の中に位置づけた他者と対峙する必要がある。ものがたりとしての他者は、そのときはじめて自分自身を(他者自身の)姿を現す。あるいは他者が自分語りをはじめるかもしれない。

他者がわからないものであるなら、(他者を本当にわかりたいのであれば)自分自身に問う他ない。他者をわからなくしているのは、自分の内に阻害要因があるからだ。

Re: 映画「ドライブ・マイ・カー」自己との(他者との)対峙、その2 - 藤尾
2025/05/14 (Wed) 21:11:19
映画の最後の場面、みさきが韓国で憑き物が落ちたように幸福そうに暮らしている様子で映画は終わる。

状況の具体的な解釈は様々だろう。
肝心なのは、みさきが心の中で母を(全体対象関係的に)受け入れ、それによって固着した思いから解放された。みさきの心の中の母親は許され、みさきの心の中で穏やかな眠りについた。みさきは呪縛や負のループから抜け出し、バランスを得た心の状態で暮らせるようになった。
さらに、今まで周囲は噓をつく人ばかりだったが、ここに至る一連の出会いによって他者に対する信頼や暖かな思いを経験し、自らの正の方向性にスウィッチが入った…。そんな良き他者、理想自我のように手話の夫妻の家のように犬を飼い、ともに共同作業のようにして心の泥沼から抜け出した戦友である家福と同じ車に乗る(家福のクルマか?)

映画の最後のシーンは、そんなみさきの心的状態を短く映像化して見せたものだろう。

家福も、みさき同様に心に平安を得たであろう。死んだ妻の音とも、やっと深く向き合えたであろう。家福は目を悪くしはじめていた。クルマは、恐らく餞別と祝福の意味を込めて、みさきに譲ったのだろう。

他者と正面から向き合うことを避けていた暗喩としての棒読みのセリフ。家福のどこか奥の方で遠慮気味でよそよそしかった態度。仏頂面で他者に心を閉ざしたようなみさきの雰囲気。
全編を覆っていたそんな空気は最後の場面で払拭される。

映画では描かれていないが、家福とみさきの最後のドライブは、こんな(↓)雰囲気だったんじゃあないか?
(二人とも憑き物が落ちたように穏やかになり、家福は後席ではなく、みさきと並んで座っている)
物語的納得、自己との(他者との)対峙 - 藤尾
2025/05/12 (Mon) 23:02:35
映画「ドライブ・マイ・カー」を今頃やっと観た。
「他者の心の中などわかるはずがない。自分自身の心に向き合い、しっかりと観るだけだ」
といった意味の台詞が胸にしみわたる。

僕は東畑開人のファンだ。「日本のありふれた臨床心理学」「いるのはつらいよ」「野の医者は笑う」は抜群に面白い。そして「すばる」に連載されている占星術研究家・鏡リュウジとの対談「占いと心理学の対話・昼間のスターゲイザー」も刮目せずにおれない面白さだ。「合理的な思考でなく、どんな物語でそれを意味づけるのか」というあたりは、シンクロニシティ(共時性)を理解するのに核となる観方であろう。

さて、そんな東畑開人のZOOMでの講座「令和の深層心理学入門(深さってなんだろう)」が開始されるにあたって、参考文献・映画のひとつとして「ドライブ・マイ・カー」が挙げられていたので慌てて観た…というわけだ。

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自我は、他者との関係・(自分が属すると自己規定した)社会における自分の位置づけによって構築される。自分にとっての他者は、自分の頭の中で再構築した他者像に外ならず、どこまでいっても他者の心の中など判ろうはずもない。だから、私たちはまず、自分自身の心にしっかりと向き合い、そこにある他者像と向き合わなければ・向き合うしかないのだ…。(映画終盤の手話のセリフも、まさにコレを暗喩している。自己防衛を突破した自己受容の後に、初めて神=他者はこちらを向いてくれる…)
それには、表面も影も含めた自己受容が求められる。そしてその後はじめて、他者全体の受容、他者の全体対象関係的な受容ができるようになる。

「ドライブ・マイ・カー」から、こんな学びと気づきを得た。



( ↓ 仏頂面の運転手みさきと、クールというより、どこかよそよそしい感じの家福)
Re: 物語的納得、自己との(他者との)対峙 - 藤尾
2025/05/12 (Mon) 23:18:29
上記の文章を、ChatGPTに投げてDeep Research で深掘りしてもらった。
例によって、不十分な検索を基に偏った情報を牽強付会につなぎ合わせている感は否めないが、なかなか面白いので備忘録的に貼っておく。

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『ドライブ・マイ・カー』における他者理解と自己観察の心理学的考察

「他者の心はわからない」――深層心理から読み解く『ドライブ・マイ・カー』


映画『ドライブ・マイ・カー』の劇中で語られる「他者の心はわからない。自分自身の心に向き合うだけだ」といった内容の台詞は、作品全体のテーマを象徴する名言である。どれほど理解し愛し合っている関係でも「他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です」note.comと劇中人物は語り、観客に**「愛する人の他者性」という難題を突きつける。このテーマについて、平野啓一郎も自身の小説『本心』に関連づけて「どんなに親しい相手でもその人の心のすべてがわかるということは暴力的であって、でも、だからこそ、わかろうと努力して相手と関わろうとする」と指摘しているbungakunomori.k-hirano.com。本稿では、この台詞を手がかりに自己理解と他者理解の構造的困難**を掘り下げる。分析心理学(ユング)や臨床心理学(特に東畑開人の実践)、禅仏教、精神分析(フロイトから対象関係論まで)といった視点から、『ドライブ・マイ・カー』を論じ、最終的に「深層心理学における深さとは何か」という問いへと接続してみたい。スタイルは論文調を基調としつつ、ところどころ講義ノート風の補足(*注釈)も交え、心理学に詳しい読者にとって親しみやすい解説を試みる。


自我の形成と「他者」のイメージ(分析心理学・精神分析)

まず、ユング心理学および古典的精神分析の観点から「他者の心はわからない」構造を考えてみよう。ユングは人間の心(psyche)を「意識と無意識を含む全体」と定義しthesap.org.uk、その中には自我の知らない領域が広がっているとした。特徴的なのは、ユングが「こころとは他者のような存在である」と述べる視点であるnote.kanekoshobo.co.jp。つまり、自分自身の心でさえ自我の思い通りにならず、ときに独立した他者のように振る舞うというのだ。忘れたい記憶がふと蘇ったり、考えまいとすることを考えてしまったり──誰しも経験のある通り、人は自分の心すら完全には制御できないnote.kanekoshobo.co.jp。ユング心理学では心の中に複数の人格的要素(シャドウ=影、アニマ/アニムス=異性の心像など)が存在し、それらはしばしば**独立した「第二の自己」**のように自律的に働くと考えるthesap.org.uk thesap.org.uk。要するに、自分の中にすら「未知の他者」が住んでいるのであり、他者の心となればなおさら直接見ることはできないということになる。 フロイト以来の精神分析もまた、無意識の存在を前提とする点で「人は自分自身を完全には知らない」ことを出発点としている。フロイトは「自我はエス(イド)の僕である」と述べ、自我が自分の無意識(イド)の衝動に振り回されていると指摘したが、これも心の中の他者性と言えるだろう。ラカンはさらに、人は言語や文化の体系(象徴界)が作る「他者(大文字の他者)」によって欲望を規定されると論じ、「人の欲望は他者の欲望である(人は他人の欲望を通じて自らの欲望を知る)」と述べた。難解な理論はさておき、要するに私たちの心の核は、他者や社会との関係抜きには形成されず、どこかに自律的・未知なる部分を残すという点では共通している。 ユングとフロイトの分岐点の一つは他者像の捉え方だ。ユングは内的無意識の人影を元型(アーキタイプ)として扱い、夢や空想に現れる人物像を自分の心の写しと考える。例えば男性の無意識に現れる女性像アニマや、己の影としてのシャドウは、他人に投影されることが多いco.jpkanekoshobo.co.jp
。誰か他人に強い嫌悪や執着を覚えるとき、それは自分自身の中にある見たくない側面(影)を相手に見出しているからだ、とユング派は解釈するkanekoshobo.co.jp。これに対し古典的フロイト派では、他者への感情は転移(過去の重要な他者に向けた感情の再演)として理解される。いずれにせよ、人は他者そのものではなく、自分の心が作り出したイメージや感情と向き合っている面がある。「他者の心はわからない」のは、実のところ「自分は常に自分の心像(イメージ)を通して他人を見ている」からかもしれない。 映画の主人公・家福(かふく)は、劇中で妻・音(おと)の浮気という「他者性」に直面する。愛する妻の秘めた一面を知りながら彼女と向き合えなかった家福は、その喪失後も妻の心の謎に囚われ続ける。彼は妻が遺したカセットテープ(彼女が朗読するチェーホフ『ワーニャ伯父さん』の台詞)を毎晩車中で聞くが、そこには生前に交わし得なかった心の対話が虚しく流れるばかりだ。家福にとって妻の心は死後もなお「不可知な他者」であり続け、その喪失の痛みから彼は目をそらしていた。しかし広島で専属ドライバーのみさきと出会い、長い沈黙のドライブを重ねる中で、自分自身の内面と向き合う準備が少しずつ整っていく。やがて家福は語る。「本当に他人を見たいと望むなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかないんです」note.comと。この言葉には、まさにユング心理学や精神分析の核心が表れている。他者を理解するには、相手の心の奥底を直接のぞき見ることなどできない。できるのは自分の内面を見つめ、その上に投影された他者像を自覚することだけなのだ。


自己受容と対象関係論(臨床心理学の視点)

他者理解の限界を踏まえつつ、ではどうすれば人は他者と健全な関係を築けるのか。ここで臨床心理学、とりわけ対象関係論の視点を導入してみよう。対象関係論とは、精神分析の中でもメラニー・クラインやドナルド・ウィニコットらに代表される学派で、人が幼少期に内部化した**「対象」(特に母親像)とその関係性が、その後の対人関係様式を形づくると考える理論である。平たく言えば、「我々は他者をありのまま捉えるというより、自分の内面に作り上げたイメージ(内的対象)として他者と関わっている」という見方だthepsychpractice.com。対象関係論の臨床家は、クライエント(来談者)が過去の重要な他者との関係パターンをセラピストとの関係(転移)**に無意識に再現する様子を丁寧に読み解き、癒しにつなげようとする。ここでもやはり、人は心の中の「幻想の他者」と対話しているという前提がある。「まるで頭の中で作り上げた二次元の幻想的な人物と関係しているかのように、本物の多面的な相手ではなく、自分の心像だけを見てしまうことがある」thepsychpractice.com
──この指摘は、私たちの日常にも思い当たる節がないだろうか。 例えば映画では、家福は妻・音の浮気相手だった若手俳優・高槻(たかつき)と偶然共演し、同じ車に乗せて会話する場面がある。高槻は家福に向かい、自身の罪や後悔を饒舌に語るが、その長台詞の最後に先述の「他人の心は覗けない」主旨の言葉を述べる人物だ。高槻にとって家福は、自らの孤独や悔恨を映す鏡像(ファンタジー)の他者だったのかもしれない。一方の家福にとって高槻は、亡き妻が愛した謎の青年という理解不能な存在であり、彼と向き合うことは同時に妻の心の謎と向き合うことでもあった。二人が車中で交わす対話は、互いに相手個人を理解するというよりも、それぞれの胸の内で自分自身の葛藤と向き合う契機になっていたように見える。そして物語は、家福がついに妻の死と自分自身の心に折り合いをつけ、高槻とも和解(あるいは諦念)を得ていく方向へ進んでいく。 対象関係論には、心の成長における**「自己と他者の統合」という重要なテーマがある。クラインの理論では、乳児は最初「部分対象(良い母/悪い母)」として他者を分裂的に認識するが、やがて抑うつポジションへ移行し、他者が良い面も悪い面もあわせ持つ一人の存在だと受け入れられるようになる。これは他者像の統合であると同時に、自分自身の攻撃性や依存欲求など「未熟でわがままな部分」を受け入れる自己統合のプロセスでもある。言い換えれば、「他者をあるがまま理解するためには、まず自分の未熟さや不完全さを認め、自己を受容する必要がある」ということだ。映画の家福もまた、妻の浮気という裏切り(悪い面)と、彼女が自分に示した愛情(良い面)の双方を最後には受け入れ、妻という人間を丸ごと抱え直す境地に達したように見える。北海道の雪に埋もれた廃屋の前で、家福がみさきと抱擁しながら「大丈夫だ。僕たちはきっと、大丈夫だ」と繰り返すシーンは象徴的だ。それは妻・音という他者の不可解さを完全に理解できなくても良いのだと悟った瞬間であり、自身の中の喪失感や罪悪感を含めて引き受けた自己受容の瞬間でもあるだろう。対象関係論的に言えば、家福は妻という対象イメージを理想化することも貶めることもなく、その喪失を哀しみつつ現実のものとして心に統合した**。そのとき初めて、彼は前に進む準備ができたのだ。


「無心」「無我」と禅が示す他者理解の限界

「他者の心はわからない」という悟りに近い達観は、東洋思想の文脈ではどのように語られてきただろうか。禅仏教や老荘思想には、自己と他者を巡る示唆に富んだ言葉が多い。老子の有名な一節に「人を知る者は智、自ら知る者は明(めい)なり」note.comというものがある。「他人を理解できる人は智恵があるが、自分自身を理解している人はより一段深い聡明さがある」という意味であり、老子はまさに他人を知るより自分を知れと説いたのであるnote.com。これは先の映画の台詞とまさに一致する見解と言えよう。老子は孔子のように「仁や礼」といった対人倫理を重視せず、「無為自然」の生き方──自分という存在を徹底して見つめ、世界と一体になることを理想としたnote.com
。そこでは他人をどう理解するかよりも、「自分自身を深く理解すること」が根本だとされるnote.com。この思想的伝統を受け継ぐ禅もまた、「他人の心云々」に煩わされるより己の心を究めよと教えるだろう。 禅のキーワードに「無心」「無我」がある。「無心」とは一切の妄念を払い心を空にすること、「無我」とは執着すべき自己が無いと悟ることだ。これらは一見、「自分の心すら空っぽにする」のだから他人への関心を捨てろと言っているようにも思える。しかし禅の paradox(逆説)は、自我への執着を手放した時にはじめて万物と一体となり、他者への真の共感も生まれるという点にある。道元禅師は「自己をならうというは自己をわするるなり(=自己を学ぶとは自己を忘れることである)」と語り、自己を忘却したとき「万法(あらゆる存在)が自己を証する(=自己が万物に現成する)」境地に至ると説いた。これは「自分勝手なエゴを超えて無我の境地に至れば、自他の区別も溶け去り真に他者を知る」という意味にも取れる。禅的な悟りにおいては、「他者の心はわからない」というより「自己と他者の二元対立自体が消える」のだ。もっとも、凡夫にはそこまでの高みに到達するのは容易でない。だからせめて「日々の坐禅で自らの雑念と向き合い、他者への妄想を手放す」ことが奨励されるのである。例えば禅語に「看脚下(かんきゃっか)」というものがある。足元を見よ、すなわち他人ではなく自分の修行に集中せよという戒めだ。結局のところ禅も、老子と同じく「自分自身の心と向き合うしかない」という厳然たる真実を示しているように思われる。 禅仏教にはまた、言語を超えた直接体験を重んじる態度がある。「不立文字(ふりゅうもんじ)」――真理は文字や論理では伝えられないという教えは、その典型だ。他者理解にも通じるものがあるだろう。どれだけ饒舌に語っても、究極的には人と人は分かり合い得ない。しかし、言葉を超えた沈黙の共有や行為を通じて、言葉以上の理解が生まれることもある。映画でも、家福とみさきが長距離のドライブの中で交わす言葉は最小限だが、その沈黙の時間が両者に不思議な連帯感を芽生えさせていた。クライマックスで二人が北海道の廃屋跡で抱擁する場面は、ほとんど説明的な対話もなく進むが、かえって彼らの心が通い合ったことを雄弁に物語っている。禅的に言えば、あれは**理屈ではない「以心伝心」**の境地なのだろう。互いの心のすべてを知ることなどできなくても、その場に真心をもって共に居ることで通じ合うものが確かにある──禅にはそんなメッセージもあるように思える。


シンクロニシティと「物語」の意味づけ(ユング&占星術的視座)

続いて、もう少しユング心理学寄りのテーマであるシンクロニシティ(共時性)と物語的意味づけについて考える。ユングは「シンクロニシティ」を因果関係では説明できない意味的な同時発生事象と定義した
thecollector.com。簡潔に言えば、内的な心の状態と外的な出来事が偶然にも意味深く一致することである
thecollector.com。たとえば有名な「スカラベの逸話」では、ユングの患者が夢に黄金のスカラベ(フンコロガシ)が出てきた話をしていたその瞬間、本物のコガネムシが診察室の窓を叩いたという。この偶然の一致(共時)は患者に強い印象を与え、彼女の心境に変化をもたらしたとされる。このように、ユングは出来事の偶然的な一致に心的な意味を見出すことが心の深層に触れる鍵になると考えた。シンクロニシティはある種の**「物語性」**を帯びる。因果律ではなく「意味」で結ばれた出来事同士は、まるで一つのストーリーのように感じられるからだ。 村上春樹の小説や濱口竜介監督の映画には、しばしば偶然のめぐり合わせが重要な役割を果たすと言われる。『ドライブ・マイ・カー』でも、妻を亡くした家福が広島で偶然みさきという女性ドライバーに出会い、お互いの過去が奇しくも「親しい肉親の死」という共通点を持っていたことが明らかになる。これも冷静に見れば偶然だが、物語の中ではどこか運命的な符合として描かれている。まるで見えない糸に導かれるように、二人は北海道の地でそれぞれの喪失の核心に向き合うことになる。ユング風に言えば、家福とみさきが出会い共鳴したのは単なる偶然以上のシンクロニシティ(意味ある共時性)であり、それぞれの心的課題(トラウマ)の象徴的な解決へと導く物語的必然だったのかもしれない。 また、「物語的意味づけ」という観点では、人間は自分の経験を物語(ナラティブ)として理解しようとする生き物だという点も重要だ。深層心理学者の河合隼雄は「人の心は物語によって癒やされる」と述べ、多くの臨床現場でお伽話や神話の語りが治療に用いられてきたことを紹介している。ユング心理学ではクライエントの夢や想像を物語として尊重し、そこに現れる象徴を解釈することで心の自己治癒力を引き出そうとする。物語は時にシンクロニシティと同様、複数の出来事に一貫した意味を与えてくれる。たとえば占星術は惑星の配置と人間社会の出来事に意味の対応を見出すが、これも人類が古来から行ってきた**「出来事への物語的意味づけ」のひとつだ。ユング自身、占星術に強い関心を抱き、来談者と議論する際にホロスコープ(出生星位図)を参照したとも伝えられる(*占星術の統計研究まで行ったという記録もある)。彼にとって、星の動きと個人の心理の符号もまた集合的無意識の元型が現れる舞台**であり、因果を超えた意味のネットワークだった。
映画『ドライブ・マイ・カー』は一見リアリズム的な人間ドラマだが、その底流にはこうした象徴的・物語的なレイヤーが流れている。劇中劇のチェーホフ『ワーニャ伯父さん』の台詞は登場人物たちの現実と幾重にもシンクロし(例えば家福自身が最終的にワーニャ伯父さんの役を演じることになるのは単なる偶然ではなく、彼自身の心境変化と物語的に響き合っている)、ビートルズの楽曲 “Drive My Car” や劇中の会話の端々にも、多言語演劇や広島という土地の歴史まで含めて複層的な意味の連なりが読み取れる
tufs.ac.jp tufs.ac.jp。観客一人ひとりもまた、自分自身の人生経験と物語を持ち込んでこの映画を観るため、作品中の出来事にそれぞれ固有の意味を見出すことだろう。深層心理学的な視座から言えば、映画と観客の出会い自体がひとつのシンクロニシティともなり得る。鑑賞後に「自分の心の痛みや喪失とどう向き合うかを考えさせられた」と感じるなら、それはこの映画があなた自身の無意識の物語と響き合った証拠なのかもしれない。


東畑開人の「臨床的リアリズム」と映画の接点

現代日本の臨床心理学者である東畑開人は、先述のテーマを現場で実践している一人と言える。彼の著作には「臨床的リアリズム」という姿勢が貫かれているように思われる。それは、華やかな理論より現場のリアルな人間の物語に寄り添う態度であり、クライアントの語る“小さな物語”の中にこそ癒しのヒントを見出そうとする立場である。実際、東畑氏のエッセイ集『心はどこへ消えた?』の紹介文には、彼が日々のカウンセリングで出会う人々の重い荷物を背負った心が変化する瞬間をすくい上げ、それを読む人が「見失ってしまっている心にもう一度出会う」助けとする──といった旨が記されているbooks.bunshun.jp。そして彼はコロナ禍を経て、「あまりにも大きな物語(社会全体の出来事)にかき消されている現代の個々人の小さな物語にこそ、心を軽くするヒントがある」と確信したというbooks.bunshun.jp。この言葉は示唆的だ。個人の小さな物語が、大きすぎる世間の物語によって埋もれてしまう──まさに映画『ドライブ・マイ・カー』でも、広島という被爆地や東日本大震災の記憶(みさきの故郷の地震)といった大きな物語の影の下で、家福とみさきという一組の男女の小さな再生の物語が静かに描かれていたtufs.ac.jp tufs.ac.jp。 東畑開人の臨床談話は、一見地味で日常的な出来事の積み重ねを丹念に描く。派手な奇跡や劇的なカタルシスは滅多に登場しない。しかし読者は、その中にこそ人が変わるリアルな瞬間が宿っていることに気づかされる。これは濱口竜介の映画演出とも通じるものがある。『ドライブ・マイ・カー』もまた、声高な感情表現や分かりやすい解決を避け、登場人物たちの日々の対話と沈黙、移ろう風景を丁寧に映し出す。物語全体は3時間近い長尺にもかかわらず、決定的な事件よりも余白の時間に意味が満ちている。それはまさに**「臨床的リアリズム」的なアプローチ**と言えるだろう。クライアントの語りを傾聴し、その人自身が自分の物語に気づいていくのを待つ心理療法家のように、濱口監督は登場人物が自ら心の変化に至るまで焦らず寄り添っている。東畑氏の言う「小さな物語」は、一人ひとりの内面に潜むドラマであり、それは往々にして世界の大きな潮流とは無関係に見える。しかし実際には、個人の物語の集積こそが世界を形作っているとも言えるのではないか。臨床家が目の前の一人に真摯に向き合うように、映画もまた目の前のキャラクターの心に真摯に寄り添うとき、観る者の心にも深い変容を促す力を持つのだ。 おそらく東畑開人は、『ドライブ・マイ・カー』を観て自身の提唱する「臨床的リアリズム」と響き合うものを感じたのではないかと思う(*実際に彼が本作についてどこかで言及していれば興味深いが、ここでは仮定である)。少なくとも、家福とみさきの繊細な心理的旅路には、臨床家ならではのリアリティが備わっている。カウンセリングの場でも、人が自分の痛みに向き合い回復していく過程は劇的というよりは静かな対話と沈黙の積み重ねであることが多い。映画のラスト近く、家福がみさきの故郷で彼女に寄り添い、自らも涙する場面は、まるで長いセラピーの最終局面を見るようでもあった。クライアント(みさき)が自責の念から解放され、自分を許せたとき、セラピスト役の家福自身もまた癒されていた──そんな相補的な関係性が感じられるのである。それは決して劇的な「問題解決」ではなく、お互いの物語を受け止め直すことで生まれた静かな変容だった。東畑氏の言う「心を再発見して軽くするヒント」は、この映画の中にも確かに息づいているように思える。


深層心理学における「深さ」とは何か

以上、『ドライブ・マイ・カー』の名台詞を手がかりに、様々な心理学・思想の観点から自己と他者の問題を考察してきた。最後に、「深層心理学における深さ」とは何か、改めて問い直してみよう。深層心理学(Depth Psychology)とは文字通り心の深みを探る学問であるが、その「深さ」とは単に心の奥底に隠された何かを暴くことではない。むしろ、日常の表層に現れない意味や文脈を発見する力こそが「深さ」だと言えるのではないだろうか。 ユング心理学で言う深さは、個人を超えた集合的無意識や元型とのつながりであり、夢やシンクロニシティに垣間見える普遍的な物語の層である。フロイトにとって深さとは、意識の下に横たわる幼児期の体験や欲動の痕跡、言語化されず抑圧された無意識的真実だった。対象関係論における深さは、心の中に内在化された他者像との関係性という奥行きであり、それは人間関係の表面に現れる行動の背後にある見えないドラマを意味する。禅や老荘の深さはさらにラディカルだ。彼らは心の最も深い所に**静寂と空(くう)**を見出し、そこから万物の連環を見る。つまり深さとは、「静かな水面の奥に広がる深淵」のようなものだろう。表面的な波(出来事や言葉)の下にどれだけの層を感じ取れるかが深層心理学的な深さだとも言える。 映画『ドライブ・マイ・カー』は、その静かな表現ゆえに「深読み」が可能な作品だった。些細な仕草や何気ない会話の背後に、登場人物たちの計り知れない感情の深みがにじみ出ている。深層心理学的アプローチで本作を眺めると、沈黙や遠回りな語りの一つひとつにすら豊かな意味が宿っていることに気づく。冒頭の音と家福のベッドでの会話(実はコミュニケーションのようでいて肝心なことは何も語られていない「会話ではない会話」bungakunomori.k-hirano.com)、オーディションで手話の女性が紡ぐ沈黙の台詞、広島の階段劇場で各国の俳優が異なる言語で演じながら不思議と心を通わせるラストシーン──どれも、人と人の心の隔たりと交感の可能性を象徴して印象深い。深層心理学における深さとは、このように多義性と余白を持つ表現の中に垣間見える。言葉にされない想い、偶然の符合、時代と個人の二重写し、内面の投影としての風景…。それらを感じ取れる感性こそが「深さ」なのだ。 「他者の心はわからない。自分自身の心に向き合うだけだ」という達観は、決して冷淡な諦めではない。それは自己の内なる深みに潜り、そこに他者とつながる秘密の回路を見出そうとする知的勇気である。深層心理学は、その回路を言語化し物語る試みと言えるだろう。他者を完全に理解することは不可能かもしれない。だが、自分の心の奥底に触れたとき、人はかえって他人への共感と敬意を深めることができる。家福とみさきが互いの物語を語り合った末に相手の存在をかけがえのないものと感じたように、自分の深みに潜り、そこに他者の影を見出すことができたとき、人は孤独を超えて連帯の深みへと達するのではないだろうか。それこそが深層心理学の目指す「深さ」であり、映画『ドライブ・マイ・カー』が静かに観客に提示する人生の問いなのである。