( 承 前 )
小椋佳の「思い込み(Part1)」で
「一日ずっといらついたのは、思いがけなくある人に 穏やかな人 と言われたりして…」
というのがある。
他者を知ることは、ほぼできない。私から見た他者像は、あくまでも私との関係性というフィルターを掛けた上で、私の中で再構築した他者、私にとっての他者、私の中で抱く他者観…にすぎない。
結果、私を他者に判ってもらえることなど、ほぼ不可能だ。
同時に私は自我の安定を求めて、私は自分を繕い、他者に良い(優位な)姿でとらえられたい…と画策する。
私という意識≒自我は、常に内外からの欲求や刺激によって起動され、突き動かされている。そしてそれは超自我による規制、社会的制約によって抑圧され続けている。
「私」の中は、常に行き場を半ばふさがれた力動エネルギーみたいなモノがグルグルと渦巻き、あるいは沸騰し、或いは熾火のように蹲り、内圧を高めている。
「私」の中は、ほぼ常にそんな状態のはずだ。
誰しも。
そんな沸騰する渦を内に抱えた「私」であるのに、外見からは、他者から見ると「穏やかな人」なのであろうか?
そんな内奥が無いかの如く、「穏やかな人」と言われては、たまらない。まるで「私」の半分以上を無いものかのように評されたかのような驚きと焦り。「私」の内外のそのギャップを、外部の他者からの視点を補助線として改めて気づかされた戸惑い。
それらが、ないまぜとなって「私」に気づきをもたらした脅威と戦慄。
※
「思い込み(Part2)」では、
・「雪の日がただ好きなのは、ものみな全てが無口になるからだ」と唄う。
上記の延長だろう。外界からの刺激は静まり、内奥からの欲求も休眠する。「私」はシンと静かで穏やかに佇む。
・「彩色されてゆくことだけで それを成長と呼ぶのなら 僕は彩を拒むことにしよう」…。
なんという静かで激しい決意。これは浅くも深くも読め、味わうことができるだろう。青春期にオトナの汚い価値観を拒絶するふうにも、歳を重ねて数周回った上で、「世間」に対して、そっと決別宣言をするようにも感じられる。
https://www.youtube.com/watch?v=w4TbthFEFzs
https://www.youtube.com/watch?v=A1YsVknRRys