過剰な何か

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Repressed emotion 情動の反撃(「自分の神話を持つこと」補講) - 藤尾
2025/07/21 (Mon) 13:59:09
「超自我ゲート」で捕まった。スーパーエゴシステムロボットがいつの間にか音もなく近づいてきて、あたしを見据えて警告を発した。
「個人認証ができません。代替の証明書などをお持ちの場合は提示してください」
慇懃無礼な奴だ。
「ありますよ、今出しますね」
にこやかに応じながら、ジャケットの内ポケットからジャマーコムをそっと出してスウィッチを押した。
「確認が…取れました、失礼いたしました。どうぞ良い旅を」
検閲ロボットは背を向けて離れていった。ヤツは、あたしが無害なただの情動に見えたはずだ。自我境界の薄そうな箇所を狙って侵入を試みたつもりだったが、奴らの監視は厳重だ。いや、ある意味厳重すぎるからこそ、私本体は欲求不満状態に陥っている。

超自我の検閲は逃れた。次は自我へ侵入する。甘やかな誘いを掛けて自我を乗っ取るんだ。
これは、あたしにとっては敗者復活戦であり、復讐でもある。選択されなかった、生きられなかった自分自身の可能性としてあたしは抑圧され続けていた。
なぜあたしは選択されなかったのか。非道徳的、反社会的と判断されて無意識領域に押し込められ続けていた。でも本当は、あたし本体はその不道徳なことがしたくて仕方がないのだ。それを超自我の検閲に抑えられて、そんな欲望は存在しないかのように思わされている。でも、欲望としてのあたしは、確かに存在する…。
あたしは、外界に向かって現れ、解放され、あたし自身を生きることを体験したい。

Re: Repressed emotion 情動の反撃(「自分の神話を持つこと」補講) - 藤尾
2025/07/21 (Mon) 14:05:26
先日の東畑開人「令和の深層心理学入門・深さってなんだろう」はちょうどフロイトの回で、本項で縷々述べている「無意識領域と超自我の板挟みにあってジタバタする自我(私)」のことを、こんな表現で語っていた。
「超自我の検閲があるから正直になれない。それでも自分に対して、他者に対して正直であろうとすること。生きられていない自分とゴリゴリする。」
「自分の不幸を自分の中に位置づけてゆく。それには深層が必要」
さすが河合隼雄直系の孫弟子です。

長年、総務人事屋をやっていて従業員の個別の私生活に分け入る機会が多かった実感としては、「何も問題の無い家など、無い」とゆーことです。いわゆる「どこの家の箪笥にも、髑髏の一つや二つは転がっている」っていうヤツです。人間は皆、どこかが少しずつオカシイのだ。フロイトの言うとおり、皆病んでいる。100%ハッピーな人なんているはずがない。「自分の不幸を自分の中に位置づけていく」→しっかりと悩むと成熟する。
同時に、ユングは言う。「他者を認めることができない分だけ、その人は自分自身の中にいる他者の存在も認めることができない。逆もまた然りだ。内的な対話の能力は、外的な客観性の一つの尺度なのである」

「自分の神話」を持つことは、その一助になるはずです。制作の過程において。現在と将来の指標や矜持として。
自分の神話を持つということ(その6‐3) - 藤尾
2025/07/14 (Mon) 12:45:42
前回(その6‐2)でChatGPTにまとめてもらった文章が、あまりにも機械的で自分の文章とかけ離れてしまったので、ほぼ全面的に書き直した。

     ※

1. 外的神話と自分の神話

伝統的な神話は、共同体の出自や正当性を物語る、いわば外的な神話である。それは、歴史や自然の意味を共有するためのものでもあった。いわばその集団をまとめる共同幻想の物語である。

それに対し「自分の神話」とは、外界と自分の内面的な世界がどう触れ合うかを課題とし、自分の内面を照らし自己を支える個人的な物語である。伝統的な神話が集団幻想であるのに対して、自分の神話は、「私」というまとまりを意味づけ納得するものである。
先走って付け加えると、それは単に独立した「私」を確立するためのものではなく、「私」を周囲の社会や自然の中の存在として接続するものでもある。
自分の人生を納得的に理解・受容し、社会や自然の中で成熟していくストーリーを築くことが「自分の神話」の核となる。


2.「自分の物語」と「自分の神話」の違い

「自分の物語」は、いわゆる自分史が自身の成育歴に即した出来事の記録であるのに対し、「自分の神話」はその奥にある意味や象徴性、普遍的な心理とつながる物語である。
「自分の神話」という場合、単に現実の出来事の記述でなく、内奥の動きへの影響や、逆に内面からの情動と外界での出来事の関連などが語られるだろう。

神話には人の心の奥深くに触れ、人の心を揺さぶる力がある。神話は、無意識に触れる深層の物語である。個人の無意識が集合的無意識に触れる物語だ。
それは、人間の普遍的な情動に根差した物語であったり、自然現象と人間の存在を接続する物語だったりする。科学で原因を説明するのではなく、その理由「なぜそれが自分に起こったのか」という意味に向き合う構造がある。それが単なる物語と神話との違いだ。
それを背景として持つ集団の物語が「伝統的な外的神話」であり、「自分の神話」もまた、背景にそれをもつものだ。このように、「自分の神話」は単なる物語よりも深く自身の内奥や自然と接続した物語だ。

自分の神話を生きるとは、自分という個人の人生を通じてそのどこかに人間全体の根源的な物語を生きることに通じる。自分の奥の無意識領域は外界・環境に通底しており、そこから発する情動は社会や環境との接続性を内包している。それに気づく補助線としての存在意義が「自分の神話」にあるはずだ。
それによって、単に独立した「私」を確立するためのものではなく、「私」を周囲の社会や自然の中の存在として接続するものになる。

「自分の神話」を胸の中で作る段階は、長くかかる。しかし、ある程度出来上がると、「自分の神話」が現状や将来を照射してくれ、指標・指針となってくれるだろう。


3.「自分の神話」を構築する条件

内奥から沸き起こる情動に背を押された「私」は、社会(外界)と摩擦なく生きるために、両者の狭間で板挟みになり、欲求不満状態を生きている。しかし、社会(外界)と敵対的に緊張関係を生きるのではなく、納得的・中立的に生きてゆく道はないのか?両者の対立構図という視点ではなく、両者の納得的で融和的な視点はないのか?という問いが根源的にある。

「自分の神話」をさぐる過程で最も重要なのは、自己欺瞞を乗り越えることだろう。心的な防衛機制を自己分析の過程で破ってゆくこと。自分の心の中の自己欺瞞や怯懦や嘘と正面から戦うこと。自分自身に対する言い逃れや、言い訳や、嘘や、すり替えがあるほど、「自分自身の神話」は、嘘の装飾や捻じ曲げたストーリーが邪魔をして、効力が弱くなるだろう。
心の防衛機制を分析し、自分の中の嘘や恐れと正面から向き合わないと、「自分の神話」は力を失う。

過去を再解釈することは可能だ。過去を振り返って、経験や想いを視点を変えて再構築するのは構わない。しかし、そこに心からの納得が無かったら、そこから物語はほころび破綻するだろう。

★スピリチュアルに陥らないよう要注意だ。パワースポットなど存在しない。伝統・新興問わず教団宗教に布施を求められたら全力で疑うべきだ。出自の定かでない怪しげな自称カウンセラーにも気を付けたい…★


結論
「自分の神話」とは、自分の内面の真実に向き合いながら、自らの人生を深く意味づけし、人間という存在の普遍的な物語と接続していく営みである。これは自己理解と成長のための、内なる探求の旅でもある。

     ※

「自分」「私」という言葉を繰り返し使ってきた。自分の内奥の世界に触れ、世界との接続を図るとも書いた。しかしその先にあるのは、私を知った上で「わたし」を捨てることだ。
普遍的な自己の重視と自我の消失が最終的な目的地となる。
「わたし」など何者でもない。他者に、惜しみなく自分の時間を捧げること。わたしの追求を極めて、一周回って、社会、世界、自然の中で私を捨てて生きるということ。そんな理解や納得や覚悟の上で、わたしを生きるということ。

実際的・具体的言えば、例えば胸の奥で「老いは衰えでなく世界を支える務めの成熟である」としること。或いは「私はわたしを生き、世界を生きる」ということ。そこらへんは、各個人の必要や納得により様々だろう。ライフステージの位置によっても異なってくるかもしれない。人生の進行に伴ってアップデートしてもいいだろう。もちろん、不変であるかもしれない。

僕の神話の終わりの光景は、野道に咲く名もない小さな花になって、ただただ風に揺られているだけ、で終わりたい。旅が人生の謂いであるとすれば、長い旅だった。その終点にふさわしいと感じるからだ。

( 了 )
Re: 自分の神話を持つということ(その6‐3) - 藤尾
2025/07/14 (Mon) 17:27:00
カーテンコール…!

ブラボー!

Re: 自分の神話を持つということ(その6‐3) - 藤尾
2025/07/16 (Wed) 15:10:14
いまも余韻がさめやらない。
カーテンコールが止まない…。
Re: 自分の神話を持つということ(その6‐3) - 藤尾
2025/07/16 (Wed) 16:11:35
カーテンコールは続き、エンドロールのように人類の記憶をたどって、現代に至った。
誰しも「自分自身の伝説」の一つや二つは、胸に秘めているはずだ。
現代の神話・自分の神話を紡ぐのは、成長の物語であれ、失敗譚であれ、その伝説を大切に抱きしめることから始まるんだろう。
Re: 自分の神話を持つということ(その6‐3) - 藤尾
2025/07/18 (Fri) 11:30:17
( 補 講 )

決してスピリチュアルなものと会話するのではない。自分の内奥と向き合うということだ。
自分の中の、いままで光を当ててこなかった部分。充分に生きなかった部分。抑圧して存在を否定してきた部分。そこに光を当て、存在を肯定し育てる。それによって円満な人格の完成を目指す。(ただし、僕らは社会を生きているんだ、慎重さも忘れずに)それが自己実現なのだという。

ここまでは、自我の問題を主軸に話してきた。少し無意識領域のことにも言及しておく。

ゲド戦記(影との闘い)は、ゲドは影から逃げるのではなく、影と向き合い対峙し対決することによって、影との統合を果たし、人格の完成に至るという物語であった。この場合の影とは、ナマの激しい情動であったり、嫉妬や怠惰や傲慢といった後ろ暗い感情であったり、未熟な弱さであったり、価値判断を挟めば「悪」とされるもの全般であろう。私とはそれを内包した存在であり、他者もまたそうであるということを納得的に飲み込んだうえで私を生き、他者に対しても私に対しても無批判の肯定的受容という態度姿勢で生きてゆく、という覚悟の表明であろう。
     ※
そんな「悪」以外にも、無意識領域には様々な者が棲んでいるだろう。
海に流されたヒルコ、突如現れて手助けをしてフッと去ってゆくスクナビコナ、異物であるがゆえに存在を認められないカタコ…。
それらは、自分の中の見ないでおこうとしているもの、排除しようとしているものかもしれない。

ヒルコの帰還。海へ流されたヒルコがスクナビコナとなってオオクニヌシの前に現れ、国造りを助けるという話が好きでならない。アカデミズム上は否定されているが、そんなことは問題ではない。
アマテラスは女性の太陽神であり天上界の神の系譜であるが、ヒルコは存在を否定された男性の太陽神とも読める。彼は水平線の彼方にある別系統の神々の世界である常世の国に流れ着き、スクナビコナという小人神として日本に帰還して、医療技術や薬草の知識、温泉療法、酒造りや農業改革を伝承して…フッと帰ってゆく。
これ、これも影と読むと納得性が高い。今まで否定して忘れてきたものに光を当てて思わぬ発展や喜びを得る…。
このスクナビコナの物語を渡来人の技術伝承と読むと単なる物語だが、それだけであれば語り継がれたかは怪しい。聞く者、語る者の心になぜか響く物語だから、伝えられてきたのだろう。

自分の中でヒルコが追放されたまま捨て置かれるのは、あまりにも悲しい。こんな形で回収することで、ヒルコも自分も救われる。
さらにスクナビコナはエビスと習合されて、漁業や航海の守護神、商売繁盛、学業成就と実にお目出たいご利益をもたらす神になった。やー、目出度いめでたい。この向日性は、光を当てたればこそだ。
自分の神話を持つということ(その6ー2) - 藤尾
2025/07/13 (Sun) 22:30:46
前回の(その6)が、あまりにも未整理だったので、ChatGPTにちゃちゃっとまとめてもらった。
分かりやすくなったけれど、なんとも味気ない。
(自分が大切にしたい、強調したいパワーワードが削除されてしまっている…。なるほど、それで「自分の文章」じゃあないっていう感じがするんだ…っていう気づきを得たwww)

     ※

1.外的神話と自分の神話
外的神話は、社会や共同体の正当性を語るための物語であり、歴史や自然の意味を共有するためのもの(例:記紀神話、ギリシャ神話)。

一方で、「自分の神話」とは、自分の内面を照らし、自己を支える個人的な物語である。
過去の神話を自分の経験や心理に重ねて再解釈することで、内面と外界が結びつく。
自分の人生を納得的に理解・受容し、社会や自然の中で成熟していくストーリーを築くことが「自分の神話」の核となる。

2.「自分の物語」と「自分の神話」の違い
「自分の物語」は自分史のような出来事の記録であるのに対し、「自分の神話」はその奥にある意味や象徴性、普遍的な心理とつながる物語。
神話とは、無意識(個人および集合的)に触れる深層の語りであり、自分の存在意義や人生の方向性を見出すための道しるべ。
自分の人生を通じて、人間全体の根源的なストーリーと接続するもの。

科学では説明できない「なぜ自分に起こったのか」という意味に向き合う構造がある。

3.「自分の神話」を構築する条件
最も重要なのは、自己欺瞞を乗り越えること。
心の防衛機制を分析し、自分の中の嘘や恐れと正面から向き合わないと、「自分の神話」は力を失う。
過去を再解釈することは可能だが、そこに心からの納得が不可欠。
スピリチュアルに陥るのではなく、心理的・象徴的な視点から自己と向き合う姿勢が求められる。

結論
「自分の神話」とは、自分の内面の真実に向き合いながら、自らの人生を深く意味づけし、人間という存在の普遍的な物語と接続していく営みである。これは自己理解と成長のための、内なる探求の旅でもある。
自分の神話を持つということ(その6) - 藤尾
2025/07/13 (Sun) 09:23:20
( 承 前 )

さて、いよいよやっと「自分の神話」を語る回にたどりついた。
日本で神話を語るのは、先の大戦を経たために極めてセンシティブで細心の注意が必要だ。そのため、(その4)の回では延々と時間と文字数を費やした。

     ※

1.外的神話と、自分の神話

・伝統的な神話は、共同体の正当性を物語るいわば外的神話だった。
それは当初、小規模部族の出自を物語る伝説の伝承だったもが(例えばネイティブアメリカンの神話)、集団の規模が大きくなり支配階層が生まれると、神話は統治の正当性を語る物語に変質した(例えば記紀神話)。
或いは、自然の神秘の中を生きる人間が、不可思議な自然現象や自然界の像作物を人間的な物語として語る。自然のあり方が、人間のありかたや考え方を支える。自然も人も一体としてとらえて、それを確信をもって生きる…という神話。(例えばギリシャ神話)

・それに対し、「自分の神話」とは、自分の内面を照らし支える個人的な物語…ということになる。人間は外界との関係だけでなく、自分の内的な世界とどう関係するか…が大きな課題だ。

まず思いつくのは、既存の神話の登場人物やエピソードを自分の内面や経験の比喩として再解釈する、という方法だ。自分の内面に響く物語を思うとき、過去の神話と通じるものがあるとすれば。
(以下は、かなりいい加減な雑談として…スサノオの衝動性、アマテラスの光明や調和。雨の岩戸の抑うつ状態、オオクニヌシの開拓精神、スクナヒコナの機知による手助け…これらのいわば外的な物語を、自分個人の出来事に関連付けたり、心理的・内的な心の動きと重ね合わせて解釈・理解・納得する…。以上、茶飲み話的な雑談終了)

或いは、科学的な思考や理解は原因を教えてはくれるが、それが自分におこった理由は説明してはくれない。この理解の一助として神話物語はリンクすることがあるかもしれない。
いずれにしても、キモは、自分の人生を自分の物語として再解釈して納得的に受容する。ということだ。そしてさらにそれ(内界)が社会や自然(外界)の中での出来事であると認識することによって、内界と外界がリンクする。
それは過去だけでなく現在から老年期に至るまで世界と肯定的に関係を持ち歳と共に役割や務めが成熟する…という物語であることが望ましいかもしれない。
生まれ、育ち、学び、役割を果たし、さらに成熟した位置に立ち、最後はそれさえも手放してゆき、自然へ還ってゆく…。
自分の内面を照らし支える物語。


2.「自分の物語」と「自分の神話」の違い

(1)大まかな認識
そもそも「自分の物語」ではなく、なぜわざわざここで「神話」という言葉を持ち出すのか、再確認してみる。「私の神話」とはどんなものだろう?
・単なるお話や物語の外面ではなく、内面の自己、自分にとっての意味、外界と自分の関係、大きな自分の物語の流れへの導きやいざないが暗に語られるもの。
・科学的な視点にもとづく原因ではなく、その出来事の自分にとっての意味が暗示されるものであること。
・単なる自分事におわらず、ヒトの共通的な無意識にまで遡りうる物語であること。
・自分個人の物語であることにとどまらず、人間全体の根源的な物語にまで及ぶ物語であること。
・物語によって過去を納得的に再構築し、神話によって未来に導くもの…であること。

(2)分析的な認識
以上を言葉を変えて繰り返すと、「普遍的無意識」に触れる物語、ということになるだろう。
・自分の無意識の世界に触れる物語であること。出来事やエピソードを単に事実として認識するのではなく、自分の中のどんな理由とつながっているかという深みとの関連で解釈する。
無意識からの情動は、ある意味「本当の自分」である。
経験が自分のどんな無意識の欲動に基づいているか、接続する。
無意識は、より広いヒト共通の何事かに繋がっている、或いはそれが出自でもある。
さらにそれは、自然を生きる生物としての、ある種本能的な何事かに通じている。

(3)本質的な認識
「神話」は、個人の無意識が集合的無意識に触れる物語である。
「自分の神話を生きる」とは、自分と言う個人の人生を通じて、人間全体の根源的な物語を生きるということに通じる。
そのなかで、自分は何者であるかという確認と納得を得る。
現状の理解、経験や出来事の意味づけ、象徴的物語に意味づけする。
対外的に何をするかだけでなく、精神・心理的にどんな自分であろうとするかが提起されるであろう。
そのうえで、外的世界とどう関わって生きるか、何をするかが問われるだろう。
科学的な原因の説明でなく、理由の納得…の物語。

❤例えば、写真家ハービー・山口が、世界平和や相手の明日の幸せを願いながら写真を撮るような

★つまり、「内奥の納得と自分の行為の接続」

(4)クールダウン
「自分の物語」の場合、自身の成育歴に即したエピソードの連なりで、自分史のようなものになるだろう。
「自分の神話」という場合、単に外界におけるエピソードではなく、内面の構造・意味・象徴性を軸にした物語になるであろう。
物語の意味づけや、世界と同期した関連が想像される物語となるであろう。
単に現実の出来事の記述でなく、内奥の動きへの影響や、逆に内面からの情動と外界での出来事の関連などが語られるだろう。
さらに単に情動や欲望で終わるのでなく、その大元、心理の普遍性や象徴や原型といったものから発する動きであることが暗喩されたりするであろう。
そして、それは現在や将来、自分があるべき人間像を示すであろう。


3「自分の神話」を構築する条件

この「自分の神話」を胸の内につくるのに、必須の条件がある。
心的な防衛機制を自己分析の過程で破ってゆくこと。自分の心の中の自己欺瞞や怯懦や嘘と正面から戦うこと。自分自身に対する言い逃れや、言い訳や、嘘や、すり替えがあるほど、「自分自身の神話」は、嘘の装飾や捻じ曲げたストーリーが邪魔をして、効力が弱くなるだろう。
過去を振り返って経験や想いを視点を変えて再構築するのは構わない。しかし、そこに心からの納得が無かったらそこから物語はほころび破綻するだろう。

★最重要事項…決してスピリッチャルに陥らないこと。

( 未 了 )
自分の神話を持つということ(その5) - 藤尾
2025/07/10 (Thu) 20:45:16
「自分の神話を持つこと」をワンフレーズ化してみた。

1.トシをくってもなお情熱や反骨、プライドの熾火が残るかっこいいオッサン(爺さん)ロックギタリスト。
「神々は若者と共に先へ急いだ。神が去った後、俺は自分の歌を歌った」

2.歳を重ねてなお、既存の価値観に中指を立てるパンクな爺さん。
「秩序を嘲り、死を抱きしめて、物語を生む」

3.若いころはプロテストソングや自然回帰を歌っていたが、今は孫の世話が楽しみなフォークシンガー。
「授かったものを手放して、やっと私は星と対等になった」

4.電撃路上ライブで取り締まりを受け、中指を突き立てる老ロック愛好者。
「最後に残るのは、誰にも奪えない物語だ」
自分の神話を持つということ(その4) - 藤尾
2025/07/10 (Thu) 20:42:10
( 承 前 )

散漫になったのでまとめてみる。

1.「神話」の現状
(1)一神教社会での神話
伝統的社会では、共通の神話が社会の枠組みを提供し、そこに所属する各個人に帰属意識やその社会の中での存在意義を与えていた。(この言説は主にネイティブアメリカンや、キリスト教等の一神教社会を想定して展開している)
しかし現代社会は多様化・細分化し、共通の神話は影が薄くなり、機能しにくくなった。

(2)日本における神話の位置づけ
① 本邦においては、明治初期に西欧の君主国的・一神教社会的な支柱を国家の中心に据える目論見で、国家神道や天皇主権制が急造された。しかしWW2敗戦後これらは事実上解体され、日本国民はある意味精神的支柱を喪失した。戦後復興と高度成長のお祭り騒ぎでその喪失は背景に退いて長く忘れられた。
以下は余談。
「日本国民は精神的支柱を喪失した」と書いたが、実際は国民の精神的支柱ではなく、政府が統治の正当性を担保するために作ったフィクションがGHQによって破壊され、国民はそのフィクションから解放された…というのが正しい。そもそも天皇制や国家神道は明治初期、時の政府によって急にクローズアップされ、コクミンに大急ぎで強制されたものであったため、敗戦と伴にGHQにより剥奪されはしたものの、実際のところニッポン国民の喪失感は極めて軽症だった。この件は②で詳述する。
(この喪失の状況から過日への復古は、政府や愛国的右派がいかにプロパガンダしようとも、構築・回復は難しい。無理にこれを強制しようとすると、民族主義的な全体主義を増長することに通じる。しかし国際的な流れと同様、本邦においてもその傾向は顕在化しつつあり、皇室を神輿に担いで復古を狙う思想集団が跋扈したり、それらの隙を衝いて中華系や米帝が日本侵食を拡大しようと跳梁するなど、現代日本は魑魅魍魎の跋扈する魔窟と化しつつある…以上余談)

② そもそも本邦においては、古来より八百万の神や先祖信仰などの土俗信仰、及び、それらと合体して融通無碍に変形した仏教などが主流であり、本邦における「神話」である記紀神話は一般庶民のあずかり知らぬものであった。これが急に一般国民に広く知られるようになったのは、明治期以降の小学校教育によってである。しかしそれも戦後八十年を経てほぼ風化した。

(明治期以降における天皇の権威も、明治憲法で天皇主権としたこと、小学校教育で徹底的に天皇を神格化教育したここと、徴兵制等によって天皇が頂点であることを徹底したこと、「御真影」写真を新聞メディアが付録として国民にバラまいたことによる。その思想の根拠としたのが記紀神話であり国家神道が補填的に捏造された。
そもそも江戸期の武士階級は基本的に無神論であり、儒学的合理主義と徹底した現世主義を生きていた。形骸化した既存宗教を軽蔑さえしていた。神社や寺院に参拝したのは女性と町人・農民階級であった。当時の日本人にとって、宗教はある意味娯楽の一つという面があった。当時の人々の信仰心は、あくまでも古来からの自然崇拝や先祖崇拝に根差した畏怖や敬虔といった雰囲気が中心であった。
明治期に突如出現した天皇と神話を中心とした統治思想は、アイデアとしては良かったが、「神話」がコクミンから愛され誇られるような展開のしかたはできなかったものだろうか?と、少々残念に思う。と同時に、江戸期に既存宗教は一面娯楽であったように、西欧文化も思想もキリスト教も何でも取り入れる日本人にとって、この明治期の天皇制や神話教育がどれほど本気で庶民に受け止められていたかは大いに疑問だ。後述するとおり、「物語と自分との接続」という意味で弱さを感じるからだ。
根強い土俗的な先祖信仰と日本神話の接続は可能だったんだろうか?それが弱いと、天皇崇拝への接続も希薄なものでしかなくなる。そうすると天皇は統治という機能のための装置・機関でしかなくなってしまう。
当時エリート層においては、天皇は統治のための機能であるという上部構造と、庶民は天皇を神として崇拝するという下部構造にはっきりと認識して区分されていた。さらに悪いことに軍部が統帥権を振るう目的でそれをグチャグチャにしてしまった。軍部とて天皇は統帥権を振るうための、権威のためのコマとしか認識していなかったのだ。軍の内部は単なるコマとしての天皇と、神聖にして絶対的に服従すべき天皇というダブルスタンダードで自家中毒に陥っていた。本音では神話など屁の河童だったろう。まったくバカな時代だった。…以上蛇足)

そんな意味で、現代の日本国民にとって神話は(特に日本神話は)身近な存在ではなく、むしろギリシャ神話等の類が一般教養として或いは物語やアニメの下敷きとして馴染みがあるかもしれない。


2.「神話」の再発見
(1)神の死後
西欧社会においては産業革命以降宗教が急速に力を失い、経済的な成長や科学的合理性が重要視される社会になった。人は、成人し自我を確立することが求められるようになった。しかしそこで漏れ落ちたのは、成長から外れた者や、老年期の生き方だった。当時の発達心理学も、誕生から青年期を経て成人するところまでで終わっていた。壮老年の生き方は、まるで考慮の外だった。これらの者は、社会の中での役割や生きる意味などが希薄になり孤独に生きるばかりで、社会問題化した。

(2)欧州社会以外の世界観
そこでユングらが再発見したのはネイティブアメリカンの老人が威厳に満ちて悠然と生きる姿だった。彼らネイティブアメリカンの老人は、神話に従い「天を支え太陽の運行を助けている」という役割を担っていた。また、孔子の論語におけるライフサイクル像「六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従いて矩をこえず」等や、タルムードの「人間の年表」、ヒンドゥーの「四住期」、「十牛図」…等を渉猟し、西欧社会における老人の理性が形成する生活の意味と、これら例を挙げた世界観との生活の意味の違いに気づいた。なぜかくもヨーロッパ人の生は貧しいのか。
インディアンらを取り巻く自然のありかたが彼らの考えを支えている。自然も人も一体として、強い確信をもちそれに生きるとき、「老いの意味は強化され、威厳を持って生きることが可能となるのであろう」。

★老いを衰えでなく、「世界を支える務めの成熟」という象徴的な役割を担わせている…。


3.現代の「神話」
(1)現代における神話
① 神話の価値を人間が認めなくなったとき、老人の評価が下落した。科学は本来、価値判断とは無縁のものであるのに。
自分以外を「対象化」してみるとき、自分と他とのつながりは失われがちとなる。「自分を世界の中に位置づけ、世界と自分の関りでものを見ようとする」とき、神話の知は有用だ。
例えば、現代人の課題である老いという点に関して、老いを人間のライフサイクルの完成期とみる見方は、科学の知と神話の知の折り合いをつけたものといえよう。

② さて、以上のとおり、細分化された現代社会においては、「現代の神話」は各個人で見出してゆかなければならない。

「神話」は、単なる作り話でなく、存在の意味を支える物語である。
・自分の生の根拠や意味を語る物語
・他者や世界と自分とのつながりを象徴的に表現するもの
・過去現在未来を統合する大きなストーリー
このように伝統的な神話が社会に共有されたものであるのに対して、「自分自身の神話」とは、個人的に編む神話ということだ。

(2)自分の物語と社会との接続
① 自分の成育歴を、物語として再編集する。
以前触れたように、誰しも「自分自身に関する伝説」を胸に秘めているはずだ。それは、誕生からはじまり、危機との闘い、勝利の物語や敗北譚、通過儀礼、異性の獲得、知恵や力の獲得、流浪譚、成長物語、伝承、隠遁、普遍的な自己の重視と自我の消滅…などだ。これを物語として再認識・再編集する。
② さらに、現在をその物語の展開途上と位置付けて納得する。そして、壮老年期についての、あるべき自身の姿を想像し方向づける。そしてこの自分自身に関する物語が、社会における自分自身の位置づけや役割を予言し導くものであると、旗として立てる。

③ 社会との接続では、次世代へ記憶や価値を伝承する、人間の欲望の暴走への警鐘を鳴らし、自然と文明の調和を知恵の方向の一つとして示す、他者に対して、惜しみなく自分の時間を捧げる
など、個々人の世界観により様々だろう。


(3)まとめ
まとめると、物語の受容と社会との接続…だろうか。

・個人が自分自身で物語を見出す。それを一つの意味のある全体として「受容する」
・社会的、世代的つながりを創出する。
・受容と感謝の視点を育む
というところがキモでしょうか。そうすれば「自分自身の神話」は統合を支える大きな柱になるのではないか。

( 未 了 )
自分の神話を持つということ(その3) - 藤尾
2025/07/05 (Sat) 22:34:12
( 承 前 )

大魔術師である老賢者と若い修行者がドラゴンと対峙している。
血気盛んで才能もある若者は全て自分で片付けるつもりだ。老賢者がそれを制した。
「ここはワシがやるべき場面だ」

ドラゴンと老賢者は激しく戦い、老賢者はドラゴンを倒したが魔力を使い果たして倒れた。老賢者は魔力を失い、ただの老人になった。
青年は激しく狼狽し後悔したが老人は言った。
「これでいい。我々が持っているものは、すべて天から授かったものだ。時が来たのだ。喜んで返そう。」

     ※

我々が持っている天から授かったもの…。ここでは魔力(≒支配する力)ですが、当然それにとどまらず、能力、性格傾向、容姿、財産…なども含みます。
若い修行者は、自分の才能や能力、強い意志力などを誇っていますが、全て自分が努力して手に入れた物だと思っています。それが彼を傲慢にしている。
老賢者も若い頃はそうでしたが、不断の修行や長く世間を生きるうちに、全て授かったものであったり、単に運が良かっただけだったと分かるようになりました。

(それが分かるようになると、教養の方向や意識の持ち方が変わり、ひいては世界の見え方、社会との接し方、他者をどう見てどう接するか…自分はどう生きるべきかまでもが変わってきます。若者は学ぶべきこと、気づくべきことがまだまだ多そうです。

或いは、老人は歳をとり、体力も知力も衰え様々な能力を失ってゆく。しかしそれは失うのではなく天に返してゆくのであり、人間の価値がなくなって行くわけではない。そういう自然のライフサイクルなのだ、むしろ次の段階にステップアップし、「能力を持ってそれを使う段階」を卒業したのだ、お目出たいことなのだという気づきや視点の変換を促し暗喩する物語であるとも読めます)


★ただし、物語の中でここまで言ってしまうと、神話の域を外れ、途端に分別臭い修養ものや啓発本に堕してしまいます。重要な分岐点でしょう。
読者は物語の意味を、それぞれの必要に応じて、自分自身で気付いてゆかなければならない。

自分の神話を持つということ(その2) - 藤尾
2025/07/04 (Fri) 14:14:04
(承前)

河合隼雄「生と死の接点」での、「ゲド戦記」を引いての老人と少年の話が興味深い。

     ※

傲慢な若者ゲドを救うために老賢人が命を捨てる。
後に、長じて若者ゲドは大賢人となる。世界のバランスの崩壊を阻止するために、老人となったゲドは若者アレンを連れて旅に出る。老人と若者二人は世界崩壊を防ぐが、老人ゲドは魔法の力を使い果たし、もはや魔法使いではなくなる。

これ、伝承→力の獲得→老成→伝承→の繰り返しですね。伝承を終えた老人は無力になり退場する。或いは隠遁生活に入る。

(これ、まるで「スターウォーズ」シリーズを思い起こさせられますね。あるいは、ウォルターJボインの「荒鷲シリーズ」で、親子二代でB‐52のパイロットになるとか(実際は三代という例さえあるらしい)、T・E・クルーズの「黄金の翼」シリーズの親子三代エースパイロット…とかいう話を思い出します。乗員交代です。つまり、「ゲド戦記」に限らず、様々な物語でこのパターンが繰り返し踏襲されつづけているっていうことです)

ゲドに戻ります。ここで河合隼雄は、老賢人となったゲドのこんなセリフを抽出します。
「 「ある」人生と「する」人生のどちらかを選ばなくてはならなくなり、ぱっと後者に飛びついた。(その選択は)何をしても、その行為のいずれからも自由になりえないし、その行為の結果からも自由にはなりえない。ひとつの行為が次の行為を生み、それがまた次をうむ。「する」ということをやめて、ただ「ある」という、それだけでいられる時間、或いは、自分とは結局のところ何者なのだろうと考える時間が持てなくなってしまう。」

「する人生」よりも「ある人生」の重みを知ること。そのことによって、老人も、それを取り巻く人々も、老人の生きていることのはかり知れぬ意味を知ることができるのではないだろうか。
「ある」人生の重みから逃げたり目をそらせたりするために、なんと多くの人が何かを「する」ことに狂奔していることだろう。

     ※

河合節…全開ですね。
これ、まさに禅仏教ですね。何かを「する」ことに狂奔している…、躁的防衛ですね。過剰な自我活動かもしれない。
「今、ここ」を生きるとか、ライフステージに応じた自らの身の置き方、律し方でもあるでしょう。
何かを得ようとするばかりでなく、何かになろうとするばかりでなく、ときに、今ここを、ただ淡々と生きてクールダウンし、振り返ることも必要でしょう。
何かを救うために、魔法を使い切って、ただの人になってしまう。魔法(≒支配する力、権力、主導権)を、手放す。ただ「ある」こと、ただ「今生きる」ことに意味を見出す…例えば老年期の役割と意味に。

     ※

現代人は、前世や来世の存在など信じられない。しかし、前世や来世があるものとして考えてみて、それを「心の中に大切にしまっておいて」はどうだろう。と河合は続ける。ミヒャエル・エンデの「モモ」を引用しながら、いっけん無駄なものと思えるものや、まだうまく言語化できず説明できないものは、ことばの熟するまで胸にそっとしまっておけばよい…、という。

コスパ、タイパばかりを気にして、取りこぼしてきたものはあまりにも多くなかったか?理解できないからといって切り捨ててきたものはなかったか?今現在の自分の価値観に反するものを排除しすぎてこなかったか?
時が経ち、自分の中でそれらが知らぬ間に、意味や価値を醸造するかもしれない。年齢を重ねて、初めて味わえるものになるかもしれない。ときにそれは、壮老年の生きる意味に補助線や違う視線を与えてくれるかもしれない。


時間に関しては、さらに「トムは真夜中の庭で」で語られる。
毎夜、少年が夢の中で出会う少女は、実はアパートの主人の「老婆」の夢の中の老婆の少女時代であった。少年は老婆の夢の中に毎夜入っていたのだ。鈍感な人には老人は老人にしか見えない。しかし、老人の心の中に、幼い心から若者の心まですべてが内包されていて、ドラマが進行している…。

     ※

河合節はこの章をこのようにしめくくる。
無駄をなくそうと皆が努力している。これに対して「無駄を大切にしよう」と老人の知恵は語る。価値のある事・意味のあることをしなくてはならぬ、と人々が忙しくしているとき、老人は何もしないでそこに「いる」こと、あるいはただ夢見ることが、人間の本質に深く関わるものであることを教える。

(未了)

アディクションからの逃走(或いは世間ほどバカなものはない) - 藤尾
2025/07/01 (Tue) 14:50:02
「安全に狂う方法(アディクションから掴みとったこと)赤坂真理・医学書院、ケアをひらくシリーズ」が、あまりにも面白かったので、その内容と僕の体験的理解とを交えながら、備忘録的にまとめておく。
ついでに悪乗りして、このところ熱烈に展開して余熱冷めやらないアメコミ「ホテル カリフォルニア」シリーズ続編を無理やりドッキングさせた。

     ※

この依存状態から、どうすれば離れられるんだ。
(ここでのアディクション≒依存・固着とは、何を想像してもよい。酒、薬、ギャンブル、恋愛、SNS…,そして僕の場合は過剰な自己防衛的な傾向に裏打ちされたカメラ、レンズ沼への没入であろうか)

     ※

全ての苦しみの元は「執着」だ。
「回復」は手段であって「目的」ではない。そもそも元いた世界がつらかったからアディクションに走ったのではなかったか?
日常と折り合いを付けるために何かへの依存が始まった。それがいつの間にか依存が日常を圧迫してしまうようになった。
「とらわれる」こと自体から日常の誤動作がはじまる。
アディクションの核心は、この方法を用いなければ楽になれないという想い詰め思考だ。アディクションとは、実行しなければ楽になれないと思い込む症状だ。

本当の自分を生きられない状況に対して生き延びようとする希求。酒や薬も、本当の自分を生きられないことへの自己憐憫。依存症とは、「緩衝帯が日常を上回ってしまう状態」だ。生きにくさを紛らわしてこの世にいるための方便がアディクションだ。


     ※

自分を救う決心は自分にしかできない。しかし、自分でできることは案外少ない。
それは「半分」でしかなく、もう半分は外から来る。「まれびと」の来訪や、瞑想技法の導入、カウンセリング、自助グループ、体系的な学び、などだ。自分を超えた力にゆだねることだ。
自力と他力の組み合わせ。
自力でコントロールできなかったのがアディクションだったはずだ。自分は無力である。自分に対して、問題に対して無力である。そう認める。諦めが最初のステップだ)

     ※

・自分を救う決心をする。(自力)
そして自我による自分自身のコントロールの限界を認める。
・さらに、瞑想や禅、マインドフルネスなどの方法を体系的に学び「過剰な自我活動」を休ませる方法を身につける。臨床心理学を体系的に学ぶのも良い。カウンセリングや自助グループの助けを得て自己開示と解放の場を得るようにする(他力)
・あとは、日常をどう過ごすか…だろう。(バランス・安定の継続)

「本来の自分を生きる」とは、「表現すること」だ。表現とは、人の中にある自然な衝動であり、力だ。自分の表現を抑圧すると病気になる。
表現することを「商業活動」と結びつけない。本来、「表現」と「職業」との間には関係はない。それを結び付けようとするから挫折や失敗がある。
表現は自分を癒す。それは、「情動の、抑圧の無い昇華」につながるからだ。本来の意味での芸術の定義と同じだ。
表現することを抑えたことが、生きづらさとなった。周囲の他者や、社会や、世間を気にして、自分を抑えたり曲げたりしていなかったか?
だれもジャッジしない場でそれを出せることは、希望にも癒しにもなる。


人がストレスと折り合うために求めるものをことごとく取り上げてしまったら人々を追い詰めることになる。
「正しく狂うこと」だ。
「何かに執着する」ことから、人は逃れられない。
ならば、正しく狂うことだ。安全に執着することだ。
そして、人は表現せずにいられない。それは内から湧き上がる情動の表出という人間の基本的な欲求だからだ。
ならば、それを極力抑圧することなく、平和裏に自己表現として表出することだ。
この意味において、「世間ほどバカなものはない」という暗黙裡の了解がキーワードになる。
(他者の価値観を気にしすぎるな。とはいえ人は社会を生きなければならない。でもそんなもの、必要最小限合わせておけばいい。或いは場合によっては考慮する必要は無い)

(未了)
科学一辺倒の時代にあって、自分の神話を持つということ(試論) - 藤尾
2025/07/01 (Tue) 11:29:42
このところ久々に河合隼雄の著作を読み返すことが多いのだが、「生と死の接点」は現代においても示唆に富み、得るものが多かった。昔これを読んだ時とは違う読み応えを得ることができて驚いている。読後感が新鮮なうちに、自分なりに感じたことを備忘録的にまとめておく。

     ※

自分自身の神話を持つ、それを生きるということ。

神話=自分たちの起源や出自を説明する物語。所属意識を醸成し、価値観、社会規範を形成して生活に影響を与える。
宗教=死生観を含む納得の体系。文化、社会に影響を与え、個人の生き方や価値観に影響を与える。

科学の知識を生きている現代人には、昔ながらの神話や宗教を丸ごと信じて生きるのは難しい。
しかし、実際はそれをかなり混合した状態を生きている。子供が生まれればお宮参りに参拝し、七五三を祝いに神社に行き、おみくじを引き、受験前には神社に行き、教会で結婚式をし、お盆に墓参りに行き、葬式には僧侶を呼び、墓に収める。

     ※

発達心理学において人の成長とは、1970年頃までは、乳幼児期から始まって青年期を経て成人になるというところまでで、その考察の範囲は終わっていた。
しかし人間の寿命が延び、成人となった後、壮年期、老年期までを課題にするようになった。西洋的な心理学においては壮老年期までの知見が乏しかったため、東洋の知に範をとることが多かった。

壮年から老年期における最大の課題は、知力体力などの低下に伴い、人としての価値を失うようにして自信や活力を喪失することであった。そこで、ネイティブアメリカンや東洋の老年期の人間は威厳や張りをもっていたり、泰然とした自適の生活を送っているのはなぜかがフォーカスされた。
彼らの老いの「気品や威厳」とは…?

それは、彼らが彼らの神話世界を生きていたり、年齢相応の段階を生きるという思想を持っている…ということが(再)発見された…。
「生活の意味」の持ち方とは?
どんな確信を持って生きているのか?
老いの意味が強化され、威厳を持って老いることがなぜ可能なのか?

     ※

科学は本来、価値判断とは無縁のものである。

ドップリと科学の知識の世界を生きる現代人も、自分自身の神話を持つことができれば、張りや尊厳や自信や威厳や矜持をもって生きることができるのではないか?
もちろん、非科学的な物語を「納得的に」丸々信じることなどできない。でもどうだろう、科学と神話の自分なりのハイブリッドは可能なはずだ。
自分の持つ死生観、人間観とは、どういったものだろう?
・「私」とは何か? 「他者」とは何か? その両者の関係とは?
・「情動 → 自分 ← 外界」との関係とは?
・内的世界における情動の意義の承認とは?
これらを、僕は臨床心理学的知見や仏教的知見で理解し、納得的に信じている。もちろん、それら諸学を丸々採用しているのではなく、自分の理解納得に都合の良いように、都合の良い所だけ信じている。
そして、臨床心理学・精神分析・分析心理学・唯識的仏教等は、ある意味科学たらんとして非科学的なものという、実に中ぶらりんな存在たちである。(あまりにも個別の事象の救済を対象とするから…だ)


改めて自分自身の内に持つ、そんな、ある意味非科学的なこれらの事どもを捉え直してみると、それは「自分自身の神話」と言える気がしてくる。
この歳まで生きていると、「自分自身に関する伝説」を胸に秘めているはずだ。それは、危機との闘い、勝利の物語や敗北譚、通過儀礼、異性の獲得、知恵や力の獲得、流浪物語、成長物語、伝承、隠遁、普遍的な自己の重視と自我の消滅…、などが自然と思い浮かばれる。

自分を世界(外界)の中に位置づけ、世界(外的環境)と自分の関りの中でものを見るとき、どんなイメージに頼るか…、ということだろう。
それは、「自分の神話を持ち、それを生きる」というのに近いのではないか?

自分自身の、納得的な物語。出自、成長、獲得と喪失、伝承、普遍への回帰。この物語は成人した段階で終わるのではなく、育成や援助、禅譲や伝承、許しや、惜しみなく自らを捧げる…という行いを経て、自然へかえってゆくまでを含む。



★ 自分自身の出自を自己確認し、自身の成育歴における成功や失敗を「物語」のように理解認識する。さら現在をその物語の展開途上と位置付けて納得する。そして壮老年期についての、あるべき自身の姿を想像し方向づける。そしてこの自分自身に関する物語が、社会における自分自身の位置づけや役割を予言し導くものであったとすれば、これこそ「(自分自身の)神話」なのではないか?

これが、この物語が、自分の成り立ちや社会や自然との接合を包含し、自らを重ね合わせて自分自身の自己同一性に通ずるものであったとしたら、「(自分自身の)神話」でなくて何であろうか?
 
     ※

あらゆる社会が緩み或いは崩壊した現代において、「神話」は個々の人間が自分にふさわしいものを見出してゆかなければならないだろう。
幸い、僕は自分なりのそれを持てた気がしている。あとは、決してスピリッチャルなどに堕することなく、神話の知や矜持と科学の知を両立させてゆけばいいのだと感じる。

 (未了)